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太田述正コラム#5464(2012.5.6)
<利己主義・利他主義・人間主義(その6)>(2012.8.21公開)
-------------------------------------------------------------------------------
<追補>
この本の新たな書評が出ていた↓ので補足しておく。
H:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/e4e5a6ec-8f98-11e1-9ab1-00144feab49a.html#axzz1u3IhgXJJ
(5月6日アクセス)
「・・・高度な好社会性は、蟻、蜂、シロアリ、そして人類においてのみ見出される。
この全てが恐ろしく成功を収めている。
ウィルソンは、今日の世界に1,000京(10 million billion)匹の蟻がいるとし、その総重量は70億人の人間にほとんど匹敵する、と推計する。
どうして好社会性がかくも稀であるかについて、ウィルソンは、一つの種が高度の好社会的行動をとるに至るまでに経なければならないところの、何次にもわたる進化フェーズの経路を辿る。
彼は、ダーウィン的な自然淘汰の結果として、この全てを通過していくことができる確率はほんのわずかであることを示す。
最初<に乗り越えるべき>段階は、通常巣の構築と防御にあたっているところの、孤独な個体からなる自由に混ざり合う集団の内で小集団群が形成されることだ。
<これに成功すると、小>集団の構成員達を一緒につなぎとめておくための遺伝子的変化が生じる。
最も肝心なことは、成熟するやいなや、親の巣を離れて新しい番相手を見つけるために散り散りになるという、動物達の間における普遍的な衝動(urge)を抑制することができるかどうかだ。
そのためには、ミツバチとスズメバチに関しては、一回突然変異が起こればよいことが最近の研究で示されている。・・・」(H)
-------------------------------------------------------------------------------
(6)綜合
「・・・人類は、多レベルでの淘汰、すなわち、個体淘汰と集団淘汰とが相互作用を及ぼす中から、或いは、部族が他の部族と競い合う中から出現した。・・・」
http://www.slate.com/articles/health_and_science/new_scientist/2012/04/e_o_wilson_on_altruism_and_the_new_enlightenment.single.html
(5月1日アクセス)
「・・・善と悪のジレンマは、多レベルでの淘汰によって生み出された。
そこでは、同じ個体に対して、個体淘汰と集団淘汰が一緒に、ただし、おおむね真逆の方向に、働く」と彼は記す。
「個体淘汰は…根本的に利己的である個々の構成員の諸本能を形作る…他方、集団淘汰は、個体達を互いに・・他の諸集団の構成員達との相互間ではないことに注意・・利他的にさせる傾向のある諸本能を形作る。・・・」(b)
「・・・ウィルソンは、二つのレベルの淘汰を強調する。
「個体淘汰は我々が罪(sin)と呼ぶものの多くに責任があるのに対し、集団淘汰は徳(virtue)の多くの部分について責任がある」と彼は記す。
「併せて、この二つは、我々の本性の冴えない側面(angle)とより良き側面との間の紛争を生み出した」と。・・・」(H)
「・・・ウィルソンは、我々<という集団>と自分という個人との間の闘争、という人類の条件の悲劇と彼が考えるところのものについても辿る。
彼は、我々人類は一種の混合経済下にあると見ている。
<この混合経済>は、多レベルでの淘汰として知られているところの、激しい議論が戦わされている最中たる過程が生んだ複雑な果実なのだ。
この計算式の下、我々の諸衝動(impulses)のうちの若干は、個体淘汰、すなわち、生活における結構な物の分け前にあずかるためのあらゆる者との競争、の結果なのだ。
その他の諸特性は、集団淘汰の勢力下にあって、我々に対して、チームのために利他的に行動するよう促す。
我々の個体的に淘汰された諸特性の方が古くて根源的で、抑え込むのがむつかしいのであって、この諸特性は、我々が伝統的に悪徳(vices)とレッテル貼りをするところの、貪欲、怠惰、色欲といった形で、我々の隣人の生活を妬ん(covet)だり、誇りが傷つけられた時に覆い隠したりする。
<他方、>我々の好社会的諸傾向は、進化的により新しくてより脆弱であり、集団が生き延びようというのなら、当該集団によって大声で推奨(promote)されなければならない。
それらは、宗教やベン・フランクリン(Ben Franklin)の説教(homilies)<(注7)>に関わるものであり、我々が称賛するところの、寛大、親切、公平、衝動抑制、約束遵守、恐れや意気消沈の際も為すべきことを為す、といった諸徳を代表している。
(注7)Benjamin Franklin。1706〜90年。米建国の父の一人で万能人。20歳の時に13の徳の列挙した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Franklin#Thirteen_Virtues
「人類の条件は、我々を作り上げた進化過程に根差すところの、その特有の混乱(endemic turmoil)である」と彼は記す。
「<つまり、>我々の本性中の最悪のものが最良のものと共存しているわけだが、これからも永久にそうあり続けるだろう」と。・・・」(E)
3 終わりに
「・・・今日では、個々の現代人類<が属している>社会的世界は単一の部族ではなく、相互にかみあう諸部族の体系であり、<ある個体が諸部族ないし諸集団の全ての中で立ち回るための>単一の羅針盤を見出すことは時として困難になっている。・・・」(F)
→集団淘汰は特定の個体が単一の集団の構成員であることを想定しているが、人間の場合、必ずしもそうではない・・例えば、中世の欧州においては、誰もが、領主の臣民であると同時にカトリック教会の信者でもあった・・し、現代においては一層そうではない、という内在的なウィルソンの最新説に対する批判です。(太田)
「・・・熱気ある学問的議論が血族淘汰と集団淘汰のそれぞれの擁護者達の間で進行中であり、ウィルソンは、この『地球の社会的征服』の中で多くの頁を自分の最近の考えの変化を正当化するのに費やしているが、この本を読んで、自分としては、なんてばかばかしいことをやっているのかと思った。
歴史的には、好社会的進化には、常に、構成員達が近しい家族的な紐帯を持つ諸集団が関わっていた。
そこでは、蜂達<ないし原人達>が、女王ないし(古生物学者達が典型的には約30人からなると教えてくれるところの)原人達(hominids)の一団の周りに群がっていた。
かかる事情の下では、血族淘汰と集団淘汰によって引き起こされた本能的利他主義と協力は、帰するところ同じことのように私には思えるのだ。・・・」(H)
→血族淘汰と集団淘汰の起源は恐らく同じであるところ、両者を全く異なるものとして論ずるのはいかがなものか、という批判です。(太田)
「・・・最後には、ウィルソン氏は、多レベルでの淘汰と呼ばれるところのものに到達する。
それは、進化は遺伝子的(gene)淘汰、個体淘汰、血族淘汰、そして集団淘汰の組み合わせによって起こる、という考え方だ。・・・
遺伝子群は個体及び<その個体の>血族に資するように淘汰され、かつ、遺伝子群は個体が集団に参加することを奨励するようにもまた淘汰される、というのだ。・・・」(A)
→要するに、ウィルソンは、更に話を複雑にしただけではないか、という批判です。(太田)
「・・・ウィルソン氏は、ロバート・トリヴァース(Robert Trivers)<(注8)>のような巨人の業績に言及することがない。
(注8)1943年〜。ユダヤ系米国人。ハーヴァード大で数学、転じて歴史を学ぶ。同大大学院の時に更に生物学に転じて博士号取得。血族淘汰説を米国に紹介。「ブラックパンサー党<の党員となり、>・・・同僚から最も黒人らしい白人と呼ばれた。にもかかわらず、社会生物学を公然と擁護したことによって反対者から人種差別主義者と呼ばれた。トリヴァースはイスラエル政府の辛辣な批判者で<も>ある。」2007年にクラフォード賞受賞。現在はラトガース大教授。
「互恵的利他主義(1971)、親の投資理論(1972)、親子の対立(1974)の理論提唱によってよく知られる。・・・おそらく、ジョージ・ウィリアムズらと並んでトリヴァーズは存命中の進化生物学者の中で最も影響力を持つ一人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9
彼は、人類の社会性の鍵たる成分(ingredient)として、血族淘汰や集団淘汰ではなく、相互性(reciprocity)の概念を見出した(identified)。
実際、トリヴァース氏の相互性の諸観念はどうして協力的行動が選択されたかをうまく説明した(captured)ので、リチャード・ドーキンスを始めとする多数の進化思想家達の一群を出現させた(launched)。
多くの人々は、相互性に係る能力が、罪、信頼、感謝その他の人類の条件に係る驚異を導出した、と信じている。・・・」(A)
→これが、最も根源的な、人間主義的な考え方からのウィルソンの最新説に対する批判です。
どうして「的」をつけたかというと、トリヴァースらのような、「相互性」という言葉から分かるところの、協力的行動ないし利他的行動は将来再び出会う可能性が高い人との間でしか成立しえない考える人々とは違って、私は、協力的行動ないし利他的行動が、赤の他人同士でも成立しうる、と考える人間主義者だからです。
すなわち、人類は、ミラーニューロン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3
という人間主義の基盤たる共感を呼び起こす生理を共有しており、人は、仮に困っている他人が赤の他人であったとしても、その他人を助けたいという自分の気持ちに忠実に行動することは、単に気持ちが良いだけでなく、将来、その他人が同じような行動を自分にとってもその他人にとっても赤の他人に対してとる可能性が高まるのであって、その連鎖が回り回って、将来、今度は自分が困っている時に自分を助けてくれる赤の他人が増えることへの期待が付け加わって、その人は、赤の他人に対しても、協力的ないし利他的な行動をとる、と私は考えているのです。
高齢のウィルソンの活躍には敬意を表しますが、そろそろ学問の世界から引退することを奨めたいですね。(太田)
(完)
<利己主義・利他主義・人間主義(その6)>(2012.8.21公開)
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<追補>
この本の新たな書評が出ていた↓ので補足しておく。
H:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/e4e5a6ec-8f98-11e1-9ab1-00144feab49a.html#axzz1u3IhgXJJ
(5月6日アクセス)
「・・・高度な好社会性は、蟻、蜂、シロアリ、そして人類においてのみ見出される。
この全てが恐ろしく成功を収めている。
ウィルソンは、今日の世界に1,000京(10 million billion)匹の蟻がいるとし、その総重量は70億人の人間にほとんど匹敵する、と推計する。
どうして好社会性がかくも稀であるかについて、ウィルソンは、一つの種が高度の好社会的行動をとるに至るまでに経なければならないところの、何次にもわたる進化フェーズの経路を辿る。
彼は、ダーウィン的な自然淘汰の結果として、この全てを通過していくことができる確率はほんのわずかであることを示す。
最初<に乗り越えるべき>段階は、通常巣の構築と防御にあたっているところの、孤独な個体からなる自由に混ざり合う集団の内で小集団群が形成されることだ。
<これに成功すると、小>集団の構成員達を一緒につなぎとめておくための遺伝子的変化が生じる。
最も肝心なことは、成熟するやいなや、親の巣を離れて新しい番相手を見つけるために散り散りになるという、動物達の間における普遍的な衝動(urge)を抑制することができるかどうかだ。
そのためには、ミツバチとスズメバチに関しては、一回突然変異が起こればよいことが最近の研究で示されている。・・・」(H)
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(6)綜合
「・・・人類は、多レベルでの淘汰、すなわち、個体淘汰と集団淘汰とが相互作用を及ぼす中から、或いは、部族が他の部族と競い合う中から出現した。・・・」
http://www.slate.com/articles/health_and_science/new_scientist/2012/04/e_o_wilson_on_altruism_and_the_new_enlightenment.single.html
(5月1日アクセス)
「・・・善と悪のジレンマは、多レベルでの淘汰によって生み出された。
そこでは、同じ個体に対して、個体淘汰と集団淘汰が一緒に、ただし、おおむね真逆の方向に、働く」と彼は記す。
「個体淘汰は…根本的に利己的である個々の構成員の諸本能を形作る…他方、集団淘汰は、個体達を互いに・・他の諸集団の構成員達との相互間ではないことに注意・・利他的にさせる傾向のある諸本能を形作る。・・・」(b)
「・・・ウィルソンは、二つのレベルの淘汰を強調する。
「個体淘汰は我々が罪(sin)と呼ぶものの多くに責任があるのに対し、集団淘汰は徳(virtue)の多くの部分について責任がある」と彼は記す。
「併せて、この二つは、我々の本性の冴えない側面(angle)とより良き側面との間の紛争を生み出した」と。・・・」(H)
「・・・ウィルソンは、我々<という集団>と自分という個人との間の闘争、という人類の条件の悲劇と彼が考えるところのものについても辿る。
彼は、我々人類は一種の混合経済下にあると見ている。
<この混合経済>は、多レベルでの淘汰として知られているところの、激しい議論が戦わされている最中たる過程が生んだ複雑な果実なのだ。
この計算式の下、我々の諸衝動(impulses)のうちの若干は、個体淘汰、すなわち、生活における結構な物の分け前にあずかるためのあらゆる者との競争、の結果なのだ。
その他の諸特性は、集団淘汰の勢力下にあって、我々に対して、チームのために利他的に行動するよう促す。
我々の個体的に淘汰された諸特性の方が古くて根源的で、抑え込むのがむつかしいのであって、この諸特性は、我々が伝統的に悪徳(vices)とレッテル貼りをするところの、貪欲、怠惰、色欲といった形で、我々の隣人の生活を妬ん(covet)だり、誇りが傷つけられた時に覆い隠したりする。
<他方、>我々の好社会的諸傾向は、進化的により新しくてより脆弱であり、集団が生き延びようというのなら、当該集団によって大声で推奨(promote)されなければならない。
それらは、宗教やベン・フランクリン(Ben Franklin)の説教(homilies)<(注7)>に関わるものであり、我々が称賛するところの、寛大、親切、公平、衝動抑制、約束遵守、恐れや意気消沈の際も為すべきことを為す、といった諸徳を代表している。
(注7)Benjamin Franklin。1706〜90年。米建国の父の一人で万能人。20歳の時に13の徳の列挙した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Franklin#Thirteen_Virtues
「人類の条件は、我々を作り上げた進化過程に根差すところの、その特有の混乱(endemic turmoil)である」と彼は記す。
「<つまり、>我々の本性中の最悪のものが最良のものと共存しているわけだが、これからも永久にそうあり続けるだろう」と。・・・」(E)
3 終わりに
「・・・今日では、個々の現代人類<が属している>社会的世界は単一の部族ではなく、相互にかみあう諸部族の体系であり、<ある個体が諸部族ないし諸集団の全ての中で立ち回るための>単一の羅針盤を見出すことは時として困難になっている。・・・」(F)
→集団淘汰は特定の個体が単一の集団の構成員であることを想定しているが、人間の場合、必ずしもそうではない・・例えば、中世の欧州においては、誰もが、領主の臣民であると同時にカトリック教会の信者でもあった・・し、現代においては一層そうではない、という内在的なウィルソンの最新説に対する批判です。(太田)
「・・・熱気ある学問的議論が血族淘汰と集団淘汰のそれぞれの擁護者達の間で進行中であり、ウィルソンは、この『地球の社会的征服』の中で多くの頁を自分の最近の考えの変化を正当化するのに費やしているが、この本を読んで、自分としては、なんてばかばかしいことをやっているのかと思った。
歴史的には、好社会的進化には、常に、構成員達が近しい家族的な紐帯を持つ諸集団が関わっていた。
そこでは、蜂達<ないし原人達>が、女王ないし(古生物学者達が典型的には約30人からなると教えてくれるところの)原人達(hominids)の一団の周りに群がっていた。
かかる事情の下では、血族淘汰と集団淘汰によって引き起こされた本能的利他主義と協力は、帰するところ同じことのように私には思えるのだ。・・・」(H)
→血族淘汰と集団淘汰の起源は恐らく同じであるところ、両者を全く異なるものとして論ずるのはいかがなものか、という批判です。(太田)
「・・・最後には、ウィルソン氏は、多レベルでの淘汰と呼ばれるところのものに到達する。
それは、進化は遺伝子的(gene)淘汰、個体淘汰、血族淘汰、そして集団淘汰の組み合わせによって起こる、という考え方だ。・・・
遺伝子群は個体及び<その個体の>血族に資するように淘汰され、かつ、遺伝子群は個体が集団に参加することを奨励するようにもまた淘汰される、というのだ。・・・」(A)
→要するに、ウィルソンは、更に話を複雑にしただけではないか、という批判です。(太田)
「・・・ウィルソン氏は、ロバート・トリヴァース(Robert Trivers)<(注8)>のような巨人の業績に言及することがない。
(注8)1943年〜。ユダヤ系米国人。ハーヴァード大で数学、転じて歴史を学ぶ。同大大学院の時に更に生物学に転じて博士号取得。血族淘汰説を米国に紹介。「ブラックパンサー党<の党員となり、>・・・同僚から最も黒人らしい白人と呼ばれた。にもかかわらず、社会生物学を公然と擁護したことによって反対者から人種差別主義者と呼ばれた。トリヴァースはイスラエル政府の辛辣な批判者で<も>ある。」2007年にクラフォード賞受賞。現在はラトガース大教授。
「互恵的利他主義(1971)、親の投資理論(1972)、親子の対立(1974)の理論提唱によってよく知られる。・・・おそらく、ジョージ・ウィリアムズらと並んでトリヴァーズは存命中の進化生物学者の中で最も影響力を持つ一人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9
彼は、人類の社会性の鍵たる成分(ingredient)として、血族淘汰や集団淘汰ではなく、相互性(reciprocity)の概念を見出した(identified)。
実際、トリヴァース氏の相互性の諸観念はどうして協力的行動が選択されたかをうまく説明した(captured)ので、リチャード・ドーキンスを始めとする多数の進化思想家達の一群を出現させた(launched)。
多くの人々は、相互性に係る能力が、罪、信頼、感謝その他の人類の条件に係る驚異を導出した、と信じている。・・・」(A)
→これが、最も根源的な、人間主義的な考え方からのウィルソンの最新説に対する批判です。
どうして「的」をつけたかというと、トリヴァースらのような、「相互性」という言葉から分かるところの、協力的行動ないし利他的行動は将来再び出会う可能性が高い人との間でしか成立しえない考える人々とは違って、私は、協力的行動ないし利他的行動が、赤の他人同士でも成立しうる、と考える人間主義者だからです。
すなわち、人類は、ミラーニューロン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3
という人間主義の基盤たる共感を呼び起こす生理を共有しており、人は、仮に困っている他人が赤の他人であったとしても、その他人を助けたいという自分の気持ちに忠実に行動することは、単に気持ちが良いだけでなく、将来、その他人が同じような行動を自分にとってもその他人にとっても赤の他人に対してとる可能性が高まるのであって、その連鎖が回り回って、将来、今度は自分が困っている時に自分を助けてくれる赤の他人が増えることへの期待が付け加わって、その人は、赤の他人に対しても、協力的ないし利他的な行動をとる、と私は考えているのです。
高齢のウィルソンの活躍には敬意を表しますが、そろそろ学問の世界から引退することを奨めたいですね。(太田)
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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