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太田述正コラム#5474(2012.5.11)
<第一回十字軍(その1)>(2012.8.26公開)
1 始めに
「十字軍とは何だったのか」シリーズ(コラム#3906、3908)で紹介したところの、十字軍に対する解釈とかなり異なる解釈を提示した、ピーター・フランコパン(Peter Frankopan)の『第一回十字軍--東方からの呼びかけ(The First Crusade: The Call From the East)』が上梓されたので、その内容のさわりを書評に基づいて紹介し、私のコメントを付したいと思います。
A:http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/the-first-crusade-the-call-from-the-east-by-peter-frankopan/2012/05/02/gIQAefYjxT_print.html
(5月4日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/9056911/The-First-Crusade-by-Peter-Frankopan-review.html
(5月7日アクセス。以下同じ)
C:http://www.nytimes.com/2012/02/19/opinion/sunday/the-true-story-of-the-first-crusade.html
D:http://www.historyextra.com/book-review/first-crusade-call-east
なお、フランコパンは、[オックスフォード大でビザンツ帝国史で博士号を取得した]同大ウースター校(Worcester College)のシニア・リサーチ・フェローであり、クロアチアの旧貴族たる公爵(prince)です。(B。彼と、彼がオックスフォード大学ジーザス校で出会い結婚した奥さん、の写真が下掲に載っている。↓)(注1)
http://www.campaign.cam.ac.uk/impact/why/frankopan/ ([]内)
(注1)フランコパン家の歴史については下掲↓を参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Frankopan
ちなみに、彼の父親は戦後英国に移り住み、法廷弁護士・実業家となった人物であり、母親はストックホルム大学名誉教授。彼には、二人の姉妹と二人の弟がいるが、全員オックスフォード大かケンブリッジ大卒。一番有名なのは姉で、ジョージ5世の孫でエリザベス女王の従兄弟であるケント公爵の長男のニコラス・ウィンザー卿(オックスフォード大卒。英国教からカトリックに改宗!)と結婚している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paola_Doimi_de_Lupis_Frankopan
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Edward,_Duke_of_Kent
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Nicholas_Windsor
2 第一回十字軍
(1)これまでの説
「法王ウルバヌス(Urban)2世<(注2)(コラム#1229、1362、1409、3816、3906)>の、クレルモン(Clermont)<(注3)>での1095年の目の覚めるような、武器をとれとの呼びかけは、その後何年も続くヒロイズムと自己犠牲の<物語の>出発点と見なされている。
(注2)1042〜99年。法王:1088〜99年。「フランスの地方貴族の家に生まれ、聖職者になるべく教育を受けた。・・・クリュニー修道院に入<り、>院長を務めたあと、クリュニーとかかわりがあった<法王>グレゴリウス7世によって引き立てられ<た。>・・・
<ウルバヌス2世は、法王>就任当初こそローマにおける対立教皇クレメンス3世の存在に悩まされていたが、一連の教会会議で多くの司教の賛同を集め、アマルフィ、ベネヴェント、トロワといった諸都市が教皇の改革路線の成果を支持したことで対立教皇の存在を圧倒した。聖職売買の禁止、司祭の独身制の徹底、俗権からの叙任権の奪回(叙任権闘争)を教会改革の柱として強力に推進、実際に教会の綱紀粛正という目に見える成果を上げていた。
また、グレゴリウス7世以来続いていた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との抗争も継続した。ハインリヒ4世に対抗するため、トスカーナ女伯マティルダとバイエルン公子ヴェルフ5世の結婚をとりもち、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男コンラートのハインリヒ4世への反乱を支援した。また、離婚問題からフランス王フィリップ1世を破門している。・・・十字軍によるエルサレム占領の14日後にこの世を去ったが、この知らせを聞くことはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%8C%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
(注3)現在のクレルモン=フェラン(Clermont-Ferrand)。同市はフランスの中央高地に位置する都市の一つ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%B3
法王ウルバヌス2世は、1095年11月にここで教会会議を開催した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E8%AD%B0
当日、フランスの野原で、この法王は、イスラム教徒達は、「異国の人々であり、神に拒絶された人々であり、キリスト教徒に属する諸土地に侵攻し、それらを破壊しその地の一般住民から略奪を行った、と大声で語った。
次いで、彼は、これらの悪魔のようなトルコ人達がもたらした諸恐怖について、詳細な話を始めた。
「連中は、祭壇をぶち壊し、その上に汚物をぶちまけ、キリスト教徒達に割礼を施し、流れ出た血を祭壇や洗礼のための容器の上に注いだ。…連中は、<キリスト教徒の>何人かに本当に痛い死を遂げさせようと思った時は、臍に穴を空けて腸の端っこを引っ張り出す。…杭に縛り付けたその他の者達に矢を射かける。更にその他の者達の首を突き出させて攻撃し、一撃で首をはねることができるかどうかを確かめる。そして、女性達に対する身の毛のよだつ扱いは何と言ったいいだろうか。それについては、詳しく説明するより沈黙を保った方がよかろう」と。
こんな残虐行為群を告げられて、尊敬すべきキリスト教の戦士で行動に移すことを躊躇する者など一人もいようはずがなかろう。
実のところ、ウルバヌスの雄弁は、トルコの容赦なさを少しも誇張したものではなかった。
ただし、すぐに、十字軍戦士達は、同じような野蛮さでもって<イスラム教徒達を>殺戮することになるのだ。・・・」(A)
「1099年に第一次十字軍の騎士達がエルサレムをセルジューク(Seljuk)・トルコ<(注4)>から奪取するや否や、著述家達が彼らの業績を讃嘆し始めた。
(注4)「セルジューク朝・・・は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した<テュルク(トルコ)系の>イスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。・・・1055年、バグダードのカリフから招きを受けた<、セルジュークの指導者>トゥグリル・ベグ[(Tughril Beg。993〜1063年。スルタン:1038〜63年)]はバグダードに入城し、カリフから・・・公式の称号として初めて・・・スルタンの称号を授与された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B0 ([]内)
聖なる地を救出する4年前のフランスのクレルモンでの法王ウルバヌス2世の奮起させる呼びかけによって鼓吹されたところの、<十字軍についてまとめた>最初の歴史家達は、十字軍戦士達と彼らによる東地中海沿岸の征服は、神が自分達の西欧とローマ<法王>の世俗的権威に対して微笑まれていたことを証明した、と記した。
この物語と、それを強調したところの法王の権威とが、その後の500年間の欧州史を形成した。
<また、>宗教が長く東西対立(divide)の核心であり続けていたという、十字軍の中心にあった観念は、今日においてさえ、ワシントンからイスラマバードに至る外交政策を駆動している。
しかし、本当の物語は、人々が認識していたものよりも、はるかに複雑で、はるかに世俗的なものだったのだ。・・・」(C)
「・・・第一次十字軍の連作歌曲(song cycles)は、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)のデビュー・アルバム<(注4)>のように、第二次、第三次、第四次、第五次において聞こえたところの、元気のいい和音(brash chord)をかき鳴らした。
(注4)Led Zeppelin 1。「一般にレッド・ツェッペリンはハード・ロックを定義するバンドと目され、時にはヘヴィ・メタルの先蹤と見なされることもあるが、このアルバムを聴けば直ちに納得できる通り、彼らの音作りは間隙を生かした空間感覚の演出に特徴があり、HM/HRの「目一杯に音を詰め込む」という方法論とはむしろ対極に位置する。」
http://www.youtube.com/watch?v=rrVDViSlsSM
それらは、<当時の>ビザンツ帝国皇帝<(後出)>についての西側からの見方を提供した。
爾後、分かっていて80,000人の十字軍の10分の9が破滅するにまかせたところの、この皇帝が、二心を抱いていてイスラム教に同情的であった、という悪評が晴れることは決してなかったのだ。
この辛辣な評判(portrait)は、何世紀もの間、こだまし続け、この皇帝の未亡人が「あなたは偽善者として生きたように死んだ」と墓碑銘を刻ませた、と主張したところの、誤解者エドワード・ギボン(Edward Gibbon)によっても奏でられたところだ。・・・」(B)
(続く)
<第一回十字軍(その1)>(2012.8.26公開)
1 始めに
「十字軍とは何だったのか」シリーズ(コラム#3906、3908)で紹介したところの、十字軍に対する解釈とかなり異なる解釈を提示した、ピーター・フランコパン(Peter Frankopan)の『第一回十字軍--東方からの呼びかけ(The First Crusade: The Call From the East)』が上梓されたので、その内容のさわりを書評に基づいて紹介し、私のコメントを付したいと思います。
A:http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/the-first-crusade-the-call-from-the-east-by-peter-frankopan/2012/05/02/gIQAefYjxT_print.html
(5月4日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/9056911/The-First-Crusade-by-Peter-Frankopan-review.html
(5月7日アクセス。以下同じ)
C:http://www.nytimes.com/2012/02/19/opinion/sunday/the-true-story-of-the-first-crusade.html
D:http://www.historyextra.com/book-review/first-crusade-call-east
なお、フランコパンは、[オックスフォード大でビザンツ帝国史で博士号を取得した]同大ウースター校(Worcester College)のシニア・リサーチ・フェローであり、クロアチアの旧貴族たる公爵(prince)です。(B。彼と、彼がオックスフォード大学ジーザス校で出会い結婚した奥さん、の写真が下掲に載っている。↓)(注1)
http://www.campaign.cam.ac.uk/impact/why/frankopan/ ([]内)
(注1)フランコパン家の歴史については下掲↓を参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Frankopan
ちなみに、彼の父親は戦後英国に移り住み、法廷弁護士・実業家となった人物であり、母親はストックホルム大学名誉教授。彼には、二人の姉妹と二人の弟がいるが、全員オックスフォード大かケンブリッジ大卒。一番有名なのは姉で、ジョージ5世の孫でエリザベス女王の従兄弟であるケント公爵の長男のニコラス・ウィンザー卿(オックスフォード大卒。英国教からカトリックに改宗!)と結婚している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paola_Doimi_de_Lupis_Frankopan
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Edward,_Duke_of_Kent
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Nicholas_Windsor
2 第一回十字軍
(1)これまでの説
「法王ウルバヌス(Urban)2世<(注2)(コラム#1229、1362、1409、3816、3906)>の、クレルモン(Clermont)<(注3)>での1095年の目の覚めるような、武器をとれとの呼びかけは、その後何年も続くヒロイズムと自己犠牲の<物語の>出発点と見なされている。
(注2)1042〜99年。法王:1088〜99年。「フランスの地方貴族の家に生まれ、聖職者になるべく教育を受けた。・・・クリュニー修道院に入<り、>院長を務めたあと、クリュニーとかかわりがあった<法王>グレゴリウス7世によって引き立てられ<た。>・・・
<ウルバヌス2世は、法王>就任当初こそローマにおける対立教皇クレメンス3世の存在に悩まされていたが、一連の教会会議で多くの司教の賛同を集め、アマルフィ、ベネヴェント、トロワといった諸都市が教皇の改革路線の成果を支持したことで対立教皇の存在を圧倒した。聖職売買の禁止、司祭の独身制の徹底、俗権からの叙任権の奪回(叙任権闘争)を教会改革の柱として強力に推進、実際に教会の綱紀粛正という目に見える成果を上げていた。
また、グレゴリウス7世以来続いていた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との抗争も継続した。ハインリヒ4世に対抗するため、トスカーナ女伯マティルダとバイエルン公子ヴェルフ5世の結婚をとりもち、ハインリヒ4世の妻アーデルハイトと長男コンラートのハインリヒ4世への反乱を支援した。また、離婚問題からフランス王フィリップ1世を破門している。・・・十字軍によるエルサレム占領の14日後にこの世を去ったが、この知らせを聞くことはなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%8C%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
(注3)現在のクレルモン=フェラン(Clermont-Ferrand)。同市はフランスの中央高地に位置する都市の一つ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%B3
法王ウルバヌス2世は、1095年11月にここで教会会議を開催した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%BC%9A%E8%AD%B0
当日、フランスの野原で、この法王は、イスラム教徒達は、「異国の人々であり、神に拒絶された人々であり、キリスト教徒に属する諸土地に侵攻し、それらを破壊しその地の一般住民から略奪を行った、と大声で語った。
次いで、彼は、これらの悪魔のようなトルコ人達がもたらした諸恐怖について、詳細な話を始めた。
「連中は、祭壇をぶち壊し、その上に汚物をぶちまけ、キリスト教徒達に割礼を施し、流れ出た血を祭壇や洗礼のための容器の上に注いだ。…連中は、<キリスト教徒の>何人かに本当に痛い死を遂げさせようと思った時は、臍に穴を空けて腸の端っこを引っ張り出す。…杭に縛り付けたその他の者達に矢を射かける。更にその他の者達の首を突き出させて攻撃し、一撃で首をはねることができるかどうかを確かめる。そして、女性達に対する身の毛のよだつ扱いは何と言ったいいだろうか。それについては、詳しく説明するより沈黙を保った方がよかろう」と。
こんな残虐行為群を告げられて、尊敬すべきキリスト教の戦士で行動に移すことを躊躇する者など一人もいようはずがなかろう。
実のところ、ウルバヌスの雄弁は、トルコの容赦なさを少しも誇張したものではなかった。
ただし、すぐに、十字軍戦士達は、同じような野蛮さでもって<イスラム教徒達を>殺戮することになるのだ。・・・」(A)
「1099年に第一次十字軍の騎士達がエルサレムをセルジューク(Seljuk)・トルコ<(注4)>から奪取するや否や、著述家達が彼らの業績を讃嘆し始めた。
(注4)「セルジューク朝・・・は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在した<テュルク(トルコ)系の>イスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。・・・1055年、バグダードのカリフから招きを受けた<、セルジュークの指導者>トゥグリル・ベグ[(Tughril Beg。993〜1063年。スルタン:1038〜63年)]はバグダードに入城し、カリフから・・・公式の称号として初めて・・・スルタンの称号を授与された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B0 ([]内)
聖なる地を救出する4年前のフランスのクレルモンでの法王ウルバヌス2世の奮起させる呼びかけによって鼓吹されたところの、<十字軍についてまとめた>最初の歴史家達は、十字軍戦士達と彼らによる東地中海沿岸の征服は、神が自分達の西欧とローマ<法王>の世俗的権威に対して微笑まれていたことを証明した、と記した。
この物語と、それを強調したところの法王の権威とが、その後の500年間の欧州史を形成した。
<また、>宗教が長く東西対立(divide)の核心であり続けていたという、十字軍の中心にあった観念は、今日においてさえ、ワシントンからイスラマバードに至る外交政策を駆動している。
しかし、本当の物語は、人々が認識していたものよりも、はるかに複雑で、はるかに世俗的なものだったのだ。・・・」(C)
「・・・第一次十字軍の連作歌曲(song cycles)は、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)のデビュー・アルバム<(注4)>のように、第二次、第三次、第四次、第五次において聞こえたところの、元気のいい和音(brash chord)をかき鳴らした。
(注4)Led Zeppelin 1。「一般にレッド・ツェッペリンはハード・ロックを定義するバンドと目され、時にはヘヴィ・メタルの先蹤と見なされることもあるが、このアルバムを聴けば直ちに納得できる通り、彼らの音作りは間隙を生かした空間感覚の演出に特徴があり、HM/HRの「目一杯に音を詰め込む」という方法論とはむしろ対極に位置する。」
http://www.youtube.com/watch?v=rrVDViSlsSM
それらは、<当時の>ビザンツ帝国皇帝<(後出)>についての西側からの見方を提供した。
爾後、分かっていて80,000人の十字軍の10分の9が破滅するにまかせたところの、この皇帝が、二心を抱いていてイスラム教に同情的であった、という悪評が晴れることは決してなかったのだ。
この辛辣な評判(portrait)は、何世紀もの間、こだまし続け、この皇帝の未亡人が「あなたは偽善者として生きたように死んだ」と墓碑銘を刻ませた、と主張したところの、誤解者エドワード・ギボン(Edward Gibbon)によっても奏でられたところだ。・・・」(B)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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