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太田述正コラム#5342(2012.3.6)
<文化について考える(その4)>(2012.6.21公開)
「・・・<この本の中で>提示される諸理論を裏付ける証拠は、多くの場合、間接的なものであるか、ほとんど存在しないか、全く存在しない。・・・
・・・<それどころか、>パゲルによって描写された、人間の社会的ふるまいに関する諸理論の若干は永久に証明されることはありえないだろう。・・・
人類の優位は、<他の動物に比べて>劇的に高級な遺伝子群に負うわけでは恐らくなく、彼らが欧州に到着するより約40,000年前の発展に負うと考えられる。
(その頃、)彼らが学習し、適応し、地球を乗っ取るための新諸戦略を獲得する能力を著しく加速化した何物かが起こったのだ。
すなわち、人類は、文化を獲得したのだ。・・・
・・・我々を他と相互に区別するところの諸文化は、極めて強力に我々のふるまいに影響を及ぼすので、個々の文化はその構成員達を自らの普及宣伝のための戦略に用いているのであって、その逆ではないという主張をすることもできる。
パゲルが記すように、我々の諸文化は、「我々の造形芸術、音楽、宗教、我々の比肩するもののない慈善行為…我々の正義、公正、利他主義、の感覚、そして自己犠牲についての感覚さえ、について責任がある」のだ。
しかし、<我々の諸文化は、>我々の利己、我々の民族的や人種的な諸偏見、我々の異人への不信、我々の戦争、そして、我々が、時には、宗教的、民族的や国家的大義のために自分達の子供達や自分達自身を殺す用意があることについてさえ<、責任がある>。・・・
パゲルは、人類諸社会における、互いに親族ではない構成員達の間での相互利他主義と協力の存在は、我が人類の顕著な業績であると強く主張するが、彼によるところの、どのようにしてかかるふるまいが発展してきたかについての説明は、彼の本の知的核心だ。
<このことに関する>これらの諸章を読み進めることは容易ではない。
というのも、<これらの諸章は、>どのように、利他主義が、(互いにくっつきあってそこから生殖用胞子を飛ばすための塔状の茎をつくる単細胞微生物である)社会的アメーバのような非人類諸種において進化したと考えられるか、について科学が解明したこと、及び、人類のふるまいと意思決定に関する心理学者達、社会生物学者達、経済学者達とゲーム理論家達による、被験志願者達またはコンピューター・シミュレーション群を伴うところの、広汎な研究、に依存しているからだ。
パゲルの分析によれば、<文化に係るところの、>言語、諸道徳、評判の経済的価値、宗教、造形芸術、そして群衆裁判(mob justice)でさえ、その全てが、特定の社会の構成員達が<互いに>協力するとともに、インチキをする者達や非協力者達を思いとどまらせることに役立っているのだ。・・・
我々人類の将来は、我々が、民族的な、そしてその他の文化的な違いの目印のかなたを見やる能力、他の諸集団の構成員達への信頼を次第に増進させていく用意があるかどうか、そして、「共有された目的と共有された諸結果という感覚…を奨励する」かどうか、にかかっている、とパゲルは予言する。・・・」(B)
3 私のパゲル解釈
以上、直訳したせいもあるでしょうが、全般的に分かりにくいとお感じになりませんでしたか。
今回、困ったのは、各書評を、それぞれの中で書かれている事項に応じてぶつ切りにした上で、それらを同一事項ごとにまとめて、各書評横断的に逐次紹介して行く、というお馴染みのやり方ができなかったことです。
それは、(ガーディアン、FT、ワシントンポスト、WSJという、英米の一般紙と経済紙の上澄み(だけ)がこの本の書評を載せた・・NYタイムスが沈黙していることがちょっと気になる・・のですから、この本には非常に人を惹きつけるものがあるのでしょうが、)この本が難解であるため、(当然一流の読み手であるはずの)各書評子が力にまかせて書評を書いたのはいいけれど、各書評子のこの本の解釈が微妙に異なったままそれぞれが自己完結した書評になってしまったためだ、と私は思うのです。
そもそも、パゲルが文化という言葉を、人間を人間たらしめているもの、という広義の意味と、個々の人間社会の文化という狭義の意味の両方で使っている点からして紛らわしいのですが、この本が難解になった最大の原因は、パゲルが文明と文化を分けて考えることをせず、文化だけで人間社会を説明しようとした点にあるように思います。
ニューギニアに800も言語があり、(やはりパゲルが曖昧な点ですが、どうやら同一言語≒同一文化、とパゲルが考えているらしいことから、)これは文化がおおむね800あるということであり、(ロシアとベラルーシを除く)欧州大陸においても、現時点にあっては国の数だけ・・例外はベルギーやスイス・・言語がある、従って、おおむね国の数だけ文化があるということであり、だからこそ、パゲルが言うように、各文化の担い手たる住民は、ニューギニアでも欧州でも、つい最近まで相互に紛争を繰り返してきたわけですが、ニューギニアの原住民達は、(東西それぞれが異なった宗主国の植民地になってからは事情が若干異なるのでしょうが、)かつてはおおむね同じようなものの考え方や生き方をしていたのでしょうし、欧州大陸の住民達は、(最近欧州外から移住してきた人々、とりわけイスラム教徒の人々を除き、或いはまた、ジプシーを除き、)かつても、そして現在もおおむね同じようなものの考え方や生き方をしているところです。
この「おおむね同じようなものの考え方や生き方」というのが、私の文明のイメージなのです。
さて、ニューギニアや欧州は、同質の文化群を包摂する文明・・それぞれ、ニューギニア文明(?)と欧州文明・・を持っているという意味でごくありふれた存在であるのに対して、日本とイギリスは、それぞれ二つの異質の文化が複合した(、ただし歴史の早い段階で単一言語化した)ところの、互いに似通った文明を持っているユニークな存在である、というのが私の見解です。
日本が縄文文化と弥生文化が複合した文明・・日本文明・・の社会である、ということは太田コラムの読者に改めて申し上げる必要はありますまい。
では、イギリスの方はどうか。
これも、これまでのコラムの随所で示唆してきたつもりですが、イギリスは、古バスク文化に由来すると想像されるところの、人間主義的文化と、ゲルマン文化に由来する個人主義文化が複合した文明・・アングロサクソン文明・・の社会である、と思うのです。
(続く)
<文化について考える(その4)>(2012.6.21公開)
「・・・<この本の中で>提示される諸理論を裏付ける証拠は、多くの場合、間接的なものであるか、ほとんど存在しないか、全く存在しない。・・・
・・・<それどころか、>パゲルによって描写された、人間の社会的ふるまいに関する諸理論の若干は永久に証明されることはありえないだろう。・・・
人類の優位は、<他の動物に比べて>劇的に高級な遺伝子群に負うわけでは恐らくなく、彼らが欧州に到着するより約40,000年前の発展に負うと考えられる。
(その頃、)彼らが学習し、適応し、地球を乗っ取るための新諸戦略を獲得する能力を著しく加速化した何物かが起こったのだ。
すなわち、人類は、文化を獲得したのだ。・・・
・・・我々を他と相互に区別するところの諸文化は、極めて強力に我々のふるまいに影響を及ぼすので、個々の文化はその構成員達を自らの普及宣伝のための戦略に用いているのであって、その逆ではないという主張をすることもできる。
パゲルが記すように、我々の諸文化は、「我々の造形芸術、音楽、宗教、我々の比肩するもののない慈善行為…我々の正義、公正、利他主義、の感覚、そして自己犠牲についての感覚さえ、について責任がある」のだ。
しかし、<我々の諸文化は、>我々の利己、我々の民族的や人種的な諸偏見、我々の異人への不信、我々の戦争、そして、我々が、時には、宗教的、民族的や国家的大義のために自分達の子供達や自分達自身を殺す用意があることについてさえ<、責任がある>。・・・
パゲルは、人類諸社会における、互いに親族ではない構成員達の間での相互利他主義と協力の存在は、我が人類の顕著な業績であると強く主張するが、彼によるところの、どのようにしてかかるふるまいが発展してきたかについての説明は、彼の本の知的核心だ。
<このことに関する>これらの諸章を読み進めることは容易ではない。
というのも、<これらの諸章は、>どのように、利他主義が、(互いにくっつきあってそこから生殖用胞子を飛ばすための塔状の茎をつくる単細胞微生物である)社会的アメーバのような非人類諸種において進化したと考えられるか、について科学が解明したこと、及び、人類のふるまいと意思決定に関する心理学者達、社会生物学者達、経済学者達とゲーム理論家達による、被験志願者達またはコンピューター・シミュレーション群を伴うところの、広汎な研究、に依存しているからだ。
パゲルの分析によれば、<文化に係るところの、>言語、諸道徳、評判の経済的価値、宗教、造形芸術、そして群衆裁判(mob justice)でさえ、その全てが、特定の社会の構成員達が<互いに>協力するとともに、インチキをする者達や非協力者達を思いとどまらせることに役立っているのだ。・・・
我々人類の将来は、我々が、民族的な、そしてその他の文化的な違いの目印のかなたを見やる能力、他の諸集団の構成員達への信頼を次第に増進させていく用意があるかどうか、そして、「共有された目的と共有された諸結果という感覚…を奨励する」かどうか、にかかっている、とパゲルは予言する。・・・」(B)
3 私のパゲル解釈
以上、直訳したせいもあるでしょうが、全般的に分かりにくいとお感じになりませんでしたか。
今回、困ったのは、各書評を、それぞれの中で書かれている事項に応じてぶつ切りにした上で、それらを同一事項ごとにまとめて、各書評横断的に逐次紹介して行く、というお馴染みのやり方ができなかったことです。
それは、(ガーディアン、FT、ワシントンポスト、WSJという、英米の一般紙と経済紙の上澄み(だけ)がこの本の書評を載せた・・NYタイムスが沈黙していることがちょっと気になる・・のですから、この本には非常に人を惹きつけるものがあるのでしょうが、)この本が難解であるため、(当然一流の読み手であるはずの)各書評子が力にまかせて書評を書いたのはいいけれど、各書評子のこの本の解釈が微妙に異なったままそれぞれが自己完結した書評になってしまったためだ、と私は思うのです。
そもそも、パゲルが文化という言葉を、人間を人間たらしめているもの、という広義の意味と、個々の人間社会の文化という狭義の意味の両方で使っている点からして紛らわしいのですが、この本が難解になった最大の原因は、パゲルが文明と文化を分けて考えることをせず、文化だけで人間社会を説明しようとした点にあるように思います。
ニューギニアに800も言語があり、(やはりパゲルが曖昧な点ですが、どうやら同一言語≒同一文化、とパゲルが考えているらしいことから、)これは文化がおおむね800あるということであり、(ロシアとベラルーシを除く)欧州大陸においても、現時点にあっては国の数だけ・・例外はベルギーやスイス・・言語がある、従って、おおむね国の数だけ文化があるということであり、だからこそ、パゲルが言うように、各文化の担い手たる住民は、ニューギニアでも欧州でも、つい最近まで相互に紛争を繰り返してきたわけですが、ニューギニアの原住民達は、(東西それぞれが異なった宗主国の植民地になってからは事情が若干異なるのでしょうが、)かつてはおおむね同じようなものの考え方や生き方をしていたのでしょうし、欧州大陸の住民達は、(最近欧州外から移住してきた人々、とりわけイスラム教徒の人々を除き、或いはまた、ジプシーを除き、)かつても、そして現在もおおむね同じようなものの考え方や生き方をしているところです。
この「おおむね同じようなものの考え方や生き方」というのが、私の文明のイメージなのです。
さて、ニューギニアや欧州は、同質の文化群を包摂する文明・・それぞれ、ニューギニア文明(?)と欧州文明・・を持っているという意味でごくありふれた存在であるのに対して、日本とイギリスは、それぞれ二つの異質の文化が複合した(、ただし歴史の早い段階で単一言語化した)ところの、互いに似通った文明を持っているユニークな存在である、というのが私の見解です。
日本が縄文文化と弥生文化が複合した文明・・日本文明・・の社会である、ということは太田コラムの読者に改めて申し上げる必要はありますまい。
では、イギリスの方はどうか。
これも、これまでのコラムの随所で示唆してきたつもりですが、イギリスは、古バスク文化に由来すると想像されるところの、人間主義的文化と、ゲルマン文化に由来する個人主義文化が複合した文明・・アングロサクソン文明・・の社会である、と思うのです。
(続く)
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