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太田述正コラム#5228(2012.1.10)
<ビスマルク(その3)>(2012.4.27公開)
5 ビスマルクの事績
「1862年の夏に、オットー・フォン・ビスマルクはプロイセンの首相に任命された。
それまでに彼が就いた最も高いポストは駐ロシア大使だったというのに・・。
彼は、行政上のポストに就いたこともなかった。
しかし、若干の断固たる短い一撃の繰り返しだけで、この新米の首相は、2世代にわたって欧州の外交を行き詰らせていた判じ物のなぞ解きをしてしまったのだ。
この判じ物とは、どうやってドイツを統一し中欧を再組織するか、ということだ。
彼は、ドイツが、いわゆるドイツ連邦(German Confederation)<(注10)>内の39の主権国家群から成っていたという障害を克服する必要があった。
(注10)Deutscher Bund。1815年のウィーン会議で設けられたところの、ドイツ語圏諸国の経済をゆるやかに統合するための連合体。プロイセンの東部とオーストリアの半分以上(東部)は除外されていた。1866年の普墺戦争の結果崩壊し、1867年には北ドイツ連邦が成立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/German_Confederation
なお、このドイツ連邦の旗が1848年に制定されたところ、北ドイツ連邦/ドイツ帝国時代には別の旗になったが、1919年にワイマール共和国の旗として復活し、ナチス時代のハーケンクロイツ旗を経て、1949年にドイツ連邦共和国(西独)の旗として再復活し、東西ドイツ統一を経て、今なおドイツ連邦共和国旗として用いられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
その間、ずっと、<ドイツの>二つの「両側の(flanking)」大国であるフランスとロシアは、この中欧での動き(trends)を心配げに見守っていた。
この両国は、既存の欧州の勢力均衡を変更することができる国家が出現することを心配すると同時に防ぎたいと思っていたのだ。・・・
彼は、ドイツ領邦諸国家の君主達を二つの戦争においては克服し、三番目の戦争においては糾合した。
また、男性普通選挙権を与えることで世論を勝ち取った。そして、このことで、プロイセンは欧州で最初の男性普通選挙国になった。
更に、フランスによるルクセンブルグ獲得に同意するかのようにふるまうことでフランスを、1863年のポーランド革命<(注11)>の際にじっとしていたことでロシアを、金縛りにした。
(注11)1863年1月から1864年春までの、ロムアルト・トラウグット(Romuald Traugutt。1826〜64年)率いるポーランド人パルチザン部隊によるロシアに対する蜂起。結局、失敗。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Poland
http://en.wikipedia.org/wiki/Romuald_Traugutt
ビスマルクはこれら全てを、「一人の兵士を指揮することなく、また、議会で大きな多数を占めることなく、大衆運動の支持を得ることなく、それまで政府における経験があったわけでもないのに、しかも民族革命に直面しつつ、彼の名前と評判だけによって」達成したのだ。・・・
彼は、ロシア皇帝に対しては神聖同盟<(注12)>の諸原則に則った訴えを行い、フランスに対してはリベラルな諸制度に対して寛容(openness)である旨訴え、ドイツのリベラル達に対しては彼らに人気のある法律制定の可能性を訴えた。
(注12)「1815年に対ナポレオン戦争が終結すると、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、オーストリア皇帝、プロイセン国王との間で神聖同盟を発足させた。のちにローマ教皇・オスマン帝国皇帝・イギリス王を除く全ヨーロッパの君主が加わった。これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E5%90%8C%E7%9B%9F
彼は、三つの軍事戦役を戦った。
<この三つは、>それぞれ限定された政治的目的を持っており、敵に恥辱を与えるというよりは敵を説き伏せる(co-opt)ことを目指したものだ。
彼のリーダーシップの下で、プロイセンは、<男性>普通選挙制を導入した点で<世界>最初の国となっただけでなく、その後、包括的な社会法の施行という点でも、<世界>最初の国となった。
彼がかくも優位に立ちえたのは、彼が、より強力だったからというよりは、彼の敵達が、彼に比べて機敏(nimble)ではなかったからだ。・・・」(B)
「間違いなく、<ドイツ>単一国家の鍛造は、バイエルンのルードヴィッヒ(Ludwig)2世<(注13)>のような潜在的支持者達に秘密賄賂を分け与える用意がビスマルクにはあったことによって助けられて、驚くべき円滑さでもって達成された。
(注13)Ludwig Otto Friedrich Wilhelm。1845〜86年。狂っているとして退位させられ、そのすぐ後で突然死を遂げた。ノイエシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)を建造し、ワーグナーを支援したことで知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_II_of_Bavaria
ドイツの君主国家群が統一されることで解き放たれたのは、(ビスマルクが生まれた年である)1815年にメッテルニッヒ(Metternich)<(注14)>とカッスルレー(Castlereagh)<(注15)>がかくも苦心惨憺して確立したところの、微妙極まる(delicate)勢力均衡から欧州が離れる、非可逆的な動きだった。
(注14)Prince Klemens Wenzel von Metternich。1773〜1859年。1809〜48年:オーストリア帝国第二代外相。1821〜48年:オーストリア帝国初代宰相(State Chancellor)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Klemens_von_Metternich
なお、ナポレオン戦争が終わった1815年から第一次世界大戦が勃発した1914年までを欧州協調(Concert of Europe)の時代と呼ぶことがあるが、この時代はメッテルニッヒの時代(Age of Metternich)とも呼ばれる。英普墺露対仏4国同盟(Quadruple Alliance)が、ナポレオン没落後、フランスを加えた形で再編され、これら5大国間の勢力均衡によって欧州では大戦争の勃発を回避できた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Concert_of_Europe
(注15)Robert Stewart, Viscount Castlereagh→Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry。1769〜1822年(自殺)。1812〜22年:英外相。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Stewart,_Viscount_Castlereagh
1871年以降、この均衡は、<地理的意味での>欧州諸国中最大の陸軍、二番目に大きな海軍、そして最も先端のテクノロジーを持つ国であるドイツ帝国へと傾き始めた。
ディズレーリが不安を感じたことには何の不思議もない。
不安を感じたのは彼だけではなかった。
もう一人のイギリス人ベルリン訪問者たる、・・・ラッセル卿は、ビスマルクから示された、彼をおだて挙げるという関心を当然のこととして受け入れつつ、「ビスマルクの中の悪魔的なものは、私が知っているいかなる男よりも強力だ」と宣言した。
ビスマルクの怒り性は巨大であり、見ている者をおののかせた。
彼の復讐への欲望は絶える間がなかった。
彼の、自分の同僚達への不忠実さは信じ難いほどだ。
これらのことは、彼が1876年に固めたところの、プロイセンでの生きたカトリックの痕跡の破壊に向けての決意は、彼の長男の婚姻計画の意図的破壊同様、復讐的であり非正義だった。
<彼の長男の>ヘルベルト・フォン・ビスマルクは、離婚していた美しいカトリック信徒と恋に落ちたが、不幸なことに、彼女の姉妹達は、プロイセンの政治家<たるビスマルク>の「敵達」と結婚していたのだ。
ビスマルクは、このロマンスを、自分の息子の相続権を奪い、全面的に追放するぞ、と脅すことによってぶちこわした。・・・」(C)
「プロイセン貴族の間で人気があった福音的ルター主義(evangelical Lutheranism)に改宗したところのビスマルクは、非宗教的な学校と宗教色抜きの離婚(civil divorce)を導入した人物でもあった。
カトリックの迫害者たるビスマルクは、「文化闘争(culture war=Kulturkampf)」<(注16)>の引き金を引いたが、その一方で、素晴らしいカトリック議員であったルードヴィッヒ・ヴィンドトルスト(Ludwig Windthorst)<(注17)>を認める、という人物でもあったのだ。・・・」(D)
(注16)「ドイツ帝国は1866年成立の北ドイツ連邦を引き継いだものであるため、南ドイツの国々(特にカトリックのバイエルン)の帝国への加盟はビスマルクの目にはドイツ帝国の安定に対する潜在的脅威と映った。1870年の第1回バチカン公会議で教皇不可謬性が宣言されたことを契機として緊張が高まった。ドイツ東部(主にポーランド人)、ラインラント、アルザス・ロレーヌでも多くのカトリック教徒が存在した。ビスマルクはオーストリア帝国の介入を慎重に避けながらドイツ帝国を組織していった。オーストリア帝国は上記のカトリック諸地域よりさらに強力なカトリック国家であったからである。カトリック教会の影響を抑えるために採られた手段の中には、1871年にドイツ刑法に付加された第130条aが挙げられる。これは聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課すというものだった。この条項は「説教壇法(カンツェルパラグラフKanzelparagraf)」と呼ばれた。
1872年3月には宗教学校は当局から査察を受けることになった。6月には政府系の学校から宗教の教師が追放された。加えて、アダルベルト・ファルクの導入した「五月法」によって、国家は聖職者教育を細かく管理するようになり、聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所を設置し、全ての聖職者が記載された届書の提出を求めた。1872年にはイエズス会の活動が禁止された。この禁止措置は1917年まで続いた。1872年12月にはバチカンと断交した。1874年になると、結婚はカトリック教会の手から離れて、教会の儀式でなく世俗的な儀式によって行われても有効となった。・・・
カトリック教会の影響力はカトリック中央党が代表したが、これを制限しようとしたビスマルクの試みは不成功に終わった。1874年のドイツ帝国議会選挙では、カトリック勢力の議席は2倍に増えることとなった。社会民主党に対抗する必要からビスマルクは反教会的態度をやわらげるようになった。特に1878年の教皇レオ13世即位の後その傾向が顕著となった。ビスマルクはいまや多数派となったカトリック系の議員に対して自らの政策の正当性を訴えるために、ドイツ国内におけるポーランド人(圧倒的にカトリック教徒が多かった)の存在を引き合いに出すようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%97%98%E4%BA%89
(注17)1812〜91年。ドイツ統一と文化闘争の時期において、カトリック中央党党首として、最も著名なビスマルク反対者となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Windthorst
(続く)
<ビスマルク(その3)>(2012.4.27公開)
5 ビスマルクの事績
「1862年の夏に、オットー・フォン・ビスマルクはプロイセンの首相に任命された。
それまでに彼が就いた最も高いポストは駐ロシア大使だったというのに・・。
彼は、行政上のポストに就いたこともなかった。
しかし、若干の断固たる短い一撃の繰り返しだけで、この新米の首相は、2世代にわたって欧州の外交を行き詰らせていた判じ物のなぞ解きをしてしまったのだ。
この判じ物とは、どうやってドイツを統一し中欧を再組織するか、ということだ。
彼は、ドイツが、いわゆるドイツ連邦(German Confederation)<(注10)>内の39の主権国家群から成っていたという障害を克服する必要があった。
(注10)Deutscher Bund。1815年のウィーン会議で設けられたところの、ドイツ語圏諸国の経済をゆるやかに統合するための連合体。プロイセンの東部とオーストリアの半分以上(東部)は除外されていた。1866年の普墺戦争の結果崩壊し、1867年には北ドイツ連邦が成立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/German_Confederation
なお、このドイツ連邦の旗が1848年に制定されたところ、北ドイツ連邦/ドイツ帝国時代には別の旗になったが、1919年にワイマール共和国の旗として復活し、ナチス時代のハーケンクロイツ旗を経て、1949年にドイツ連邦共和国(西独)の旗として再復活し、東西ドイツ統一を経て、今なおドイツ連邦共和国旗として用いられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
その間、ずっと、<ドイツの>二つの「両側の(flanking)」大国であるフランスとロシアは、この中欧での動き(trends)を心配げに見守っていた。
この両国は、既存の欧州の勢力均衡を変更することができる国家が出現することを心配すると同時に防ぎたいと思っていたのだ。・・・
彼は、ドイツ領邦諸国家の君主達を二つの戦争においては克服し、三番目の戦争においては糾合した。
また、男性普通選挙権を与えることで世論を勝ち取った。そして、このことで、プロイセンは欧州で最初の男性普通選挙国になった。
更に、フランスによるルクセンブルグ獲得に同意するかのようにふるまうことでフランスを、1863年のポーランド革命<(注11)>の際にじっとしていたことでロシアを、金縛りにした。
(注11)1863年1月から1864年春までの、ロムアルト・トラウグット(Romuald Traugutt。1826〜64年)率いるポーランド人パルチザン部隊によるロシアに対する蜂起。結局、失敗。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Poland
http://en.wikipedia.org/wiki/Romuald_Traugutt
ビスマルクはこれら全てを、「一人の兵士を指揮することなく、また、議会で大きな多数を占めることなく、大衆運動の支持を得ることなく、それまで政府における経験があったわけでもないのに、しかも民族革命に直面しつつ、彼の名前と評判だけによって」達成したのだ。・・・
彼は、ロシア皇帝に対しては神聖同盟<(注12)>の諸原則に則った訴えを行い、フランスに対してはリベラルな諸制度に対して寛容(openness)である旨訴え、ドイツのリベラル達に対しては彼らに人気のある法律制定の可能性を訴えた。
(注12)「1815年に対ナポレオン戦争が終結すると、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、オーストリア皇帝、プロイセン国王との間で神聖同盟を発足させた。のちにローマ教皇・オスマン帝国皇帝・イギリス王を除く全ヨーロッパの君主が加わった。これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E5%90%8C%E7%9B%9F
彼は、三つの軍事戦役を戦った。
<この三つは、>それぞれ限定された政治的目的を持っており、敵に恥辱を与えるというよりは敵を説き伏せる(co-opt)ことを目指したものだ。
彼のリーダーシップの下で、プロイセンは、<男性>普通選挙制を導入した点で<世界>最初の国となっただけでなく、その後、包括的な社会法の施行という点でも、<世界>最初の国となった。
彼がかくも優位に立ちえたのは、彼が、より強力だったからというよりは、彼の敵達が、彼に比べて機敏(nimble)ではなかったからだ。・・・」(B)
「間違いなく、<ドイツ>単一国家の鍛造は、バイエルンのルードヴィッヒ(Ludwig)2世<(注13)>のような潜在的支持者達に秘密賄賂を分け与える用意がビスマルクにはあったことによって助けられて、驚くべき円滑さでもって達成された。
(注13)Ludwig Otto Friedrich Wilhelm。1845〜86年。狂っているとして退位させられ、そのすぐ後で突然死を遂げた。ノイエシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)を建造し、ワーグナーを支援したことで知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_II_of_Bavaria
ドイツの君主国家群が統一されることで解き放たれたのは、(ビスマルクが生まれた年である)1815年にメッテルニッヒ(Metternich)<(注14)>とカッスルレー(Castlereagh)<(注15)>がかくも苦心惨憺して確立したところの、微妙極まる(delicate)勢力均衡から欧州が離れる、非可逆的な動きだった。
(注14)Prince Klemens Wenzel von Metternich。1773〜1859年。1809〜48年:オーストリア帝国第二代外相。1821〜48年:オーストリア帝国初代宰相(State Chancellor)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Klemens_von_Metternich
なお、ナポレオン戦争が終わった1815年から第一次世界大戦が勃発した1914年までを欧州協調(Concert of Europe)の時代と呼ぶことがあるが、この時代はメッテルニッヒの時代(Age of Metternich)とも呼ばれる。英普墺露対仏4国同盟(Quadruple Alliance)が、ナポレオン没落後、フランスを加えた形で再編され、これら5大国間の勢力均衡によって欧州では大戦争の勃発を回避できた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Concert_of_Europe
(注15)Robert Stewart, Viscount Castlereagh→Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry。1769〜1822年(自殺)。1812〜22年:英外相。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Stewart,_Viscount_Castlereagh
1871年以降、この均衡は、<地理的意味での>欧州諸国中最大の陸軍、二番目に大きな海軍、そして最も先端のテクノロジーを持つ国であるドイツ帝国へと傾き始めた。
ディズレーリが不安を感じたことには何の不思議もない。
不安を感じたのは彼だけではなかった。
もう一人のイギリス人ベルリン訪問者たる、・・・ラッセル卿は、ビスマルクから示された、彼をおだて挙げるという関心を当然のこととして受け入れつつ、「ビスマルクの中の悪魔的なものは、私が知っているいかなる男よりも強力だ」と宣言した。
ビスマルクの怒り性は巨大であり、見ている者をおののかせた。
彼の復讐への欲望は絶える間がなかった。
彼の、自分の同僚達への不忠実さは信じ難いほどだ。
これらのことは、彼が1876年に固めたところの、プロイセンでの生きたカトリックの痕跡の破壊に向けての決意は、彼の長男の婚姻計画の意図的破壊同様、復讐的であり非正義だった。
<彼の長男の>ヘルベルト・フォン・ビスマルクは、離婚していた美しいカトリック信徒と恋に落ちたが、不幸なことに、彼女の姉妹達は、プロイセンの政治家<たるビスマルク>の「敵達」と結婚していたのだ。
ビスマルクは、このロマンスを、自分の息子の相続権を奪い、全面的に追放するぞ、と脅すことによってぶちこわした。・・・」(C)
「プロイセン貴族の間で人気があった福音的ルター主義(evangelical Lutheranism)に改宗したところのビスマルクは、非宗教的な学校と宗教色抜きの離婚(civil divorce)を導入した人物でもあった。
カトリックの迫害者たるビスマルクは、「文化闘争(culture war=Kulturkampf)」<(注16)>の引き金を引いたが、その一方で、素晴らしいカトリック議員であったルードヴィッヒ・ヴィンドトルスト(Ludwig Windthorst)<(注17)>を認める、という人物でもあったのだ。・・・」(D)
(注16)「ドイツ帝国は1866年成立の北ドイツ連邦を引き継いだものであるため、南ドイツの国々(特にカトリックのバイエルン)の帝国への加盟はビスマルクの目にはドイツ帝国の安定に対する潜在的脅威と映った。1870年の第1回バチカン公会議で教皇不可謬性が宣言されたことを契機として緊張が高まった。ドイツ東部(主にポーランド人)、ラインラント、アルザス・ロレーヌでも多くのカトリック教徒が存在した。ビスマルクはオーストリア帝国の介入を慎重に避けながらドイツ帝国を組織していった。オーストリア帝国は上記のカトリック諸地域よりさらに強力なカトリック国家であったからである。カトリック教会の影響を抑えるために採られた手段の中には、1871年にドイツ刑法に付加された第130条aが挙げられる。これは聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課すというものだった。この条項は「説教壇法(カンツェルパラグラフKanzelparagraf)」と呼ばれた。
1872年3月には宗教学校は当局から査察を受けることになった。6月には政府系の学校から宗教の教師が追放された。加えて、アダルベルト・ファルクの導入した「五月法」によって、国家は聖職者教育を細かく管理するようになり、聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所を設置し、全ての聖職者が記載された届書の提出を求めた。1872年にはイエズス会の活動が禁止された。この禁止措置は1917年まで続いた。1872年12月にはバチカンと断交した。1874年になると、結婚はカトリック教会の手から離れて、教会の儀式でなく世俗的な儀式によって行われても有効となった。・・・
カトリック教会の影響力はカトリック中央党が代表したが、これを制限しようとしたビスマルクの試みは不成功に終わった。1874年のドイツ帝国議会選挙では、カトリック勢力の議席は2倍に増えることとなった。社会民主党に対抗する必要からビスマルクは反教会的態度をやわらげるようになった。特に1878年の教皇レオ13世即位の後その傾向が顕著となった。ビスマルクはいまや多数派となったカトリック系の議員に対して自らの政策の正当性を訴えるために、ドイツ国内におけるポーランド人(圧倒的にカトリック教徒が多かった)の存在を引き合いに出すようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%97%98%E4%BA%89
(注17)1812〜91年。ドイツ統一と文化闘争の時期において、カトリック中央党党首として、最も著名なビスマルク反対者となった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Windthorst
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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