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太田述正コラム#5598(2012.7.14)
<戦前の衆議院(その4)>(2012.10.29公開)

<濱田國松(注5)議員>

 (注5)1868〜1939年。「三重師範学校を卒業後小学校教員となるがその後上京し明治24年(1891年)に東京法学院(現・中央大学)を卒業、弁護士となる。・・・1904年・・・旧三重県郡部選挙区から衆議院議員に初当選する。以後連続12回当選。・・・衆議院副議長を経て・・・1925年・・・に立憲政友会に合流。・・・1927年・・・、田中義一内閣の司法政務次官。・・・1934年<から>・・・1936年<まで>衆議院議長を務める。
 ・・・粛軍演説やのちに反軍演説を行った斎藤隆夫、人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出す。・・・1937年・・・には寺内寿一陸軍大臣との間で「腹切り問答」を繰り広げ、軍部の政治への干渉を厳しく批判する。この時濱田は70歳、議員歴30年、前衆院議長。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%9B%BD%E6%9D%BE

 「・・・厳重なる戒厳令下に、言論の最も自由を有する帝国議会を開かざるを得ないと云う一事は、如何に致しましても世界に対する帝国の面目上、深く遺憾としなければならない次第であります。・・・
 現内閣は組閣の声明に於いて頻りに挙国一致を要求して居るのであります。且つ又現内閣は時局の安定を一大使命として居られます。時局の安定は人心の安定である。国民の口を塞ぎ、其の筆を奪うて人心の安定を求められると云うことは、実に謂われなきことである。漫然と時局の重大に口を藉って、言論の自由を妨ぐるが如き政治が行わるるものであったならば、是は実に立憲政治の破壊行為であります。・・・
 本員等は曩に前岡田内閣の国体明徴に関する所信<(注6)>を不徹底なりと致しまして、之を主要の理由として内閣不信任案を提出して、遂に議会の解散を見るに至った<(注7)>行掛りを有って居る。故に岡田内閣は崩壊をして形を止めないが、国体明徴の観念に関する信念などと云うものは、内閣標準として吾々は検討して居るのではない。故に現内閣の此の点に関する所信にして、若し不徹底なる場合に於いては、従来の政治趨向に従って、如何に今日我が国の現状が挙国一致の必要がありと申しても、遺憾ながら国体の信念を之に賭して盲従すると云う訳には参りませぬ。故に此の問題に付いては、質問の劈頭に於いてお尋ねを申し上げたいと思うのであります。」(二七〜二九頁)

 (注6)「1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫<(下出)>議員が、天皇機関説<(コラム#345、2059、3063、3065、4515、4715、4792、5020、5319、5372)>は国家に対する緩慢なる謀叛であり、<勅選議員の>美濃部<東大法学部教授>を学匪と非難した。この演説を引き金に<一部世論>による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は発禁となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。さらに政友会<と一部世論>は国体明徴運動<が>・・・機関説排撃運動が全国的に展開<し>たため、岡田内閣はその対応策として1935年8月3日「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(第1次国体明徴声明)。
 これ<で>・・・運動は終息するかに見えた。美濃部も1935年9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が・・・反発を招き、紛議が再燃。・・・1935年10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国体明徴声明)。第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。
 以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき・・・は、これが学術論争といった類のものではなく、政争の道具にされた点である。つまり政友会による岡田内閣倒閣運動に使われた・・・のである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E6%98%8E%E5%BE%B4%E5%A3%B0%E6%98%8E
 「菊池武夫(1875〜1955年)。陸士・陸大。「菊池氏は中世以来の肥後国の名族で、南北朝時代は南朝に属した。菊池氏(米良氏)は明治になって他の南朝功臣の子孫と並んで華族に列せられた。父は旧米良領主の男爵・・・
 <陸軍中将で>予備役編入後は、1931年・・・より貴族院議員(互選による男爵議員)として帝国議会に議席を持ち、商工大臣中島久万吉の足利尊氏論を糾弾。また、1935年・・・には美濃部達吉・・・が唱え、当時の憲法学の通説だった天皇機関説を攻撃し、・・・国体明徴運動の契機を作った。
 菊池は・・・、天皇機関説の趣旨を全く誤解して美濃部を批判しており、美濃部が貴族院本会議で天皇機関説を説明するのを聞くや「至極納得した」と批判を止めている。しかし、菊池の批判をさらに誤解した一部の<世論>が、美濃部に対して「いやしくも天皇陛下を機関銃に例えるとは何事か」などと大掛かりな批判運動を展開<することとなった>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%A4%AB_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
 (注7)五・一五事件で憲政の常道が中断し、前朝鮮総督(武断政治に代わって文治政治を推進)の元海軍大臣(シーメンス事件で辞任)、斎藤実が首相に就任したが、「<軍拡派は>嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔した。その犠牲になって辞任する閣僚も出たが、齋藤は後任人事を務め抜き、何とかしのいだ。しかしながら、帝人事件で大蔵次官らが逮捕されるに及んで・・・内閣総辞職に追い込まれた。・・・齋藤は同質・同型の岡田啓介内閣をつくる布石を打ち、成功させた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E5%AF%A6
 「<岡田は、>1927年・・・に海軍大臣となり、1932年・・・に再び海軍大臣に就任。その間軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、・・・条約締結を実現し<ている>。
 1934年・・・元老・西園寺公望の推奏により・・・斎藤実の後継として・・・組閣の大命降下、内閣総理大臣となる・・・立憲政友会は入閣した高橋是清・床次竹二郎などを除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。・・・岡田は・・・ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、<軍拡派>は・・・<天皇機関説問題等を利用して、>ことごとに揺さぶりをかけ、・・・1936年・・・1月21日に<は>野党の立憲政友会による内閣不信任案の提出が行われ、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた・・・総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B

→濱田國松のこの質疑こそ、戦前の日本における政党人たる政治家の志の低さ・・だからこそ、世論の大勢は官僚や軍人を政党人よりも信頼するに至った・・を浮き彫りにする好事例です。
 彼の属していた立憲政友会は、憲政の常道の中断の後、名実ともの挙国一致内閣樹立に協力すべきであったのに、斎藤内閣の時も岡田内閣の時も、それまで同様、政局的な内閣打倒運動に狂奔したのです。
 とりわけ、政友会が、岡田内閣の時に、言論の自由が政党政治の大前提であるにもかかわらず、この自由を、天皇機関説の排斥運動の中心となることによって、自ら侵害するという自傷行為的愚行を行ったことは、強く批判されてしかるべきでしょう。
 濱田國松は、この政友会の大幹部の一人として、以上の全てについて責任があります。
 (1936年の総選挙における政友会の大敗北は、かかる政友会に対して世論の大勢が鉄槌を下した、と解してよさそうですが、濱田の質疑には、自らを省みる謙虚さが全く見られません。)
 そんな濱田が、広田内閣に対する最初の質疑において、厚顔にも言論の自由を口にしつつ、その自由を侵害した結果の産物たる国体明徴(声明)について、広田内閣の見解を改めて問うた下心はミエミエであって、政府側答弁いかんによっては、再び内閣打倒運動を展開することを目論んでいた、といったところでしょうね。(太田) 

(続く)

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