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太田述正コラム#5232(2012.1.12)
<ビスマルク(その5)>(2012.4.29公開)

7 ビスマルクとユダヤ人

「・・・ビスマルクが同時代人であるカール・マルクスと、嘲りを政治的武器として愛用したという点と、シェークスピア、シャミッソー(Chamisso)<(注24)>、及びハイネ(Heine)<(注25)>に対する嗜好があったという点で共通していたことを、時に我々は思い出させられることがある。・・・」(A)

 (注24)Adelbert von Chamisso。1781〜1838年。フランス生まれだがフランス革命で祖国を逃れた両親と共にドイツに移住。詩人にして植物学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Adelbert_von_Chamisso
 (注25)クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ=Christian Johann Heinrich Heine。1797〜1856年。ユダヤ系ドイツたる詩人、作家、ジャーナリスト。若き日のマルクスとも親交があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8D

 「・・・彼は、ベルリンのドイツ最大のシナゴーグの開設式に出席した一方で、ドイツ社会で燃え盛っていた反ユダヤ人主義を踏み消すためのことを何一つしなかった。
 それと同時に、死ぬまで彼が敬意を抱き続けたのは、ユダヤ人たる社会主義者のフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Lassalle)<(注26)>だった。

 (注26)Ferdinand Lassalle。1825〜64年。ユダヤ系ドイツ人たる政治学者、社会主義者、労働運動指導者。当時プロイセン領であった、現ポーランド領ヴロツワフ(当時ブレースラウ)に生まれる。
 ヘーゲル左派の一人として、当初マルクスに協力したが、その後、マルクス主義的な階級国家論に拠らず、ヘーゲル的な国家論に基づき、国家の道義性(もしくは超階級性)を前提に、国家権力を通じて労働者階級の利益を擁護・拡張し社会主義に到達することが可能である、という国家社会主義を唱えた。「ビスマルク(および彼のブレーンであったシュモラーら一群の「講壇社会主義者」)による社会政策は、現存の資本主義的な社会体制を肯定し、そこから生じる弊害(労資対立などの社会問題)を除去することを目的とする社会改良主義であるという点で、資本主義を否定するラッサール流の国家社会主義とは根本的に異なっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB

 皮肉なことに、「彼の<カトリック信徒たる>イエズス会士及びユダヤ人との交際」が若きウィルヘルム2世に1890年におけるビスマルク解任の口実を与えた。・・・」(D)
 
 「・・・議会では、ビスマルクは、狂気じみた反動であり、かつ野蛮なる議論者だったが、彼の階級と国をまさに特徴づけたところの反ユダヤ人主義に燃料をくべることに応分の役割を果たした。
 すなわち、彼は一度こう宣言したことがある。
 「聖なる国王陛下の議員たるところの私が従うべきユダヤ人が一人私の面前にいるとするならば」自分は深く不面目と感ずる、と。
 それでも、この彼のユダヤ人嫌い(phobia)についても、彼は、自分の強面(こわおもて)の実際主義(pragmatism)と折り合いを付けようとした。
 外交における実益政治(Realpolitik)の父たるビスマルクは、能力あるユダヤ人の面々、特に彼の個人的な取引先の銀行のオーナー、とは、それが彼にとって具合が良い場合には、好んで一緒に仕事をしたのだ。・・・」(G)

 「・・・ビスマルクの反ユダヤ人主義は、人種主義的な欧州の反ユダヤ人主義の新しい波の一環でもあったけれど、19世紀のドイツにおける、古の憎しみの新しい種類という代物であったと言える。
 ジョナサン・ステインバーグは、ビスマルクの反ユダヤ人主義について報告し分析するにあたり、良い仕事をした。
 彼は、ビスマルクの抱いていた種々の偏見の幅と深さに関する議論において遠慮会釈がない。
 しかし、ここでも、その文脈が記されていない。
 キリスト教の宗教的反ユダヤ主義(anti-Judaism)を人種主義的な反ユダヤ人主義(anti-Semitism)へと変貌させたところの、生まれつつあった生物学と人類学という科学、を、ユダヤ人憎悪者達がハイジャックした、という文脈が・・。
 しかし、それだけではなかった。
 ドイツ独特の(descrete)の文脈もあったのだ。
 それは、ドイツ史とドイツ文学に深く根差した動態(dynamic)だ。
 それは、ユダヤ人が参加できないところの、有機体たる古のテュートン精神を代表する人々であるドイツ民族(German Volk)、という観念であり、それへの切望(yearning)だった。
 18世紀と19世紀の合理主義は、「諸人種」の区別をもたらし、ユダヤ人は「人種」、しかも劣等なそれ、として特徴づけられることとなった。
 そして、ドイツ民族は、もちろん、人種主義的トーテム・ポール(totem-pole)の頂点に位置付けられたのだ。・・・」(I)

(続く)

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