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太田述正コラム#5340(2012.3.5)
<文化について考える(その3)>(2012.6.20公開)

 「地球の歴史において、人類の言語と文化の出現は、生物の起源それ自体とほとんど同じくらい重要だ。
 というのは、これらは、一つの生命体からもう一つの生命体への情報伝達の新しい方法をもたらしたからだ。
 それより前においては、大部分の情報伝達は、遺伝的に、親から子孫にDNA経由で行われた。
 しかし、言語を使えるようになると、情報は、それを理解できる誰に対しても伝達できるようになったのだ。
 また、文化は、この「誰」がどんな人々であるかを、相当程度、決定する。
 しかも、文化は、記憶、ノウハウ、そして技術と共にやってくるわけだが、それは、我々がゼロから出発し、毎世代ごとに、<例えば、>車輪を改めて発明する必要がないことを意味する。
 要するに、言語と文化は、新しい種類の進化、すなわち、観念、思想及び慣行(practices)の進化を可能にしたわけだ。
 何と言っても、我々の遺伝子と比べれば、文化ははるかに速く進化することができる。
 それ<が起こったの>は最近のことなのだ。
 生命が始まったのは35億年前後前だが、人類の言語と文化は、わずかに過去200,000年以降に、そして都市はわずかに過去10,000年以降に始まった。
 しかし、かかる進展は大きな効果をもたらした。
 我々人類は、遺伝子においてはほとんど違いがないが文化においては非常に違う。
 今日では、7,000もの<知らない者は>互いに理解できない言語が存在し、それをはるかに超える数の文化と下位文化(subculture)が存在する。
 もちろん、文化的進化は遺伝的進化と協力して働く。
 我々が文化<を生み出した>進化を遂げた途端、今度は文化が我々を進化させ始めたのだ。
 このプロセスは、<牧畜文化の生誕が成人になっても乳糖分解能力を失わない遺伝子を持つ人間を生み出したことに象徴されているように、>食餌の面において、最も明確に見られるところだ。・・・
 しかし、食餌<に係る遺伝的進化>は始まりに過ぎなかった。
 言語と文化の出現は、広範な新しい進化空間を開いたのだ。
 ・・・パゲルは、諸文化は不可視の諸構造・・彼は、それらを人類がその中に住む「媒体(vehicle)」と呼ぶ・・を形作っていると主張する。
 それらの諸構造は、我々を、ダーウィンが呼ぶところの「生存闘争」の若干から隔離(insulate)してくれる。
 それらは、我々が食物、住居、そして番の相手を見つけるのを容易にしてくれる。
 文化とそれが与えてくれる道具類がなければ、人類は世界中に移住して、砂漠、熱帯雨林、遠隔の島や極圏の荒野といった多様な環境の地に棲息することはできなかっただろう。
 しかし、それと同時に、文化の進化は新しい諸力を創造した。
 とりわけ、それは、調和する、好かれる、手助けする、といった、我々が一つの文化の中・・すなわち一つの人間集団の中で繁栄することを可能にする社会的スキルを重んじさせた。
 だから、我々が、文化から陶片追放されたり文化からの亡命の対象となるようなことがあれば、それは、恐らく我々の生存の多くに対して死刑宣告が下されたに等しいだろう。
 また、文化の進化は学習を重んじさせた。
 赤ん坊は話すことになる言語、その下で棲息することになる諸慣習、諸習慣、諸信条について、事前の知識を持っていない。
 だから、赤ん坊は生まれた時にそれらすべてを学習する能力がなければならない。
 このため、人間の脳は、文化を身に着ける並外れた能力を進化させた。
 それが意味するところは何だろうか。
 文化が、少なくとも遺伝的なものと同等、いやほぼ間違いなく遺伝的ないかなるものよりも強力であること、を意味する。
 考えても見よ。
 君が歩いたりしゃべったりする仕方、君が纏う衣類、君の個人的空間に係る感覚、君が誰かを侮辱するために用いる仕草、は文化的なものであって君の周辺の人々から、典型的には君が若い時に獲得したものだ。
 パリの米国人やオマハのイタリア人を見つけるのがしばしば非常に容易である理由はここにある。
 我々は自分達の文化を体現しているわけだ。
 我々は、彼らを「頭脳付ける(embrain)」こともする。
 かなりの程度まで、我々の世界観・・我々が抱く諸信条、我々が崇拝する神々、我々が敵であると考える諸集団・・は文化的なものなのだ。
 君は自分が注意深く理性的であり、諸見解を<比較検討した上で自分で>選択したと思い込んでいるかもしれないが、君が、仮に違った文化の中に生まれ落ちていたとすれば、或いは、君が、生んでくれた両親のそれとは違った文化の中へ赤ん坊の時に養子に出されていたとすれば、君はその文化の諸姿勢を採用していたであろう可能性が高いのだ。
 君がかくも熱情的に抱いている諸信条は、違った諸信条になっていただろうし、君がそのために死んでもいいとさえ思っている諸観念もまた、違った諸観念になっていたことだろう。
 ちょっと待て。
 君がそのために死んでもいいと思っている諸観念だって?
 わずかの間でいいから考えごらん。
 一人の人を救うためではなく、新しい領地を征服するためでもなく、一つの信条、一つの抽象、一つの思想を守るために自分の生命を危険に晒すことの不可思議さを・・。
 しかも、それは偶然の(arbitrary)産物なのだよ。
 仮に君が違った文化の中に生まれ落ちておれば、君は違った一連の諸観念のために敗北する用意があったはずなのだ。
 これぞ、文化が我々の脳に及ぼした力なのだ、とパゲル氏は説明する。
 パゲル氏の議論の中心は、文化は、我々を「超社会的(ultrasocial)」哺乳類へと進化させ、見知らぬ人々の稠密な集合体の中で(相対的に)平和的に生活することができるようにした、という観念だ。
 他の動物でこれをやる者は存在しない。
 他の動物が一緒に生活する場合は、彼らは家族諸集団の中で生活する。
 これが個々人をして自分達自身を助けつつ他者を助けることを可能にする。
 すなわち、君の兄弟達、姉妹達、そして従兄弟達は、遺伝子の若干を君と共有しているので、彼らを助けることは君自身の遺伝子群を助けることになるからだ。
 人類の諸文化は、代理諸家族(families-by-proxy)、ないし「相互扶助諸社会」を代表しているのであって、利他主義や協力の諸行為に対し、それらが家族に向けられない<で家族以外に向けられる>場合に、報酬を与える、とパゲル氏は述べる。
 このような解釈をとれば、山高帽や粉をかけたカツラを身に着けるかどうか、挨拶する場合に握手するかお辞儀するか鼻をこするか、といった文化の対外的象徴(badges)は、その相互扶助社会に君が属しているのか、そして誰なら君が安心して信頼することができるのかを示す諸信号である、ということになる。
 こう考えることで、しばしば小さな諸空間に詰め合されたところの、夥しい数の人類の諸文化が存在するのはどうしてかをある程度説明することができるのかもしれない。
 それはまた、我々の親切な行為や自己犠牲的行為を行う能力が異様な暴力を行う能力と共存することができる理由についても説明できるのかもしれない。
 パゲル氏の本の明白ないくつかの結論は、総じて我々を喜ばせるものではない。
 最初に、そして真っ先に言っておかなければならないのは、文化の中に住むことがうまいということは、創造したり発明したりする脳を持っていることを意味しないということだ。
 それは、他者達が行うことを写し取ることがうまい脳を持っているということでしかない。
 それは、この世界を明瞭に見たり君に個人を理解させたりすることができる脳を持っていることを意味しないのだ。
 それが意味するのは、君の周辺の人々に取り入りつつ自分の諸利益を追求することを可能にする脳を持っている、ということだ。
 要約すれば、人類は、意識的にか否かはともかくとして、同僚達の圧力と社会的諸規範に対する感受性が霊妙に高く、目にするものに同調(conform)しがちであるところの、郷に入りては郷に従え的な動物へと進化してきたように見える、ということなのだ。・・・」(C)

(続く)

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