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太田述正コラム#5430(2012.4.19)
<加藤高明と外務省の原罪(その3)>(2012.8.4公開)

 (2)英国を怒らせてしまった加藤外相

 「一方、親英外交の熱心な推進者で「英国贔屓」と国内では非難されていたが、加藤<高明(注6)(コラム#4528、4596、4598、4602、4604、4608、4610、4711、5036、5038)>外相のイギリスに対する対応は、イギリスに「同盟の破壊を計算したもの」と感じさせるほどの冷たく強硬なものであった。

 (注6)コラム#4598で一度紹介しているが、その折の加藤高明評を、今回180度転換させる運びとなったこともあり、もう一度加藤の経歴を掲げておく。
 1860〜1926年。1881年東大法卒。三菱に入社し英国駐留、帰国後三菱本社副支配人となり、岩崎弥太郎の長女と結婚。1887年に外務省入り。「1900年・・・には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅選議員に勅任された。」加藤は、この時は、大隈重信内閣の外相(加藤としては4度目)だった(1914年4月〜15年8月)。その後、内閣総理大臣(第24代。1924〜26年)に就任するが、これは東大出身者としては初めてのことだった。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

 <二十一ヶ条要求中の>希望事項<(注7)>中の顧問問題、学校・病院の土地所有権問題、兵器供給問題などでは一応の妥協もし<たのに、彼は、>同盟国イギリスの利益を侵害する南支鉄道問題<(コラム#5036)>にこだわった・・・。・・・グレ<イ>外相に・・・”Budozer Tactics"と言わせるほどの・・・このような・・・強硬論を<加藤が>展開した背景には外交の元老からの独立<(コラム#4598)>と、列強に事前に協議することなく独立外交を展開するとの新進外交官としての自負と強硬論を展開して成功した体験があった。すなわち義和団事件では元老や陸軍が心配するほどの強硬論を展開させて満州に進駐したロシア軍を撤退させ、アメリカの福建省三都漢租借申出を拒否して成功した強硬外交に対する自信があった。また、第一次大戦では参戦依頼を撤回したイギリスに強引に参戦を同意させ<(コラム#5036)>、青島攻略<(注8)>では再三のイギリスの英仏露三国連合作戦を拒否した過去の実績への自信があった。また加藤外相には日本の戦闘区域を中国沿岸に限ると日本に協議することなく一方的に公表してしまった戦域限定問題<(コラム#5036)>や青島返還問題に対する駐華ジョルダン公使<(注9)>の画策など、ことごとく加藤外交に妨害を与えてきたイギリスの対応に対する反発という心理的な要因もあったかもしれない。・・・そして、・・・イギリスの不利な戦局と日本軍の開戦以来の<イギリス>支援、そして対華二十一ヶ条の要求を非難するイギリス自身がシンガポールでは50余名のインド兵を殺傷するという強硬な植民地政策を行っているイギリスの弱みへの自信がなかったであろうか。<1915年>2月22日に、・・・グリーン大使<(注10)(コラム#4530、5036、5038)>が前回の会談で・・・加藤外相が日本の希望事項中にイギリスの利益と衝突することがあっても、「英国ニ協議スルノ限ニ在ラズ」と発言したことについて確認すると・・・<加藤は、>「貴国ニ於テ当然内示ヲ受クルノ権利アルカノ如キ口吻ヲ漏ラサレタルヲ以テ其解シ難キヲ述べタル」だけであると日本外交の独立性を強く主張し、さらに例え日本の要求中に「万一英国側に故障アルトスルモ一端支那ニ提出シタル条項ヲ撤回又ハ変改スルコトハ断ジテ為シ難キ所」と強く述べた背後に、5日前のシンガポール暴動鎮圧のための音羽・明石の派遣依頼文書に象徴される日本海軍の<イギリスへの>軍事的支援に対する自信がなかったであろうか。また、加藤外相を中心とした外務当局が<1915年>5月3日に中国所在の各公館に対する居留民引上準備訓令を発し、5月4日の元老閣僚会議や閣僚会議で加藤外相が強く最後通牒提出を主張し、5月3日のグレ<イ>外相からの「日支ノ国交破裂スルガ如キコトナカラムヲ最モ切望ス」。希望事項が原因となって交渉が決裂するならば、イギリス国民はそれを日英同盟の精神に背反すると認めざるを得ないとの電報をイギリスの圧力とは取らなかった背後に、この交渉中にもたらされた・・・多量のイギリスからの・・・日本海軍の活動に関する・・・謝電が影響しなかったであろうか。

 (注7)二十一ヶ条要求 第5号<(当初、英国にはこの第5号の存在が知らされなかったため、グリーン大使が加藤外相に激しく抗議した。(65))>
◎中国政府に政治経済軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
◎中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
◎・・・必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
◎一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
◎武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
◎福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
◎中国において日本人の布教権を認めること
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
 (注8)1914年10月31日〜11月7日、日英連合軍が青島(膠州湾)を攻略した。戦死:日(270。巡洋艦「高千穂」撃沈に伴う死者を含む)、英(160)、独(183)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 (注9)John Newell Jordan。1852〜1925年。北アイルランドのベルファスト大及びコーク大卒。支那における英領事館の通訳として英外務省入省、ソウル勤務を経てアーネスト・サトウの後任として駐支公使(1906〜20年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Jordan_(diplomat)
 (注10)コラム#5036での注記を再掲する。William Conyngham Greene。1854〜1934年。ハロー、オックスフォード大の学部・修士卒。駐スイス大使を経て駐日大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3

→依然、世界随一の全球的大帝国を構えていた英国、しかも、日本の文字通りの同盟国であった英国に対しての、不遜極まるこれらの一連の発言は、相手に斜陽意識があっただけに、日本の外相として、相手の気持ちを逆なでする不適切なものでした。
 それにしても、このあたりの、加藤対英外交に関する平間さんのヨミ、説得力があって素晴らしいですね。(太田)

 いずれにせよ、このような有利な立場からか加藤外相の強硬論はその後も続き、<1915年>5月11日にはグリーン大使に駐華公使ジョルダンを「任期満了次第世界政治上ノ大勢ニ通ゼル人ト代ヘラルルコトナラバ如何等ノ説モナキニシモ非ラズ」と、間接的ではあったが青島攻略作戦、中国の交戦地域限定問題などでことごとに日本の対中国外交に陰から妨害を加えたジョルダン公使の交送(ママ)をほのめかし、ついに交替させてしまったのであった。・・・

→「交替させてしまった」という部分は、1920年まで駐支公使にとどまったところの、ジョルダンの経歴(前掲)に照らし、(典拠がグレイ自身の回想録である(76)ことにも鑑み、)平間さんのミスでしょう。
 いずれにせよ、加藤の「ノンキャリ」たるジョルダンに係るこのような発言は言語道断です。
 ジョルダンは1920年に外務省を退職していますが、1921〜22年のワシントンでの海軍軍縮会議に英代表の一人として参加しています(ジョルダンに関するウィキペディア前掲)。
 加藤は、日本に対して敵意を抱いても不思議ではない英国人高官を1人でも増やすような発言は慎むべきでした。(太田)

 グレ<イ>外相はこの交渉中に「日本に、加藤外相に失望した」と語り、外務次官のニコルソン(Arthur Nicolson)<(注11)(コラム#5036)>は「私は日英同盟を全然信用していない。日本は最小のリスクと負担で最大の利益を引き出そうとしているように思われる<」>と感じ、東京のグリーン大使は戦争が勃発しわれわれが手一杯の時に、わが同盟国にいかに失望したかを語る必要はないであろう」と書くなど、加藤外相のかたくなな国益追及外交は日英同盟崩壊の動きをイギリス外交担当者の間にひそかに進めさせたのであった。」(69、72〜74)

 (注11)1849〜1928年。ラグビー、オックスフォード大卒。北京勤務等を経て、スペイン大使、ロシア大使、そして外務次官(1910〜16年)。『外交』を書いたハロルド・ニコルソンは令息。
http://www.facebook.com/pages/Arthur-Nicolson-1st-Baron-Carnock/143008972377235?sk=wiki

→加藤外相、すなわち外務省は、せっかく旧軍が強めた英国との絆という資源までも駆使して、窮状にあった英国の弱みにつけこんでごり押し対英外交を展開したことで、英国の指導者達の怒りを買い、日英同盟が崩壊する端緒をつくってしまった、ということです。(太田)

4 終わりに

 この加藤高明が首相の時に義弟の外務官僚たる幣原喜重郎を外相に起用し、その幣原が外務省の後輩の吉田茂を外務次官に起用したこと、加藤は外相の時に旧軍の貢献をこのように台無しにして日英同盟が崩壊する端緒をつくり、幣原はいわゆる幣原外交を展開して英国との関係を決定的に悪化させて旧軍を袋小路に追い込み、太平洋戦争の開戦と敗戦の原因をつくり、その幣原と吉田が協力して、戦後、日本の軍事放棄・対米属国化戦略を構築した、ということを考えると、外務省を国賊の巣窟にした原初的責任は加藤にある、第一次世界大戦中の加藤対英外交こそ外務省の原罪である、という感を深くします。

 (シンガポールでの義勇兵のことが気になります。義勇兵という以上は小銃くらいは使ったのでしょうし、また、小銃くらいは使えたということでしょうが、誰がどこにこれら火器を保管し、どのように平素、小銃を使ったりする訓練を行っていたのでしょうね。また、こういったことに帝国陸軍が関与していたと思われます。
 情報をお持ちの方はご教示ください。)

(完)

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