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太田述正コラム#5396(2012.4.2)
<黙示録の秘密(その5)>(2012.7.18公開)

 (4)黙示録の新約聖書への編綴・・黙示録の新解釈

 「・・・4世紀に新約聖書が列聖化(canonize)された時、すなわち、キリスト教会がどの書がキリスト教の聖書の一部となりどの書が落とされるかを決めた時、多くの教会指導者達は、啓示<、すなわち黙示録>については<一部とすることに>躊躇した。
 しかし、最終的に、彼らはそれを含めることにした。
 というのは、それは非信仰的な輩を大いに怯えさせるために使うことができたからだ。・・・」(E)

 「・・・パゲルスは、どのように、そしてどのように完全に、ヨハネが、自分が後に残した物語の解釈についての戦いに敗れたかを証明する。
 彼の「啓示<すなわち、黙示録>」は、キリスト教的終末論の頂点となり、彼のユダヤ的仄めかしはヘブライ語の聖書を「旧約」聖書として<新約聖書の>植民地化したところの、新しい宗派によって着服され、イスラエル人たる預言者達はキリスト教徒の司教達に隷属させられ、そして、ユダヤ人(ユダヤ教徒)達は<神に選ばれた民から>地獄行き<の民>へと役割を変更された。・・・」(A)

 「・・・2世紀初において、小アジアの大部分の司教達は、<黙示録の>テキストは涜神的であると投票でもって決をとって非難した。
 3世紀の60年代になってようやく、火のようなアタナシウス(Athanasius)<(注16)>の統制の下で、啓示<、すなわち黙示録>は新約聖書全体のクライマックスとして挿入されるに至ったのだ。・・・」(B)

 (注16)アレクサンドリアのアタナシオス([Athanasius of Alexandria。296-]298〜373年)。
 「キリスト教の神学者・…教父([Doctor of the Church])・聖職者である。エジプトのアレクサンドリア主教(司教([bishop])、または大主教)を務めた。・・・アレクサンドリア[の司教の秘書]として出席した第1回ニケア公会議([First Council of Nicaea])でアリウス([Arius])に反駁し、アリウス派([Arianism])の「御子は被造物である」との説を退け、三位一体論の形成に寄与した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Athanasius_of_Alexandria ([]内)

 (5)黙示録の新々解釈

 しかし、「啓示<、すなわち黙示録>」については、なお、「百もの解釈(vision)と再解釈(revision)」が出てくることが運命付けられていた。
 皇帝コンスタンティヌス(Constantine)<(注17)(コラム#413、1026、1761、2766、3475、3483、4009)>の改宗・・パゲルスがこの短い本の中で十分展開することができなかった複雑な案件の一つ・・の結果、ヨハネの予言の新たなる抜本的再解釈が必要となった。

 (注17)Gaius Flavius Valerius Constantinus[=Constantine the Great=Constantine I=Saint Constantine]。272〜337年。ローマの西方副帝:306〜312年、西方正帝:312〜324年、全ローマの皇帝:324〜327年。
 「・・・[フラヴィウス・]コンスタンティウス(《Flavius Constantius。ローマの西方副帝:293〜305年、西方正帝:305〜306年》)の子として生まれたコンスタンティヌスは、・・・ディオクレティアヌス([Diocletian])退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。330年には・・・ビュザンティオン([Byzantium])(後のコンスタンティノポリス([Constantinople])、現イスタンブル)に遷都した。・・・<また、>ディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス({Dominatus}))を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った。・・・[なお、彼は、初めてキリスト教に改宗したローマ皇帝であり、313年にもう一人の皇帝だったリシニウス(Licinius)とともにミラノ勅令を発出してキリスト教を含む宗教の自由を認めた。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantine_the_Great ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantius_Chlorus (《》内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 ({}内)
 なお、コロヌス(colonus)は、「古代ローマの小作人。共和政末期から史料に現れるが,帝政期に入って奴隷制の占める比重が下がってくるとともに,農業における生産者層としての重要性を増した。帝政初期のコロヌスの地位は地域によって多様であるが,イタリアでは法律上完全な自由人で,地主との契約によってその土地の一部を耕し,期限(通常5年)終了後は土地を離れる自由を持っていた。しかし多くの史料によると,コロヌスはしばしば地代を滞納し,そのために地主に対して従属的な立場におかれるようになり,小作期間も長期化・世襲化していった。」
http://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8C%E3%82%B9

 自らをキリスト教化したローマを、<もはや>獣とみなすことはできな<くな>った<からだ>。
 そこで、新たな悪魔的悪漢達が指定されなければならなくなった。
 そのことは、ヨハネが書いたもの<、すなわち黙示録>の持続力を説明するものだ。
 ヨハネの<紡ぎ出した>「多価の(multivalent)」言葉は黙示録的なインクのしみ<(注18)>であって、その時々の支配者達が求めるどんな激論的な<一連の>意味群をも可能にするのだ。・・・」(A)

 (注18)「被験者にインクのしみを見せ、それから何を想像するかによって人格を分析しようと<する>・・・ロールシャッハ・テスト(・・・Rorschach test, Rorschach inkblot test)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88

 「・・・一旦ローマ帝国がキリスト教会の最良の友人になるや、啓示<、すなわち黙示録>の敵は、ローマ以外において見いださなければならなくなった。
 ・・・皇帝コンスタンティヌスは、・・・エウセビウス(Eusebius)<(注19)>の言葉によれば、「特定の人々は人間世界から毒のように抹殺されなければならない」ことを決定した<というが、ローマにとっての毒を抹殺するために黙示録は活用される運びとなったのだ>。

 (注19)カエサレアのエウセビオス(Eusebius of Caesarea。263?〜339年。
 「教父の一人であり、歴史家にして聖書注釈家。314年前後からカエサレア(《カイサリア》)・マリティマ(《Caesarea Maritima。パレスティナの港湾都市でローマ帝国はここをユダヤ属州の首都とし、ローマ総督と軍隊の駐屯地とした。》)の司教(主教)を務めた。・・・324年ごろからエウセビオスは、その教養と著述家としての名声によってコンスタンティヌス帝の寵愛を受けるようになった。325年のニカイア(ニケア(太田))公会議では、彼は皇帝からカエサレア教会の信条を提出するよう命じられたので、318人の出席者全員の前で読み上げた。しかし、最終的にはこのカエサレア信条に反アリウス主義的文言を付けくわえたニカイア信条が採択されることとなった。エウセビオスは本心からこれに賛成していたわけではなかったが、最終的には署名してこれに同意した。・・・さて、328年ごろにはコンスタンティヌス帝はすでにアリウス主義支持に傾いており、皇帝は334年のカエサレアでの宗教会議にアタナシオスを召喚するが、彼はそれに応じなかった。翌335年には、エウセビオスを議長としてティルス([Tyre])の宗教会議([synod])が開かれ、アタナシオスのアレクサンドリア司教罷免とその追放が決定された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%BB%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BE%BA%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A2 (《》内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eusebius_of_Caesarea ([]内)

 <こうして、>ヨハネが、元来、彼らのために広報宣伝活動(campaigning)をしていたところの、ユダヤ人達は、今や「預言者達の殺害者達であり、神の殺害者達である」という<風に立場がひっくり返される>ことにあいなったのだ。・・・」(B)

(続く)

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