太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#5470(2012.5.9)
<ナチスドイツ降伏直後の欧州(その3)>(2012.8.24公開)
(4)ドイツ協力者への復讐
「・・・<戦後すぐに>フランスで行われたところの、公衆の面前での女性たる<ナチ>協力者達への辱めは、フランスの男性達が、ヴィシー政府のヒットラーへの「柔弱な哀願」の後、自分達の男性性を回復するためのものであった、とこの著者は主張する。
ドイツの軍事的な力によって性的不能に陥っていたフランスの男性達は、女性の協力者達の髪の毛を剃ることが自分達の義務である、と思ったのだ。
(これらの女性は敵と寝ることによって、フランスを「売春婦(slut)」にした、というのだ。)・・・
女優のアルレッティ(Arletty)<(注4)>は、一人のドイツ人将校のオンリーになっていた(consort with)として1945年に投獄されたが、彼女は、怒りをこめて、「私の心はフランスのものだけど、私のオマンコ(vagina)は私のものだわよ」と抗議した。
(注4)1898〜1992年。フランスの女優、歌手、ファッションモデル。なお、この英語ウィキペディアは、典拠付きで、彼女のこの時の発言は、"mon coeur est francais mais mon cul est international !"= "My heart is French but my ass is international."であったとしている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arletty
cul(フランス語)はbottom/backside(尻)ないしarse(ass)(↓下参照)を意味するところ、
http://www.mediadico.com/dictionnaire/francais-anglais/cul/1
ass(英語)は「尻」ないし「肛門」だけでなく、「性交」をも意味する
http://ejje.weblio.jp/content/ass
とはいえ、この書評子がvagina(オマンコ=膣)と記(訳)したのは、微妙ではあるが誤訳に近いと言えそうだ。
<また、>戦後のイタリアでは、西欧のどこよりも復讐(vendetta)が野蛮に行われた。
女性達は、頭を剃られ、「ファシストのスパイ」という説明文付きで、電柱にぶらさげられた。
ムッソリーニ自身、<処刑されてから、>さかさまに、彼の情婦のクララ・ペタッチ(Clara Petacci)<(注5)>と並んで吊るされ、激しく唾を吐きかけられた。・・・」(C)
(注5)1912〜45年。彼女の弟も一緒に捕らえられ、処刑前に逃亡を企てて射殺されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Clara_Petacci
(5)殺し合い
「・・・ドイツ人達から学んだテクニックを使って、クロアチア人達はセルビア人達を虐殺した。
<また、>ウクライナ人達はポーランド人達を、ハンガリア人達はスロヴァキア人達を抑圧した。
共産主義者達は、戦時中は、ナチやファシストの暴虐なる弾圧の犠牲者だったが、戦後の多くの国々での至上権を巡っての戦いの中で、彼らもまた、目を覆うような諸犯罪を犯した。
ドイツが降伏した時、一つの戦争が終わっただけだった。
10いくつもの他の戦争は続き、何百万人もの人々が多大なる暴力の対象となり、冷戦に向けての舞台が整えられて行ったのだ。・・・」(A)
「・・・<例えば、>ギリシャにおける殺戮し合いの内戦<(注6)>やリトワニアでの反ソ・パルチザン作戦<(注7)がそうだ。>・・・」(B)
(注6)1942〜49年。「一方の当事者は中道右派政府と右派民兵で、イギリスおよびアメリカの支援を受けていた。もう一方はナチス・ドイツ占領下のギリシャにおける最大のレジスタンス組織であった共産主義ゲリラ・・・でギリシャ共産党・・・の指導下にあった。内戦は3つの段階に分けることができる。第一段階 (1942年〜1944年) は右派レジスタンスに対する左派レジスタンス<へ>の攻撃である。第二段階(1944年)は右派レジスタンスによる政権奪取で、エジプトのカイロから帰還したギリシャ亡命政府、更にはイギリスによる支援を受けていた。第三段階(1946年〜1949年・・・)は 騒然とした雰囲気下で行われた総選挙により樹立された中道右派政権とギリシャ共産党との争いである。・・・実際にはソ連はゲリラ側をほとんど支援しておらず、1944年に<共産党が>ギリシャを掌握する機会が訪れたときも<、同党>に命令しその動きを制した。・・・内戦によりギリシャ・・・はドイツ占領期を上回る被害を受けた。50,000人の兵士が死亡<し>、家を失った住民は500,000人におよぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E5%86%85%E6%88%A6
(注7)ソ連がリトワニアを再占領した1944年から、53年まで続き、30,000人のパルチザンないしその支援者達が死亡した。
ちなみに、前出のエストニア人パルチザンのアウグスツ・サッベは、エストニア、ラトヴィア、ポーランド、ルーマニア、そしてガリチア(Galicia)でソ連と戦った「森の兄弟(Forest Brothers)」に所属していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lithuanian_partisans
http://en.wikipedia.org/wiki/August_Sabbe 前掲
(6)人口構成の変化と人口の移動
「・・・<第二次世界大戦で>ワルシャワの93%は残骸と化した。
この戦争は、欧州大陸の人口構成に巨大な穴を空けた。
女性の方が男性よりはるかに多くなり、百万人もの孤児がドイツとポーランドのそれぞれで発生した。・・・」)B)
「・・・ドイツだけで2000万人がホームレスになり、それ以外の1500万人は、元捕虜、奴隷労働者その他であり、ナチによって故郷からドイツに拉致されて来ていたところ、ドイツの敗戦によってドイツと欧州全体にわたって放浪することを余儀なくされた。・・・」(F)
(7)前冷戦陣取り闘争
「・・・東欧における共産主義者による政権奪取の波を支えたものは、旧体制の機能不全(failure)というよりは、ソ連の力だった。
ロウは、ルーマニアの事例を詳細にわたって魅惑的に描写する。
ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、そしてブルガリアも、全て同じ運命を辿った。
すなわち、赤色テロ、逮捕、土地と財産の没収、そして処刑という・・。
ギリシャでは、ブーツを履いたのはもう一方の足であり、最初は英国の、次いで米国の支援を活用して(parlay)共産主義者達に対する暴虐的勝利がなし遂げられた。
ロウは、「政治に関する資本主義モデルが、スターリン主義的共産主義と比べて、より包含的(inclusive)でより民主主義的で、究極的にはより成功を収めることは自明であることをいかなる意味でも否定はしないものの、冷戦の諸至上命題(imperative)が惹起した<東西間の>「不愉快な対照性」に、特に言及している。・・・」(D)
(続く)
<ナチスドイツ降伏直後の欧州(その3)>(2012.8.24公開)
(4)ドイツ協力者への復讐
「・・・<戦後すぐに>フランスで行われたところの、公衆の面前での女性たる<ナチ>協力者達への辱めは、フランスの男性達が、ヴィシー政府のヒットラーへの「柔弱な哀願」の後、自分達の男性性を回復するためのものであった、とこの著者は主張する。
ドイツの軍事的な力によって性的不能に陥っていたフランスの男性達は、女性の協力者達の髪の毛を剃ることが自分達の義務である、と思ったのだ。
(これらの女性は敵と寝ることによって、フランスを「売春婦(slut)」にした、というのだ。)・・・
女優のアルレッティ(Arletty)<(注4)>は、一人のドイツ人将校のオンリーになっていた(consort with)として1945年に投獄されたが、彼女は、怒りをこめて、「私の心はフランスのものだけど、私のオマンコ(vagina)は私のものだわよ」と抗議した。
(注4)1898〜1992年。フランスの女優、歌手、ファッションモデル。なお、この英語ウィキペディアは、典拠付きで、彼女のこの時の発言は、"mon coeur est francais mais mon cul est international !"= "My heart is French but my ass is international."であったとしている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arletty
cul(フランス語)はbottom/backside(尻)ないしarse(ass)(↓下参照)を意味するところ、
http://www.mediadico.com/dictionnaire/francais-anglais/cul/1
ass(英語)は「尻」ないし「肛門」だけでなく、「性交」をも意味する
http://ejje.weblio.jp/content/ass
とはいえ、この書評子がvagina(オマンコ=膣)と記(訳)したのは、微妙ではあるが誤訳に近いと言えそうだ。
<また、>戦後のイタリアでは、西欧のどこよりも復讐(vendetta)が野蛮に行われた。
女性達は、頭を剃られ、「ファシストのスパイ」という説明文付きで、電柱にぶらさげられた。
ムッソリーニ自身、<処刑されてから、>さかさまに、彼の情婦のクララ・ペタッチ(Clara Petacci)<(注5)>と並んで吊るされ、激しく唾を吐きかけられた。・・・」(C)
(注5)1912〜45年。彼女の弟も一緒に捕らえられ、処刑前に逃亡を企てて射殺されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Clara_Petacci
(5)殺し合い
「・・・ドイツ人達から学んだテクニックを使って、クロアチア人達はセルビア人達を虐殺した。
<また、>ウクライナ人達はポーランド人達を、ハンガリア人達はスロヴァキア人達を抑圧した。
共産主義者達は、戦時中は、ナチやファシストの暴虐なる弾圧の犠牲者だったが、戦後の多くの国々での至上権を巡っての戦いの中で、彼らもまた、目を覆うような諸犯罪を犯した。
ドイツが降伏した時、一つの戦争が終わっただけだった。
10いくつもの他の戦争は続き、何百万人もの人々が多大なる暴力の対象となり、冷戦に向けての舞台が整えられて行ったのだ。・・・」(A)
「・・・<例えば、>ギリシャにおける殺戮し合いの内戦<(注6)>やリトワニアでの反ソ・パルチザン作戦<(注7)がそうだ。>・・・」(B)
(注6)1942〜49年。「一方の当事者は中道右派政府と右派民兵で、イギリスおよびアメリカの支援を受けていた。もう一方はナチス・ドイツ占領下のギリシャにおける最大のレジスタンス組織であった共産主義ゲリラ・・・でギリシャ共産党・・・の指導下にあった。内戦は3つの段階に分けることができる。第一段階 (1942年〜1944年) は右派レジスタンスに対する左派レジスタンス<へ>の攻撃である。第二段階(1944年)は右派レジスタンスによる政権奪取で、エジプトのカイロから帰還したギリシャ亡命政府、更にはイギリスによる支援を受けていた。第三段階(1946年〜1949年・・・)は 騒然とした雰囲気下で行われた総選挙により樹立された中道右派政権とギリシャ共産党との争いである。・・・実際にはソ連はゲリラ側をほとんど支援しておらず、1944年に<共産党が>ギリシャを掌握する機会が訪れたときも<、同党>に命令しその動きを制した。・・・内戦によりギリシャ・・・はドイツ占領期を上回る被害を受けた。50,000人の兵士が死亡<し>、家を失った住民は500,000人におよぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E5%86%85%E6%88%A6
(注7)ソ連がリトワニアを再占領した1944年から、53年まで続き、30,000人のパルチザンないしその支援者達が死亡した。
ちなみに、前出のエストニア人パルチザンのアウグスツ・サッベは、エストニア、ラトヴィア、ポーランド、ルーマニア、そしてガリチア(Galicia)でソ連と戦った「森の兄弟(Forest Brothers)」に所属していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lithuanian_partisans
http://en.wikipedia.org/wiki/August_Sabbe 前掲
(6)人口構成の変化と人口の移動
「・・・<第二次世界大戦で>ワルシャワの93%は残骸と化した。
この戦争は、欧州大陸の人口構成に巨大な穴を空けた。
女性の方が男性よりはるかに多くなり、百万人もの孤児がドイツとポーランドのそれぞれで発生した。・・・」)B)
「・・・ドイツだけで2000万人がホームレスになり、それ以外の1500万人は、元捕虜、奴隷労働者その他であり、ナチによって故郷からドイツに拉致されて来ていたところ、ドイツの敗戦によってドイツと欧州全体にわたって放浪することを余儀なくされた。・・・」(F)
(7)前冷戦陣取り闘争
「・・・東欧における共産主義者による政権奪取の波を支えたものは、旧体制の機能不全(failure)というよりは、ソ連の力だった。
ロウは、ルーマニアの事例を詳細にわたって魅惑的に描写する。
ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、そしてブルガリアも、全て同じ運命を辿った。
すなわち、赤色テロ、逮捕、土地と財産の没収、そして処刑という・・。
ギリシャでは、ブーツを履いたのはもう一方の足であり、最初は英国の、次いで米国の支援を活用して(parlay)共産主義者達に対する暴虐的勝利がなし遂げられた。
ロウは、「政治に関する資本主義モデルが、スターリン主義的共産主義と比べて、より包含的(inclusive)でより民主主義的で、究極的にはより成功を収めることは自明であることをいかなる意味でも否定はしないものの、冷戦の諸至上命題(imperative)が惹起した<東西間の>「不愉快な対照性」に、特に言及している。・・・」(D)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/