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太田述正コラム#5454(2012.5.1)
<ナチスドイツの最期(その2)>(2012.8.16公開)

 (2)問題意識

 「・・・<そもそも、>1945年1月時点で、<ドイツが>敗北したことは余りにも明らかであったにもかかわらず、どうしてドイツは戦争を戦い続けたのだろうか。
 どうして<和平>交渉がなされなかったのだろうか。
 自分達の指導者が失敗したことを見てとることができ、自分達の苦しみが日を追うごとに耐えがたくなってきており、前途に屈辱と敗北しか予見することができなくなっていたというのに、1918年の時のような叛乱<(注3)>が人々によってどうして起こされなかったのだろうか。・・・」(D)

 (注3)「第一次世界大戦・・・<が膠着状態に陥ると、ドイツは>「総力戦」体制の確立に突き進んだ。これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、[その後、4月6日には米国が参戦したこともあり、]1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。
 1918年3月からの西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には連合国軍の反撃により逆に戦線を突破され始めた。ドイツの敗北が決定的となったことで、参謀本部次長ルーデンドルフは、敗戦処理に当たらせることとロシア革命の二の舞を防ぐことを目的として、当時ドイツ最大の労働者政党であった社会民主党(SPD)を中心とする政府の樹立を主導した。首相には自由主義者のマックス・フォン・バーデン公[(Prince Maximilian of Baden)]が就任した。1918年10月に始まった休戦交渉は、連合国の提示した無条件降伏、カイザーの退位という厳しい条件に対して、軍部は少しでも有利な条件を引き出そうと、一部は戦争の継続さえ主張したため、遅々として進まなかった。一向に訪れない平和への希求から、また帝政の維持、戦争の継続に固執する軍部に対してドイツ国民は実力行使へと動いた。
 1918年10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン[(Wilhelmshaven)]港にいたドイツ大洋艦隊の水兵たちは、ドイツ海軍司令部が[無許可で]出したイギリス海軍への自殺的な特攻作戦(「提督たちの反乱」)の出撃命令を拒絶し、反乱を起こした。11月3日、この出撃命令に抗議してキール軍港の水兵・兵士によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した。11月7日から始まったバイエルン革命(・・・ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。
 11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。これに対して・・・バーデン公は、革命の急進化を防ごうと独断でカイザーの退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルト[(Friedrich Ebert)]に委ねたが、事態は一向におさまる気配をみせなかった。この時、カール・リープクネヒト[(Karl Liebknecht)]が「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマン[(Philipp Scheidemann)]は、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した。その日の内に、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、後日退位を表明した。
 [その後も混乱が、1919年8月のワイマール共和国の成立まで続いた。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%9D%A9%E5%91%BD
http://en.wikipedia.org/wiki/German_Revolution_of_1918%E2%80%931919 ([]内)

 「・・・全く突然の終焉を迎える時まで、すなわち、文字通りの最期まで、叛乱も暴動も起こらず、軍からの逃亡も比較的低い水準で推移し、一般の人々の生活に対するナチス国家の頑強なる掌握が続く、というドイツ社会の異常なほどの凝集力を、一体どう説明することができるのだろうか。
 最も簡単な説明は、人々が本当にヒットラーを信じ込んでいた・・第三帝国当時の言葉であり、かつてヴィクトール・クレンペラー(Victor Klemperer)<(注4)>によって見事に分析がなされた・・というものだが、そうだとすると二番目の疑問が生じる。

 (注4)1881〜1960年。現在ポーランド領となっているドイツ領でユダヤ教のラビの息子として生まれるが、本人はプロテスタントに改宗。兄弟のゲオルグ(Georg)はレーニンの侍医、従兄弟のヴェルナー(Werner)は指揮者。モンテスキューに関する論文で博士号取得。第三帝国下の日記で有名。戦後は東独の大学で教鞭を執る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Klemperer

 ドイツ社会が基本的にナチ化していたというのなら、「解放」後の外国軍による占領に対してほとんど抵抗がなされなかったのはどうしてか、という・・。・・・」(A)

 (3)一番目の疑問への解答

  ア 物理的強制

 「<では、一番目の疑問への解答を模索してみよう。>
 <まず、物理的強制だ。>
 第二次世界大戦中、ドイツの軍法会議で死刑となり執行されたドイツ兵の数は20,000人に上る。
 これは、英国兵(40人)、フランス兵(103人)と比較しても、また、第一次世界大戦中のドイツ兵(48人)と比較しても、仰天の数だ。・・・」(A)

 「諸軍法会議に対しては、「死刑宣告でもっていかなる敗北主義の徴候も容赦なく抑え込め」と命じられていた。
 部署から逃亡した軍人に対する処罰は死刑だった。
 <他方、>ナチスのガウライター(Gauleiter=地域総督)達は、それぞれの部署で戦い、死ぬことが期待されていたが、そうしたのは2人だけであり、残りの40人は逃亡した。
 兵士については、逃亡の咎で約30,000人が告発され、そのうち20,000人が銃殺された<というのに・・>。・・・」(D)
 
 「・・・<もっとも、>ナチスの恐怖政治により、将軍達には選択の余地がなかったという主張は必ずしも正しいとは言えない。
 一般兵士達と下級将校達こそ、退却したり命令に服従しなかったりすれば射殺されたが、将軍達はそうはされなかった<からだ。>
 <とはいえ、ドイツ>陸軍の上級将校達は義務の観念によって麻痺させられてい<て、退却したり命令に服従しなかったりした者はほとんどいなかっ>たけれど、親衛隊(SS)の頑迷な忠臣達<はそうではなく>・・ヒムラー(Himmler)<(コラム#370、2026、2792、4083、4286、4290、4499、4801、4832、4937、5265)>、シェレンベルグ(Schellenberg)<(注5)>、カルテンブルンナー(Kaltenbrunner)<(注6)>、そしてヴォルフ(Wolff)・・は、ヒットラーに隠して連合国と秘密交渉を行おうとした。・・・」(B)

 (注5)ヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルク(Walther Friedrich Schellenberg。1910〜52年)。マールブルク大、ボン大で最初医学、転じて法律学を学ぶ。「<SS>の情報機関SDの国外諜報局局長を務めた人物。最終階級は親衛隊少将兼警察少将 (Generalmajor der Polizei)。・・・プレイボーイであり、・・・ドイツ占領下のフランス・パリではファッションデザイナーのココ・シャネルと愛人関係を持っていた。・・・大戦末期シェレンベルクは、ヒムラーの補佐官としてフォルケ・ベルナドット伯爵を通じて連合軍と和平交渉をするようにヒムラーを説得し、秘密裏に会合を持つが失敗する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 (注6)エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner。1903〜46年)。オーストリア生まれ。グラーツ工科大学で最初化学、転じて法律学を学ぶ。法学博士。SS大将・警察大将・武装親衛隊大将。ニュルンベルク国際軍事裁判で死刑。「1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSS(CIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC
 (注7)カール・フリードリヒ・オットー・ヴォルフ(Karl Friedrich Otto Wolff。1900〜84年)。職業軍人、銀行員を経てナチス入党。1943年2月からドイツ降伏までイタリア勤務。SS大将・武装SS大将。「ヒトラーは、ローマ法王ピウス12世の拉致をヴォルフに命じたが、ヴォルフはこれを拒否した<とされる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95

  イ ナチスのプロパガンダ

 「・・・次は、<ナチスのプロパガンダであり、>ナチスは、無階級民族社会の諸価値をずっと唱え続けた。・・・
 英国においてもそうだったが、戦争が社会的差異を平準化したという観念は、恐ろしく人気があり、集団的犠牲の精神を醸成することに資した。・・・」(A)

(続く)

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