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太田述正コラム#5472(2012.5.10)
<ナチスドイツ降伏直後の欧州(その4)>(2012.8.25公開)
3 またも見られるイギリス流韜晦
「・・・ロウは、この戦争から、新しくて、かつ気分を高揚させるヴィジョン・・欧州大陸で戦争が再び起きることを防止するための、そして、欧州大陸がその潜在能力を完全に発揮するための、唯一の方法はより大きな統合に向かう経路を指し示すことである<、というヴィジョン>・・をひっさげて登場した欧州人達のことをもっと語るべきだったかもしれない。
まさに、この本が描写する廃墟の真っただ中で、ロベール・シューマン(Robert Schuman)<(注8)>、ジャン・モネ(Jean Monnet)<(注9)>、アルチード・デ・ガスペリ(Alcide de Gasperi)<(注10)>、及びアルティエロ・スピネッリ(Altiero Spinelli)<(注11)>といった人々が後にEUとなるところのものへの第一歩を踏み出しつつあったのだ。
(注8)1886〜1963年。「ロベール・シューマンの父・・・は、・・・ロレーヌ地方・・・に生まれたフランス市民であったが、<普仏戦争の結果、>ロレーヌ地方が1871年にドイツ帝国領になるとドイツ市民になった。ロベールの母・・・は・・・ルクセンブルク人で、1884年に結婚してドイツ市民になった。ロベール・シューマンは1886年にルクセンブルク・・・で生まれたが、血統主義によりドイツ人になり、<第一次世界大戦の結果、>アルザス=ロレーヌがフランスに奪還されると1919年にフランス国籍だけを取得した。母はルクセンブルク語を話したため、ロベールの第二言語はドイツ語になった。フランス語は学校で習っただけなので・・・ドイツ語訛りのフランス語を話した。」第二次世界大戦中は、フランスでドイツに対する抵抗運動に参加し、戦後財務大臣、首相、外相を歴任。「1950年5月9日、独仏間の緊張の主な原因を取り除くことを求め、ジャン・モネの計画を採用して、シューマンはドイツに石炭と鉄鋼業を共同で運営することを要請した。この要請は欧州石炭鉄鋼共同体の基礎になり、やがて欧州連合に発展した。この要請はシューマン宣言として知られ、この日5月9日はヨーロッパ・デーとなった。」<シューマンは、>一時神父になることを考えたカトリック教徒で生涯独身を通した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
(注9)1888〜1979年。フランスの実業家、政治家。「1919年から1923年にかけて、モネは国際連盟の事務次長を務め、その後は1938年までコニャックで家業を営んでいた・・・第二次世界大戦のさいには、モネはフランスとイギリスの軍事物資の管理に関する共同委員会の特別委員長に就任し、終戦後はフランスの復興に関して要職に就き、モネ・プランを立案した。その中で西ヨーロッパの鉱工業の共同化構想が持ち上がり、1950年5月9日、当時のフランス外相ロベール・シューマンがこの構想を政府声明、いわゆるシューマン宣言として国内外に発表する。モネはシューマン構想を協議する場の議長を務め、協議の結果、欧州石炭鉄鋼共同体が設立されることになった。1952年から1954年まで、モネは欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関(のちの欧州委員会)の初代委員長を務める。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D
(注10)1881〜1954年。「当時はオーストリア=ハンガリー帝国、のちのイタリア<領となった>南チロル・・・に生まれる。・・・ウィーン大学の文学・哲学部に進み、・・・哲学の学位を取得した。・・・1911年、デ・ガスペリは<南チロルの>トレンティーノ大衆政治同盟に属してオーストリア帝国議会の議員となり、その後の6年間の任期を務める。デ・ガスペリは第一次世界大戦中、ウィーンに滞在し、戦争に対しては中立の立場を保った。デ・ガスペリは戦後自らの故郷がイタリア領となったことにより、イタリアの市民権を得ることにな<り、>・・・1921年から1924年にかけて、・・・イタリア議会の議員となる。・・・1924年5月になるとデ・ガスペリは反ファシスト派の代表となる。・・・1927年3月、デ・ガスペリは逮捕され・・・投獄<され>た。このとき教皇庁はデ・ガスペリの釈放を求めた。・・・1928年7月に釈放されるが、デ・ガスペリは職を持つことができず経済的に困難な状況に陥るが、1929年に・・・バチカン図書館で目録製作員の職を得ることができ、その後1943年7月のファシズム体制崩壊までの14年間、バチカン図書館で働くことになった。・・・第二次世界大戦中、デ・ガスペリは・・・政党「キリスト教民主主義」の創設に参加し・・・1944年、・・・党の初代党首に就任する。・・・1945年から1953年にかけてデ・ガスペリはキリスト教民主主義を中心とした8期連続の政権で首相を務めた。7年8ヶ月という在任期間は連続したものとしては戦後イタリアで最長となっている。デ・ガスペリの首相在任中、1946年のイタリア共和政移行、1947年の講和条約調印、1949年の北大西洋条約機構加盟、そしてアメリカ合衆国との同盟締結はマーシャル・プランによるイタリア経済の復興につながっていった。・・・ヨーロッパの統合が動き出したころからデ・ガスペリ、ロベール・シューマン、コンラート・アデナウアーは定期的に会談していた。デ・ガスペリは欧州評議会創設を促し、ヨーロッパの統合過程の先駆けで1952年に発足することとなる欧州石炭鉄鋼共同体の創設をうたったシューマンの構想を支持した。1954年には欧州石炭鉄鋼共同体の共同総会議長に指名され<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA
(注11)1907〜86年。イタリアの政治理論家・欧州連邦論者。ローマに生まれ、ファシストに反対するためにイタリア共産党に入党。1927年に逮捕され16年間拘束生活を送る。第二次世界大戦中に収容された弧島の収容所でスターリンの粛清に反対して共産党を離党し、1941年に、欧州連邦の設立を、ファシズムに対するレジスタンス運動に従事していた人々に秘密裏に呼び掛けたところの、ヴェントテーネ<(この弧島の名前)>宣言(Ventotene Manifesto)・・後に「自由な欧州合衆国を目指して(Toward a Free and United Europe)」と改題・・を起草した。収容所を出ることができた1943年8月に欧州連邦運動(Movimento Federalista Europeo)綱領を約20名の仲間達と採択し、まだ戦争中の1944年にジュネーヴで各国のレジスタンス運動従事者達を集めて本件について会議を行った。戦後は、ガスペリとも連携しつつ、EECやEUにおいて重要な役割を果たした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Altiero_Spinelli
この意味において、欧州は自己破壊の種だけではなくその再生の種も孕んでいたのだ。・・・」(D)
「・・・EUは、頭でっかちで、無答責の官僚機構であって、四角四面に権利と特権を擁護する、という批判にもかかわらず、戦後直後の年々の遺産が我々の欧州の現在を毒さないことを確保することに十分貢献している。」(E)
「・・・彼が、正しくも、野蛮な大陸というレッテルを貼るところの欧州に生じた剥奪と道徳的瓦解の深さを考えると、現在の欧州全域における平和、安定、そしてコミュニティー感覚、は目覚ましい達成だ。
今日のEUにおけるあらゆる小競り合いにもかかわらず、維持する価値のある極めて貴重な何かが形成されてきた、ということに気付かざるをえないのだ。・・・」(F)
「・・・ある意味で、バルカン半島における依然として実質的解決のできない諸問題は、我々に、1940年代末の欧州の多くの部分における匂いを思い起こさせる。・・・」(G)
→こんな欧州の「辺境」における政治的難問を引き合いに出した書評子を含め、この本の書評子達は、現在の欧州の「中心部」における金融危機をこそ、もっと直視すべきではなかったでしょうか。
そうはせず、あえて彼らが欧州大陸の現状を持ち上げて見せたのは、私のよく言及するところの、イギリス流韜晦である、と考えた方がよさそうです。(太田)
4 終わりに
以下、イギリス人のホンネの代弁と言ってもよいのではないかと思うところの、ざっくりとした私見を申し上げましょう。
欧州大陸の人々の大部分は、文字通りのホッブスの万人の万人に対する闘争の世界に生きているところの、エゴイスト達なのであり、その点では、欧州の外延たるロシアや、欧州に隣接するアラブ世界と基本的に事情は同じです。
そんな世界で秩序を生み出すために生まれた装置が、それぞれ、欧州大陸における宗教/イデオロギーの権力による注入(典拠省略)と階級規範の社会的注入(注12)であり、ロシアにおける皇帝/党による専制(典拠省略)であり、アラブ世界における宗教的習俗の社会的強制(典拠省略)です。
(注12)OECDの教育局次長(Deputy Director for Education)のアンドレアス・シュライヒャー(Andreas Schleicher)
http://www.oecd.org/document/22/0,3746,en_2649_39263238_21684438_1_1_1_1,00.html
いわく、「欧州ではすべては社会的世襲(social heritage)で決まる。「父親が鉛管工だったら僕も鉛管工になるんだ」と。(In Europe, it's all about social heritage: 'My father was a plumber so I'm going to be a plumber')」
http://www.bbc.co.uk/news/business-17585201
だからこそ、第二次世界大戦末期から直後にかけての時期のように、支配的宗教/イデオロギーが弱体化し、異なった宗教/イデオロギーで取って代わられる過渡期ないし危機的時期においては、抑え込まれていた万人の万人に対する闘争が、階級規範を突き破って、勢いよく生起し始めるわけです。
我々は、このところ、金融危機下の欧州におけるどたばた劇を毎日のように目撃させられているわけですが、ドイツが完全に自信を喪失し、かつ罪悪感に苛まれていたところの、第二次世界大戦の戦後直後に、そしてフランスとイタリアで、否応なしに特定の国を超えた欧州人として生かされてきた数奇な経験を共有していたところの、シューマンとガスペリが、それぞれ政治をリードしていたところの、第二次世界大戦の戦後直後に、一挙に独仏伊という欧州における主要三国でもってスピネッリ的な構想・・キリスト教、就中カトリシズム、を名目的旗印とした汎欧州主義イデオロギーとでも称すべきもの(注13)・・を踏まえた政治統合を果たすことができず、ナショナリズムの火種を温存してしまったことが、欧州統合を半永久的に不可能にしてしまった、すなわち、政治統合を後回しにしたところの、EEC、ひいてはEUの挫折を運命付けてしまった、と私には思えてならないのです。
(注13)戦後直後、スピネッリこそ無神論者だったが、(西)ドイツ、フランス、イタリアの政治をそれぞれ取り仕切っていた3人であるところの、アデナウアー(Konrad Adenauer。1876〜1967年)は、戦前はカトリック政党の中央党に所属し、戦後はカトリックを中心としてプロテスタントも取り込んだ政党であるキリスト教民主同盟の創設者の一人であって同党を率いていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
し、シューマンはかつて神父になろうとした敬虔なカトリック教徒であったし、ガスペリもキリスト教民主主義を創立して率いていた。
(完)
<ナチスドイツ降伏直後の欧州(その4)>(2012.8.25公開)
3 またも見られるイギリス流韜晦
「・・・ロウは、この戦争から、新しくて、かつ気分を高揚させるヴィジョン・・欧州大陸で戦争が再び起きることを防止するための、そして、欧州大陸がその潜在能力を完全に発揮するための、唯一の方法はより大きな統合に向かう経路を指し示すことである<、というヴィジョン>・・をひっさげて登場した欧州人達のことをもっと語るべきだったかもしれない。
まさに、この本が描写する廃墟の真っただ中で、ロベール・シューマン(Robert Schuman)<(注8)>、ジャン・モネ(Jean Monnet)<(注9)>、アルチード・デ・ガスペリ(Alcide de Gasperi)<(注10)>、及びアルティエロ・スピネッリ(Altiero Spinelli)<(注11)>といった人々が後にEUとなるところのものへの第一歩を踏み出しつつあったのだ。
(注8)1886〜1963年。「ロベール・シューマンの父・・・は、・・・ロレーヌ地方・・・に生まれたフランス市民であったが、<普仏戦争の結果、>ロレーヌ地方が1871年にドイツ帝国領になるとドイツ市民になった。ロベールの母・・・は・・・ルクセンブルク人で、1884年に結婚してドイツ市民になった。ロベール・シューマンは1886年にルクセンブルク・・・で生まれたが、血統主義によりドイツ人になり、<第一次世界大戦の結果、>アルザス=ロレーヌがフランスに奪還されると1919年にフランス国籍だけを取得した。母はルクセンブルク語を話したため、ロベールの第二言語はドイツ語になった。フランス語は学校で習っただけなので・・・ドイツ語訛りのフランス語を話した。」第二次世界大戦中は、フランスでドイツに対する抵抗運動に参加し、戦後財務大臣、首相、外相を歴任。「1950年5月9日、独仏間の緊張の主な原因を取り除くことを求め、ジャン・モネの計画を採用して、シューマンはドイツに石炭と鉄鋼業を共同で運営することを要請した。この要請は欧州石炭鉄鋼共同体の基礎になり、やがて欧州連合に発展した。この要請はシューマン宣言として知られ、この日5月9日はヨーロッパ・デーとなった。」<シューマンは、>一時神父になることを考えたカトリック教徒で生涯独身を通した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
(注9)1888〜1979年。フランスの実業家、政治家。「1919年から1923年にかけて、モネは国際連盟の事務次長を務め、その後は1938年までコニャックで家業を営んでいた・・・第二次世界大戦のさいには、モネはフランスとイギリスの軍事物資の管理に関する共同委員会の特別委員長に就任し、終戦後はフランスの復興に関して要職に就き、モネ・プランを立案した。その中で西ヨーロッパの鉱工業の共同化構想が持ち上がり、1950年5月9日、当時のフランス外相ロベール・シューマンがこの構想を政府声明、いわゆるシューマン宣言として国内外に発表する。モネはシューマン構想を協議する場の議長を務め、協議の結果、欧州石炭鉄鋼共同体が設立されることになった。1952年から1954年まで、モネは欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関(のちの欧州委員会)の初代委員長を務める。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D
(注10)1881〜1954年。「当時はオーストリア=ハンガリー帝国、のちのイタリア<領となった>南チロル・・・に生まれる。・・・ウィーン大学の文学・哲学部に進み、・・・哲学の学位を取得した。・・・1911年、デ・ガスペリは<南チロルの>トレンティーノ大衆政治同盟に属してオーストリア帝国議会の議員となり、その後の6年間の任期を務める。デ・ガスペリは第一次世界大戦中、ウィーンに滞在し、戦争に対しては中立の立場を保った。デ・ガスペリは戦後自らの故郷がイタリア領となったことにより、イタリアの市民権を得ることにな<り、>・・・1921年から1924年にかけて、・・・イタリア議会の議員となる。・・・1924年5月になるとデ・ガスペリは反ファシスト派の代表となる。・・・1927年3月、デ・ガスペリは逮捕され・・・投獄<され>た。このとき教皇庁はデ・ガスペリの釈放を求めた。・・・1928年7月に釈放されるが、デ・ガスペリは職を持つことができず経済的に困難な状況に陥るが、1929年に・・・バチカン図書館で目録製作員の職を得ることができ、その後1943年7月のファシズム体制崩壊までの14年間、バチカン図書館で働くことになった。・・・第二次世界大戦中、デ・ガスペリは・・・政党「キリスト教民主主義」の創設に参加し・・・1944年、・・・党の初代党首に就任する。・・・1945年から1953年にかけてデ・ガスペリはキリスト教民主主義を中心とした8期連続の政権で首相を務めた。7年8ヶ月という在任期間は連続したものとしては戦後イタリアで最長となっている。デ・ガスペリの首相在任中、1946年のイタリア共和政移行、1947年の講和条約調印、1949年の北大西洋条約機構加盟、そしてアメリカ合衆国との同盟締結はマーシャル・プランによるイタリア経済の復興につながっていった。・・・ヨーロッパの統合が動き出したころからデ・ガスペリ、ロベール・シューマン、コンラート・アデナウアーは定期的に会談していた。デ・ガスペリは欧州評議会創設を促し、ヨーロッパの統合過程の先駆けで1952年に発足することとなる欧州石炭鉄鋼共同体の創設をうたったシューマンの構想を支持した。1954年には欧州石炭鉄鋼共同体の共同総会議長に指名され<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA
(注11)1907〜86年。イタリアの政治理論家・欧州連邦論者。ローマに生まれ、ファシストに反対するためにイタリア共産党に入党。1927年に逮捕され16年間拘束生活を送る。第二次世界大戦中に収容された弧島の収容所でスターリンの粛清に反対して共産党を離党し、1941年に、欧州連邦の設立を、ファシズムに対するレジスタンス運動に従事していた人々に秘密裏に呼び掛けたところの、ヴェントテーネ<(この弧島の名前)>宣言(Ventotene Manifesto)・・後に「自由な欧州合衆国を目指して(Toward a Free and United Europe)」と改題・・を起草した。収容所を出ることができた1943年8月に欧州連邦運動(Movimento Federalista Europeo)綱領を約20名の仲間達と採択し、まだ戦争中の1944年にジュネーヴで各国のレジスタンス運動従事者達を集めて本件について会議を行った。戦後は、ガスペリとも連携しつつ、EECやEUにおいて重要な役割を果たした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Altiero_Spinelli
この意味において、欧州は自己破壊の種だけではなくその再生の種も孕んでいたのだ。・・・」(D)
「・・・EUは、頭でっかちで、無答責の官僚機構であって、四角四面に権利と特権を擁護する、という批判にもかかわらず、戦後直後の年々の遺産が我々の欧州の現在を毒さないことを確保することに十分貢献している。」(E)
「・・・彼が、正しくも、野蛮な大陸というレッテルを貼るところの欧州に生じた剥奪と道徳的瓦解の深さを考えると、現在の欧州全域における平和、安定、そしてコミュニティー感覚、は目覚ましい達成だ。
今日のEUにおけるあらゆる小競り合いにもかかわらず、維持する価値のある極めて貴重な何かが形成されてきた、ということに気付かざるをえないのだ。・・・」(F)
「・・・ある意味で、バルカン半島における依然として実質的解決のできない諸問題は、我々に、1940年代末の欧州の多くの部分における匂いを思い起こさせる。・・・」(G)
→こんな欧州の「辺境」における政治的難問を引き合いに出した書評子を含め、この本の書評子達は、現在の欧州の「中心部」における金融危機をこそ、もっと直視すべきではなかったでしょうか。
そうはせず、あえて彼らが欧州大陸の現状を持ち上げて見せたのは、私のよく言及するところの、イギリス流韜晦である、と考えた方がよさそうです。(太田)
4 終わりに
以下、イギリス人のホンネの代弁と言ってもよいのではないかと思うところの、ざっくりとした私見を申し上げましょう。
欧州大陸の人々の大部分は、文字通りのホッブスの万人の万人に対する闘争の世界に生きているところの、エゴイスト達なのであり、その点では、欧州の外延たるロシアや、欧州に隣接するアラブ世界と基本的に事情は同じです。
そんな世界で秩序を生み出すために生まれた装置が、それぞれ、欧州大陸における宗教/イデオロギーの権力による注入(典拠省略)と階級規範の社会的注入(注12)であり、ロシアにおける皇帝/党による専制(典拠省略)であり、アラブ世界における宗教的習俗の社会的強制(典拠省略)です。
(注12)OECDの教育局次長(Deputy Director for Education)のアンドレアス・シュライヒャー(Andreas Schleicher)
http://www.oecd.org/document/22/0,3746,en_2649_39263238_21684438_1_1_1_1,00.html
いわく、「欧州ではすべては社会的世襲(social heritage)で決まる。「父親が鉛管工だったら僕も鉛管工になるんだ」と。(In Europe, it's all about social heritage: 'My father was a plumber so I'm going to be a plumber')」
http://www.bbc.co.uk/news/business-17585201
だからこそ、第二次世界大戦末期から直後にかけての時期のように、支配的宗教/イデオロギーが弱体化し、異なった宗教/イデオロギーで取って代わられる過渡期ないし危機的時期においては、抑え込まれていた万人の万人に対する闘争が、階級規範を突き破って、勢いよく生起し始めるわけです。
我々は、このところ、金融危機下の欧州におけるどたばた劇を毎日のように目撃させられているわけですが、ドイツが完全に自信を喪失し、かつ罪悪感に苛まれていたところの、第二次世界大戦の戦後直後に、そしてフランスとイタリアで、否応なしに特定の国を超えた欧州人として生かされてきた数奇な経験を共有していたところの、シューマンとガスペリが、それぞれ政治をリードしていたところの、第二次世界大戦の戦後直後に、一挙に独仏伊という欧州における主要三国でもってスピネッリ的な構想・・キリスト教、就中カトリシズム、を名目的旗印とした汎欧州主義イデオロギーとでも称すべきもの(注13)・・を踏まえた政治統合を果たすことができず、ナショナリズムの火種を温存してしまったことが、欧州統合を半永久的に不可能にしてしまった、すなわち、政治統合を後回しにしたところの、EEC、ひいてはEUの挫折を運命付けてしまった、と私には思えてならないのです。
(注13)戦後直後、スピネッリこそ無神論者だったが、(西)ドイツ、フランス、イタリアの政治をそれぞれ取り仕切っていた3人であるところの、アデナウアー(Konrad Adenauer。1876〜1967年)は、戦前はカトリック政党の中央党に所属し、戦後はカトリックを中心としてプロテスタントも取り込んだ政党であるキリスト教民主同盟の創設者の一人であって同党を率いていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
し、シューマンはかつて神父になろうとした敬虔なカトリック教徒であったし、ガスペリもキリスト教民主主義を創立して率いていた。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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