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太田述正コラム#5440(2012.4.24)
<再びピゴットについて(その2)>(2012.8.9公開)

 「日英間に一度失われた相互間の信頼を再び取り返すという任務遂行に全力を尽くした、という訣別の言葉を残してピゴットが日本を離れたのは1939年11月8日であった。・・・
 <結局、その後、太平洋戦争が起き、日本が敗北することとなる。>そして、対日講和条約成立後も「アメリカが同盟国のイギリス・オーストラリアよりも迅速に太平洋戦争の苦渋(bitterness)を忘れた」のに対して、英濠両国の一般的対日感情は簡単には好転しなかった。変化の契機は、1953年4月、女王戴冠式に参列する日本皇太子の渡英であった。

→これは、何度も指摘してきたように、米国とは異なり、英国(豪州を含む)は、実質的には太平洋戦争での敗者であって、日本に大英帝国を過早に瓦解させられたことに由来しています。(太田)

 その特別接伴顧問を務めたのはピゴットであり、この機会を利用して、彼は伝統、皇室という日英両国民の共通意識にうったえて国民に友好の復活を説いたのである。
 ・・・日英関係の歴史的意義をも再認識させる有力な動機を作ったのは彼の訪日であった。ピゴットが重光外相<(コラム#763、4116、4276、4348、4350、4366、4376、4378、4390、4689、4699、4732、4740、4754、5004、5180、5188)>の招待を受けて長女を同伴、空路来日したのは、1955年・・・5月である。空港でのステートメントで「今度の招待は、私が日英関係の維持と強化に努めたためだと信じている。そしてこの招待に応えるのは、日本に対する崇拝を続けることで果たせるであろう」と述べたが、その三週間にわたる滞在中、天皇・皇后の茶会に招かれて旧交をあたためたほか(彼はこの年1月、勲一等端宝章を贈られていた)、重光、吉田茂をはじめ、松平恒雄<(コラム#4392、4687、4986、5042)>・佐藤尚武<(コラム#4274、4378、5044)>・有田八郎、<(コラム#3784、4274、4374、4392、4618、4998)>・芦田均<(コラム#3253、4754、5008)>・野村吉三郎<(コラム#4372、5050)>・小泉信三<(コラム#3344)等、>その各層にわたる多くの旧知との再会を連日続けることが出来た。この間、日英関係を回顧するラジオ放送も行ない、戦後の日本人にあらためて過去の日本を考えさせる契機を与えることにもなった。

→吉田茂は、既に首相の座から前年の1954年12月に退いていましたが、吉田の次の駐英大使であった重光外相がピゴットを招待したということは、吉田の腹心であった辰己栄一が事実上ピゴットとのスケジュール調整役を務めた(後述)ことも併せて考えると、吉田の意向に沿ったピゴットの日本招待であった、と見て間違いないのではないでしょうか。
 これは、吉田らによるところの、自分達のような戦前の親英派が旧陸軍の親独派に足をすくわれて日本の太平洋戦争参戦と敗北がもたらされた、という歴史歪曲に基づくところの、吉田ドクトリン(軍事放棄・対米属国化戦略)を正当化する策略の一つであった、と見るべきであり、ピゴットは、恐らく、そんなことはお見通しで、あえて招待を受けたのであろう、と私は思うのです。(太田)

 ところで、以上の日本訪問中、注目すべきひとつの会合があった。かつて吉田・重光大使時代駐英武官を務め、今回のピゴット来日中も彼と接触の多かった、親友辰己栄一元陸軍中将<(注2)(コラム#4153)>を通じて実現した、旧日本軍人たちとの再会である。辰己は旧陸軍中、親英派の旗頭であり、戦後吉田首相の軍事ブレーンとして、「再軍備」実現への影の力となっていた人物であることはよく知られる。この会合についてピゴットは、帰国後・・・に・・・ロンドン日本協会で行なった講演の中で次のように述べている。

 (注2)1895〜1988年。陸士・陸大。駐英大使館付武官補佐官、同武官(2回。2回目の時の大使が吉田茂)を歴任。在支第3師団長で終戦。「吉田茂の腹心として関与(吉田内閣で軍事顧問)。一方で<CIA>の協力者「POLESTAR-5」(他にも「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」等と呼ばれた)として内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E6%A0%84%E4%B8%80
 
 外務省と、辰己将軍及び磯部大佐(東京に駐在した何代もの英士官たちの友人・教師・顧問)の協力、はかり知れない援助のおかげで私は自身で二つのパーティーを催すことが出来ました。ひとつは・・・シヴィリアン・・・も少しは交えたが、陸軍将校たちを主体としたもので、いまひとつは、私がこれまで会えなかった多くの旧友たちと会うためのものでした。軍人たちとのパーティーは特別重要なものでした。私は政府の認可を得て畑<俊六>元帥<(注3)(コラム#4548、5016)>と男爵<荒木貞夫大>将<(注4)(コラム#3774、4004、4006、4466)>・・・を招待しましたが、二人は巣鴨から仮釈放されて出席しました。元侍従武官長で現在88才になる男爵奈良<武次>大将<(注5)>、私が彼の少尉の時知った角田将軍<(注6)>、森田将軍<(注7)>(1918年にフランス及びドイツで第二軍に所属した)、その他大勢の人たちも家族同伴で来てくれました。参会した人たちはみな、かって陸相時代の荒木の、またその大部分は畑のもとでも働きました。過ぎし時代の二人の旧上官を迎えての彼らの敬意は、実際幕僚であった当時よりも大きくさえあると思われました。何らのぎごちなさも気がねもありませんでした。…この二日間の午後に多くのギャップが満たされ、断絶が修復されましたが、ささやかな手段で、たくさんの別離や疎隔に幸福な結末をつけることに何らかの役割を演じたことは、私にとって常に誇りの源となるでしょう。」(156〜158)

 (注3)1879〜1962年。陸士・陸大(首席)。陸相:1939〜40年。「極東国際軍事裁判(東京裁判)で・・・終身禁固の判決を受けた。6年間の服役後、・・・1954年・・・に仮釈放を受けて出所した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
 (注4)1877〜1966年。陸士・陸大(首席)。皇道派の重鎮。陸相:1931〜34年。「1936年・・・二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入」。文相:1938〜39年。「極東国際軍事裁判において、A級戦犯として終身刑の判決を受ける。・・・1955年・・・に病気のため仮出所し、その後釈放」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB
 (注5)1868〜1962年。陸士・陸大。陸軍省軍務局長、東宮武官等を経て侍従武官長。1946年・・・8月、公職追放。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%AD%A6%E6%AC%A1
 (注6)角田政之助少将のことか。陸士・陸大。
http://www.bunsei.co.jp/en/old-books/our-newly-stocks/480-tsunoda.html
 (注7)不明。情報をお持ちの方はご教示いただきたい。

→旧陸軍軍人達との2回のパーティーの経費を負担したのがロンドン日本協会なのか駐日英大使館なのか知りたいところですが、この2回のパーティー、とりわけ、そのうち、巣鴨から出所したかしないかのA級戦犯の2人を主賓格とするパーティーを開催することで、吉田ドクトリンに挑戦することこそ、ピゴット側の来日の最大の目的であった、と私は推察するのです。
 それにしても、私益と自分の出身官庁の省益のために国を売った吉田茂といい、CIAエージェントに堕していたことが最近明らかになったところの、(吉田の腹心の)辰己栄一といい、何とまあ甲乙つけがたき卑小なる二人であったことでしょうか。(太田)

 「戦後<における>・・・彼の日本に対する認識、評価は戦前と変らない。彼自身の反共意識は根強いものであるが、それのみにとどまらない。・・・皇室の存在を重視し、くり返し日英同盟の廃棄を惜しみ、あるいは、旧日本陸軍の将帥たちとの再会を重視するという行為は、軍人である彼としては当然のことではあるが、一方、戦争の結果、多くの面で価値観を変えた、あるいは変えさせられた日本国民に衝撃を与えるものであったことは確かである。同時に、それは、独立回復後1950年代の日本における保守的政治意識と民族感情の再燃を助長する一因ともなったであろう。」(160)

→村島滋はこう言うけれど、せっかくのピゴットの努力も、実は「独立回復」などできていなかったところの、「1950年代の日本における保守的政治意識と民族感情の再燃を助長する一因と」など全くならなかったことを我々は知っています。
 ピゴットの遺志を継いで、日本の「独立<を>回復」させ、吉田ドクトリンを廃棄することは、ピゴットの最後の来日から半世紀以上が経過した現在、情けないことに、我々が果たさなければならない課題として依然、残されているのです。(太田)

(完)

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