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太田述正コラム#5344(2012.3.7)
<文化について考える(その5)>(2012.6.22公開)
さて、パゲルの主張の核心は、松尾の用語(コラム#5336)を借用して言えば、現存する文化・・すなわち、文化を共有した社会・・は、ことごとく、「身内集団原理」で動いているのであり、さもなければ、とっくの昔に壊滅させられたり征服されたりして消滅していただろう、というものです。
それでは、「身内集団原理」とは対蹠的な、「開放個人主義原理」で動いている、と恐らくは松尾も思っているであろうところの、アングロサクソン社会は、どうして、消滅せず生き残ってこれたどころか、一貫して繁栄し続けてこれたのでしょうか。
それは、まず第一に、アングロサクソン社会が「開放個人主義原理」で動いたのはあくまでも平時においてであり、生業である戦争(掠奪)に従事する際には、独裁制という究極の「身内集団原理」で動いたからでしょう。
そして、第二に、そんなアングロサクソン社会が、バスク系のブリトン人とか、ゲルマン系のアングル人とかサクソン人とかジュート人といった疑似親族集団を超えた集団を形成でき、また、平時における活動の比重が増して行っても「開放個人主義原理」による遠心力で分解しなかったのは、ブリトン人の文化が、バスク文化由来の・・それに加えて、彼らがゲルマン人到来以前に身に付けていたケルト文化由来の部分もあるかもしれませんが・・人間主義的な文化であったからでしょう。
つまり、アングロサクソン社会の「開放個人主義原理」は、セットたる独裁制、及び、緊張関係にある人間主義的文化、という二種類の異なった非個人主義的「原理」によって掣肘を受けているからこそ、この社会は、消滅することなく生き残り、繁栄を続けてくることができた、と私は考えるわけです。
結局のところ、「開放個人主義原理」だけで動いている社会などこの世に存在しないし、およそ存在するはずがないのです。
そうであるとすれば、松尾の主張は、その根底が誤っている、ということになります。
それは、同時に、「罪」の意識が「開放個人主義原理」の倫理を規定し、「恥」の意識が「身内集団原理」の倫理を規定する、とベネディクトの主張を松尾的に言い直せば、ベネディクトの主張もまたその根底が誤っていることを意味します。
更にまた、「する社会」を「開放個人主義原理」の社会、「である社会」を「身内集団原理」の社会、と丸山の主張をやはり松尾的に言い換えれば、丸山の主張もまたその根底が誤っている、ということになるのです。
私は、ベネディクトや丸山の著作で育った世代ですが、幼い時からのエジプト滞在経験を通じ、直観的に、アラブ社会と比較した、アングロサクソン社会と日本社会の著しい近似性を感じていたことから、アングロサクソン社会と日本社会の異質性を際立たせ、対置させるところの、ベネディクトや丸山の主張に最初から胡散臭さを感じました。
爾来、私は、どうしてアングロサクソン社会と日本社会が近似しているのか、という問題意識を抱き続けてきたのです。
パゲルの主張を踏まえつつ、この際、私なりの中間的結論を提示しておきたいと思います。
アングロサクソン社会と日本社会は、自然宗教志向性(コラム#114等)ないし自然愛好性(注3)とあいまった、「多元主義と寛容の精神」、或いは累次の革命なき大改革の断行(注4)(以上、コラム#84)、等において近似しているわけですが、それは、前述したように、それぞれの社会が、その内の一つが人間主義ないし人間主義的であるところの、異質な二つの文化が複合した文明の下にあることから、両社会の人々が、自分自身の社会を多元的かつ複合的に見ており、自分自身の社会に生じた新しい考え方や動きに対して寛容であるだけでなく、他の社会の文化に対しても寛容であり、継受した方が良い部分があると思った時にはそうするのを躊躇しないからだ、と思うのです。
(注3)庭園を通じて、特定の社会における自然観が見えてくる。「平面幾何学式庭園(フランス式庭園)に対して自然の景観美を追求した、広大な苑池から構成されるイギリス・・・式庭園」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92
と日本庭園の、自然愛好性という点での近似性を思え。
両者の違いは、両社会それぞれの置かれた風土の違い、及び自然に依存するとともに自然を作り替える農林水産業の形態の違い、の反映に過ぎない、とさえ言えるのではないか。
なお、書評Cは、パゲルのこの本とともに、David Sloan Wilsonの 'The Neighborhood Project' の評論も行っているが、「<著者である(進化生物学者にして人類学者の)ウィルソンが、バーミンガム等で推進している事業は、>人々の間の信頼を増進させるために、<都市に>公園群を造ることだ。文化的諸媒体(vehcles)の中に住んでいるにもかかわらず、我々は依然として自然の一部だからだ。都市における緑の空間が不安を減少させ、患者の恢復期間を短縮させ、犯罪の減少へと導くことの証拠は山ほどある」(C)というくだりを読むと、ウィルソンは日本人ではないかとさえ思えてくる。彼は、庭付きの住宅が少なくない日本の都市を理想とした上で、英国の都市で今更庭付きの住宅を大量に建てるわけにはいかないので、その代わり公園をたくさんつくる、という発想なのではないかと思いたくなる、ということだ。また、人間主義ないし人間主義的社会は自然愛好社会でもあることが改めて裏付けられた感がある。
(注4)アングロサクソン文明は不変の文明だと言っていた(コラム#1374、1645、2279)ではないか、と疑問を呈される方があるかもしれないが、イギリスは、例えば、資本主義という点では変化はなくても、農業社会から工業社会への転換を世界で最初に平和裏に成し遂げたし、議会主権という点では変化はなくても、国王の政治的権限の大幅削減を、これまた(古典古代時代のギリシャやローマはさておき、)世界で最初に、「ほぼ」平和裏に成し遂げたことを思い起こして欲しい。
どちらの文明も、全ての文化が平和裏に共存する全球的社会を実現しなければならない現代には、とりわけ、一般の単一文化の文明よりも適合的であると言えそうであり、これからは、この二大文明が、普遍性・・換言すればどれだけ他の文明に影響を及ぼすポテンシャルを持っているか・・を競い合って行くことになるだろう、と考えています。
私自身は、日本文明こそ今後の世界にとって最も普遍性があると信じていることはご承知のとおりです。
(続く)
<文化について考える(その5)>(2012.6.22公開)
さて、パゲルの主張の核心は、松尾の用語(コラム#5336)を借用して言えば、現存する文化・・すなわち、文化を共有した社会・・は、ことごとく、「身内集団原理」で動いているのであり、さもなければ、とっくの昔に壊滅させられたり征服されたりして消滅していただろう、というものです。
それでは、「身内集団原理」とは対蹠的な、「開放個人主義原理」で動いている、と恐らくは松尾も思っているであろうところの、アングロサクソン社会は、どうして、消滅せず生き残ってこれたどころか、一貫して繁栄し続けてこれたのでしょうか。
それは、まず第一に、アングロサクソン社会が「開放個人主義原理」で動いたのはあくまでも平時においてであり、生業である戦争(掠奪)に従事する際には、独裁制という究極の「身内集団原理」で動いたからでしょう。
そして、第二に、そんなアングロサクソン社会が、バスク系のブリトン人とか、ゲルマン系のアングル人とかサクソン人とかジュート人といった疑似親族集団を超えた集団を形成でき、また、平時における活動の比重が増して行っても「開放個人主義原理」による遠心力で分解しなかったのは、ブリトン人の文化が、バスク文化由来の・・それに加えて、彼らがゲルマン人到来以前に身に付けていたケルト文化由来の部分もあるかもしれませんが・・人間主義的な文化であったからでしょう。
つまり、アングロサクソン社会の「開放個人主義原理」は、セットたる独裁制、及び、緊張関係にある人間主義的文化、という二種類の異なった非個人主義的「原理」によって掣肘を受けているからこそ、この社会は、消滅することなく生き残り、繁栄を続けてくることができた、と私は考えるわけです。
結局のところ、「開放個人主義原理」だけで動いている社会などこの世に存在しないし、およそ存在するはずがないのです。
そうであるとすれば、松尾の主張は、その根底が誤っている、ということになります。
それは、同時に、「罪」の意識が「開放個人主義原理」の倫理を規定し、「恥」の意識が「身内集団原理」の倫理を規定する、とベネディクトの主張を松尾的に言い直せば、ベネディクトの主張もまたその根底が誤っていることを意味します。
更にまた、「する社会」を「開放個人主義原理」の社会、「である社会」を「身内集団原理」の社会、と丸山の主張をやはり松尾的に言い換えれば、丸山の主張もまたその根底が誤っている、ということになるのです。
私は、ベネディクトや丸山の著作で育った世代ですが、幼い時からのエジプト滞在経験を通じ、直観的に、アラブ社会と比較した、アングロサクソン社会と日本社会の著しい近似性を感じていたことから、アングロサクソン社会と日本社会の異質性を際立たせ、対置させるところの、ベネディクトや丸山の主張に最初から胡散臭さを感じました。
爾来、私は、どうしてアングロサクソン社会と日本社会が近似しているのか、という問題意識を抱き続けてきたのです。
パゲルの主張を踏まえつつ、この際、私なりの中間的結論を提示しておきたいと思います。
アングロサクソン社会と日本社会は、自然宗教志向性(コラム#114等)ないし自然愛好性(注3)とあいまった、「多元主義と寛容の精神」、或いは累次の革命なき大改革の断行(注4)(以上、コラム#84)、等において近似しているわけですが、それは、前述したように、それぞれの社会が、その内の一つが人間主義ないし人間主義的であるところの、異質な二つの文化が複合した文明の下にあることから、両社会の人々が、自分自身の社会を多元的かつ複合的に見ており、自分自身の社会に生じた新しい考え方や動きに対して寛容であるだけでなく、他の社会の文化に対しても寛容であり、継受した方が良い部分があると思った時にはそうするのを躊躇しないからだ、と思うのです。
(注3)庭園を通じて、特定の社会における自然観が見えてくる。「平面幾何学式庭園(フランス式庭園)に対して自然の景観美を追求した、広大な苑池から構成されるイギリス・・・式庭園」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92
と日本庭園の、自然愛好性という点での近似性を思え。
両者の違いは、両社会それぞれの置かれた風土の違い、及び自然に依存するとともに自然を作り替える農林水産業の形態の違い、の反映に過ぎない、とさえ言えるのではないか。
なお、書評Cは、パゲルのこの本とともに、David Sloan Wilsonの 'The Neighborhood Project' の評論も行っているが、「<著者である(進化生物学者にして人類学者の)ウィルソンが、バーミンガム等で推進している事業は、>人々の間の信頼を増進させるために、<都市に>公園群を造ることだ。文化的諸媒体(vehcles)の中に住んでいるにもかかわらず、我々は依然として自然の一部だからだ。都市における緑の空間が不安を減少させ、患者の恢復期間を短縮させ、犯罪の減少へと導くことの証拠は山ほどある」(C)というくだりを読むと、ウィルソンは日本人ではないかとさえ思えてくる。彼は、庭付きの住宅が少なくない日本の都市を理想とした上で、英国の都市で今更庭付きの住宅を大量に建てるわけにはいかないので、その代わり公園をたくさんつくる、という発想なのではないかと思いたくなる、ということだ。また、人間主義ないし人間主義的社会は自然愛好社会でもあることが改めて裏付けられた感がある。
(注4)アングロサクソン文明は不変の文明だと言っていた(コラム#1374、1645、2279)ではないか、と疑問を呈される方があるかもしれないが、イギリスは、例えば、資本主義という点では変化はなくても、農業社会から工業社会への転換を世界で最初に平和裏に成し遂げたし、議会主権という点では変化はなくても、国王の政治的権限の大幅削減を、これまた(古典古代時代のギリシャやローマはさておき、)世界で最初に、「ほぼ」平和裏に成し遂げたことを思い起こして欲しい。
どちらの文明も、全ての文化が平和裏に共存する全球的社会を実現しなければならない現代には、とりわけ、一般の単一文化の文明よりも適合的であると言えそうであり、これからは、この二大文明が、普遍性・・換言すればどれだけ他の文明に影響を及ぼすポテンシャルを持っているか・・を競い合って行くことになるだろう、と考えています。
私自身は、日本文明こそ今後の世界にとって最も普遍性があると信じていることはご承知のとおりです。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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