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太田述正コラム#5492(2012.5.20)
<第一回十字軍(その3)>(2012.9.4公開)

 「・・・しかし、フランコパンの主たる典拠は、アレクシオスの娘のアンナ・コムネナ(Anna Comnena)<(注8)(コラム#2384)>が、彼女の夫のニケフォロス・ブリイェンニオス(Nikephoros Bryennios)を引き継ぐことで完成した『アレクシオス1世伝(The Alexiad)』だった。

 (注8)1083〜1153年。「神話、地理学、歴史学、修辞学、弁証学、プラトン及びアリストテレス哲学に深い知識を<持つ。>・・・1097年、マケドニア地方の名門軍事貴族出身のニケフォロス・ブリュエンニオスと結婚した。1118年に父が死去すると、実弟ヨハネス2世コムネノスの代わりに夫を即位させようとしたが失敗。この際弟ヨハネスは姉に対して寛大な処置を取ったため「カロヨハネス(心美しきヨハネス)」と呼ばれるようになる。隠棲したアンナは母エイレーネーが隠遁していた修道院に入り、・・・「アレクシオス1世伝」を夫の没後引き継ぎ、完成させた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%8A

 唯一の問題は、アンナが、十字軍については、その成り行きを語っているだけで、その起源については何も語っていないことだ。
 起源に関しては、フランコパンは、フランスやイタリアの典拠と、それらから彼が行うことのできる推論に拠らなければならなかった。
 彼女の父親が権力を掌握するより前、ビザンツ帝国が小アジアをトルコ人達にとられそうになっていたというアンナの説に、フランコパンは異を唱え、十字軍に解放してくれと<アレクシオスが>呼びかけたところの、ニケーアとアンティオキアをトルコ人達が占領したのは、ビザンツ帝国の東方の諸州を安定化するために、アレクシオスの黙認の下で、或いはひょっとしたら彼の招待に応えて、行われたということを彼は示唆する。
 フランコパンは、タティキオス(Tatikios)<(注9)>のような、ビザンツ帝国の指揮官達の<名誉>も回復させる。

 (注9)1099年より後に死去。アレクシオスの父親の男性たる奴隷・・トルコ系であったと思われる・・の息子として、アレクシオスと共に育つ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tatikios

 彼は、欠けた鼻を金の鼻で覆っていたが、十字軍従事者達から、アンティオキアを包囲者達から救い出すために船舶群を送るという約束を守らなかった、として非難された。
 「彼は嘘つきであり、永遠にそうだろう」と、西側の主たる年代記であるゲスタ・フランフォルム(Gesta Francorum)<(注10)>の著者は記した。

 (注10) 1100〜1101年頃書かれた、ラテン語で書かれた作者不詳の年代記。『フランクの功業(The Deeds of the Frank)』。完全なタイトルは、『フランク等のエルサレムへの巡礼達の功業(Gesta Francorum et aliorum Hierosolimitanorum=The deeds of the Franks and the other pilgrims to Jerusalem)』。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gesta_Francorum

 しかし、実際には、タティキオスは約束を果たしているのだ。
 アンティオキアを攻囲した十字軍従事者達は、1095年のアレクシオスによってなされた、トルコとの戦いへの助力の要請に応えて、驚きの3,000kmの進軍を行った。
 アレクシオスは、エルサレムを、「彼らの心理的引き金を引かせるであろうところの」戦利品として抜け目なく擁護した。
 弱っていた法王<ウルバヌス2世>は、アレクシオスの武器をとれとの呼びかけに、分裂気味の<カトリック>教会と<西の神聖ローマ帝国と東のビザンツ帝国という>二つの神聖ローマ帝国を統合するための神の贈り物として飛びついた。
 法王ウルバヌス2世は、巡回聖戦説教者へと変貌し、コンスタンティノープルから送られてきた聖十字架(True Cross)<(注11)>の聖遺物群を用いて宗教的ヒステリーの火をつけて回った。

 (注11)「イエス・・・の磔刑に使われたとされる十字架。・・・磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。 伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていた地をゴルゴタと特定した。これを取り壊し、建てられたのが現在の聖墳墓教会である。このとき十字架3つと聖釘などの聖遺物も発見されたという。 3つの十字架のうちのひとつに触れた女性の病が癒されたので、これがキリストが磔にされた聖十字架と分かった。 ヘレナは聖十字架の一部をエルサレムに残し、他の一部と聖釘をコンスタンティノポリスに持ち帰った。エルサレムの聖十字架は聖墳墓教会に置かれていたが、 614年にサーサーン朝ペルシアに奪われた。 東ローマ帝国は628年にこれを取り戻しコンスタンティノポリスに持ち帰ったが、後にエルサレムに戻された、1009年ごろからはエルサレムのキリスト教信者たちの手で隠されていた。 1099年に第1回十字軍が発見したとき、黄金の十字架にその木片が埋め込まれていた。・・・早い時期から聖十字架は分割され、あちこちに置かれたらしい。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6

 聖なる都市を解放するために8月15日に出発する者は、天国への階段が保証される、と。
 「明確な計画がなかった」というのに、反応は驚異的だった。
 十字軍従事者達がアンティオキアに到着した時までには、この遠征の狙いと範囲は変わり、山賊、疾病、そして飢餓によって少しずつ減耗して、彼らの数も減った。
 (ホテル経営者でもある)フランコパンは、糧食の兵站の話に関しては特に説得力がある。
 彼は、十字軍従事者達の進捗ぶりを、彼らの食餌・・尻肉(ランプ)だけ、から最終的にはやけのやんぱちで、薊(あざみ)や大型のネズミ、「馬糞の中から見つけられた穀物の種」、馬の血液、そして最終的に「死んだイスラム教徒の臀部の肉」まで・・から、図示する。・・・」(B)

 「・・・フランコパンは、1071年のマラズギルト(Manzikert)の戦い<(注12)>における不名誉な敗北の直後の時期の、ビザンツ帝国と諸敵との戦略的調整に特に焦点をあてた、11世紀末における小アジアに係る文字通りのビザンツ帝国政治の中に十字軍のルーツを理解しようとする。

 (注12)「は1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ・・・た。
 ・・・1071年春、・・・<東ローマ皇帝>ロマノス4世[(Romanos IV)]・・・はセルジューク側を上回る6万の軍勢を率いて討伐に向かい、アルメニアの・・・アフラート・・・(ヒラート)とマラズギルト<の>二つの要塞を確保するため東方に親征した。セルジューク朝・・・第2代スルターン<の>・・・アルプ・アルスラーン[(Alp Arslan)]は1万5000騎でシリアから北上し和議を申し入れたが、数を頼みとするロマノスはテュルク人の西方進出を一掃すべく、和議を蹴って決戦に臨んだ。
 こうして8月[26]日、両軍はアフラートとマラズギルトの間で戦闘になった。しかし、ロマノスの率いていた当時の東ローマ軍は傭兵の寄せ集めで士気が低く、また・・・裏切<者が出て>兵を引き上げたために東ローマ軍は大混乱に陥り、ロマノス自身も捕虜となって敗北してしまったと言われている。ローマ皇帝が捕虜になったのは3世紀にサーサーン朝の捕虜となったヴァレリアヌス以来のことである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manzikert ([]内)
 この時、アルスラーンとロマノスの間で、以下のようなやりとりが交わされたという。
「アルスラーン:仮に私があなたの前に捕虜として引き立てられてきたらどうする?
 ロマノス:多分、私はあなたを殺すか、コンスタンティノープルの街路を引き回すだろう。
 アルスラーン:私の処罰ははるかに重いぞ。私はあなたを赦し、自由にする。

 アルプ・アルスラーンは、食事を共にする等、ロマノスを相当な親切さで扱い、戦いの前に提議した平和条件を再び提議した。」
 身代金の額についてだけはロマノスが抵抗したが、最終的に折り合い、1週間後にロマノスは解放された。
 しかし、東ローマ帝国内の内紛でロマノスは眼をつぶされ、帝位を逐われ、この傷がもとで死亡する。
 彼が死亡するまで、ロマノスとの合意の線を超えて侵攻することを控えていたアルスラーンは、その後侵攻を再開し、小アジアは、ほとんど全て、セルジューク朝トルコに席巻されてしまう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manzikert 上掲

 要するに、この本での英雄は、皇帝アレクシオス1世たるコムネノスなのだ。

(続く)

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