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太田述正コラム#5547(2012.6.19)
<再び太平天国の乱について(その5)>(2012.10.4公開)

  イ 欧米列強による干渉

 「・・・まるでモンティ・パイソン(Monty Python)<(注16)>の中から飛び出してきたみたいに、この場面にうっかり入りこんだのが、帝国主義の旗を掲げ清の皇帝から交易に関して諸譲歩を引き出すことを狙ったところの、戦艦群からなる連合国艦隊だった。

 (注16)「1969年から始まったBBCテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で人気を博し、その後もライブ、映画、アルバム、書籍、舞台劇等で活躍の場を広げ<た>・・・イギリスの代表的なコメディグループ。・・・あらゆるジャンルのポップ・カルチャーに大きな影響を与え、「コメディ界におけるビートルズ」と表現された。その不条理なスタイルは、「Pythonesque」という造語で表され・・・る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3

 (大部分は英仏<の艦艇>だったが、ロシアと米国の<艦艇>も含まれていたところの、)連合国艦隊は、自分勝手に支那の内戦での中立を宣言していたが、<清政府と太平天国との間の>戦闘をしり目に蒸気で航行し、北京への海上の玄関口であるところの、黄海に面した塘沽(Tanggu)要塞群に到着した。

 (注17)書評子はTakuとするが、Tanggu(塘沽)のことだろう。塘沽は、「渤海<(Bohai)>の海岸に位置し、海河の河口がある。天津市中心部からは海河を50kmほど下った位置にあり、華北地区の重要港湾である天津港は塘沽の臨海地域を中心とされていた。」そして、ここには、かつて、天津を守る大沽口砲台があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%98%E6%B2%BD%E5%8C%BA
 「渤海・・・は、中国北部、遼東半島と山東半島の間にある内海状の海域である。・・・東は渤海海峡を通じて黄海に続いている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E6%B5%B7%E5%9F%9F)
 ここから、書評子が、「黄海に面した」としたのも不正確であり、「渤海に面した」でなければならなかった。

 皇帝が彼らと交渉すべく代表を送ってこないことに腹を立て、連合国軍は、塘沽の軍事施設に砲火をあびせかけ、500人の清の部隊を殺した。
 短時日でもって、各国はそれぞれ新しい条約を手にした。
 英国版(「平和友好通商条約(Treaty of Peace, Friendship and Commerce)」)には、支那人達が英国人達を、私的書簡の中においてさえ、「野蛮人達」と呼ぶことを控えることを求める条項が含まれていた。
 母国に戻って皇帝による署名のための批准された写し群を確保した後、1300人からなる連合国軍が、1859年6月に塘沽要塞群に到着した。
 今回は、清軍が「雷鳴の如き射撃と砲撃の連射」を行い、29人の将校を含む、400人の英軍兵士が殺された。
 この行為は、当然のこととして、たちの悪い反撃をもたらすこととなった。
 一年後の1860年の夏、反撃は、(184隻の船と24,000人の部隊からなる)新艦隊の形をとって行われた。
 この艦隊は、塘沽要塞群を破壊した後、北京の南方を目指した。
 その地で、司令官達は、清の役人達に<対処する>時間<的猶予>をついに与えた。
 英軍の司令官たる第8代エルギン伯(the eighth Earl of Elgin)<(コラム#4560)(注18)>が皇帝の面前で叩頭(kowtow)をするかどうか(彼は拒否した)を巡って交渉が行き詰った時、皇帝は不意打ちを命じた。

 (注18)Sir James Bruce, 8th Earl of Elgin and 12th Earl of Kincardine。1811〜63年。イートン、オックスフォード大卒。カナダ総督、次いで、支那と日本との交易開始を担当、その後、インド副王。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Bruce,_8th_Earl_of_Elgin

 皇帝の戦士達は、英国の首席交渉者とロンドン・タイムスの記者を含む26人を捕虜にした。
 恐るべき新アームストロング砲を装備したこの連合国軍は、北京を襲い、最初に皇帝の偉大なる夏宮を略奪し、次いで、(上記捕虜のうち、記者を含め、15人が殺されたことを知った後、)この宮殿の800エーカーもの庭園群と建物群を焼き討ちした。
 ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)<(注19)>は、「これが文明の野蛮に対する仕打ちなのだ」と語った。・・・

 (注19)1802〜85年。「フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。・・・政治家としての彼は逆境の連続であり、さらに幼少の頃から家庭生活は不幸の連続であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC

 あえて言うなら、すばらしい学者にして将軍であった曽国藩が清軍の総指揮権を執って太平天国の枢要なる要衝を奪取し始め、かつ、米南北戦争の勃発によってその経済が大きな打撃を受けた英国の自由党政権が、叛徒達が「実現不可能(impracticable)にして御し難い」交易相手であると見極め、王朝側に与して戦いに加わることを選択したことによって、膠着状態が打開された。
 太平天国は、ロンドン・タイムスの言によれば、「我々と黄金の林檎群(golden apples)<(注20)>の間を妨害する龍」だったのだ。

 (注20)欧米における様々な説話や妖精物語に登場するところの、怪物によって隠され、或いは盗まれ、ヘラクレス等の英雄によって取り戻されるアイテムである。北欧神話では、聖なる食物であり不死の源。
http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_apple

 最初は太平天国の支持者だったカール・マルクスでさえ、叛徒達は「民衆にとって古い支配者達よりもむしろ大きな災厄である」と信じ、共感を捨てた。
 最終場面は、とりわけ目を顰めさせるものがあった。
 外国の軍隊の助けを借りることなく、プラットが、「どんな空港の本屋でも、何ダースもの彼の人生と文章に関する数々の本が手に入るほど、今日の支那において人気がある人物群の一人だ」と記すところの、曽国藩は、早晩、喉を締められて死ぬこととなる、叛徒の南京における首都の攻囲を命じた。
 1864年7月、この都市の古い城壁の下に爆発物群が仕掛けられ、その爆破によって200ヤード幅の穴がくりぬかれた。
 その後に起こった殺戮は、余りにもおぞましかったため、清の役人達ですら不快に思ったほどだ。
 「子供達と赤子達、その中には2歳になっていない者もいた、が、遊び半分に切り刻まれたり踏み殺されたりした」、と一人の兵士が日記に記した。
 その数週間前に病に斃れたことから、洪秀全を殺し損ねたところ、帝国軍は戦争を終えるにあたって、最後の子供殺しを行った。
 天王<たる洪秀全>の小さい息子の「若き君主」は、南京の南400マイルの所でとらえられ、<太平天国>承継の可能性を排除するために殺された。
 <こうして、>清王朝は、更に50年間生きながらえることになった。・・・」(C)

 「<ちなみに、>・・・清の慈善のうわべだけの姿勢といったところだが、少しでも威厳をもって死ぬ機会を<太平天国の>罪人に与えるためとのふれこみで、田舎の各所に、短刀と縄を備えた自殺所が設立された。・・・」(C)

 「・・・叛徒を壊走させた主役は曽国藩だった。
 彼は、儒学者から転じた将軍であり、攻囲を基盤とした戦略を考案し、最終的に叛徒の首を絞めた。
 銘記すべきは、彼の満州人のご主人達の外国の支援を受けることへの忌避感情を曽も共有していたことだ。
 それは、部分的には彼の自分の戦略への自信から来ていたが、主として、欧米の支援を求めれば野蛮人達に支那におけるより大きな影響力を与えることになるからだった。・・・」(E)

3 終わりに

 私は、プラットの太平天国観に著しい違和感を覚えました。
 太平天国の乱は、客観的に見て、まことにもって救いようがない愚行であり悲劇であった、と思うからです。
 大前提となるのは、清朝が、(支那が何度も繰り返してきたところの、)王朝サイクルの末期に入っていて、既に名存実亡の状態になっていた上、支那がその史上初めて、欧米や欧州の外延たるロシアとの交易上、及び軍事上の「侵略」に直面するに至っていたことです。
 ところが、そのような環境の下、叛徒側の指導者たる洪秀全は、科挙に落ちた敗け組として、そのうっぷんを晴らすためにカルトを創始し、叛乱を起こしたのに対し、清側では、科挙に通った勝ち組たる曽国藩や李鴻章が、進士としての特権を享受しつつ、叛乱軍と戦いつつ欧米連合軍とも戦うという愚かな判断を下す帝室の下、ひたすら体制の犬として叛乱の鎮圧にあたった、というのですから、何をかいわんやです。
 しかも、以前にも記したように、洪秀全の創始したカルトは、支那の伝統的弥勒信仰と、欧米直輸入の黙示録的キリスト教という、二つの千年王国/終末論思想の影響を受けた(コラム#4898、4900、4902)、まことにもっておぞましい代物であったのですからね。
 (書評子の一人はモルモン教に準えていましたが、私ならオウム真理教・・ただし、オウムとは違って太平天国は現世利益志向(コラム#4902)・・に準えたいところです。太平天国は、オウムが武装解放区を日本に作ったようなものであり、オウムのために死んだ人数の100万倍の人数が太平天国のために死んだ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
わけです。)
 私は、太平天国は、支那の抱える様々な深刻な問題点の一つの表れであって、この問題点を増幅した形で負の遺産としてその後の支那史に残した、と受け止めるべきである、と考えます。

 最後に蛇足ですが、戦前の日本の政治家の言葉が、英米の著作の中で、今回の伊藤博文のケースのように、権威あるものとして引用されることは決してめずらしくないけれど、当然のことながら、戦後日本の政治家の言葉については、英米の著作内で遭遇したことが、ほとんどありません。
 何とさびしいことでしょうか。

(完)

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