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太田述正コラム#5180(2011.12.17)
<田中上奏文(その7)>(2012.4.3公開)

 「それでは日本外務省は、「田中上奏文」の流布にどう対応したのか。・・・
 <1931年1月、>上村伸一<(注11)>南京領事・・・は、国民政府外交部の周龍光亜州司長に取り締まりを要請した。・・・すると周は、・・・「迅速其ノ出所ヲ突止メ斯ル無稽ノ言説ニ依リ日支間ノ空気ヲ害セサル様措置スヘキ旨答ヘタリ」。

 (注11)1896〜1983年。1921年東大法卒。「<同>年、外務省に入省、牛荘<[現在、遼寧省鞍山市に位置する県級市たる海城市の一部]>官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。満州で敗戦を迎え、その後のシベリアで抑留された。復員後外務省に復帰し、イギリス臨時代理大使、ドイツ公使、トルコ大使などを歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E4%BC%B8%E4%B8%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E8%8D%98 ([]内)

 つまり周は、しかるべき「措置」を約束したのである。・・・
 にもかかわらず、「田中上奏文」は冊子体で頒布されるようになり、中国の新聞や雑誌もこれを取り上げた。・・・
 そこで・・・重光葵駐華臨時代理公使・・・は4月7日、国民政府外交部に「田中上奏文」の取り締まりを・・・長文<の>・・・公文で申し入れた。・・・
 重光の申し入れは、「田中上奏文」の根本的な誤りを説くものといってよい。山県有朋は9カ国条約の調印前に死去していたため、9カ国条約の締結後に大正天皇が山県と議論できるはずもないこと<(前出)>、田中義一が9カ国条約の成立後に出張したのは欧米ではなくフィリピンであったこと、田中が狙撃されたのはフィリピンからの帰途だったことなどである。・・・
 <これを受け、>中国は・・・「田中上奏文」が誤りであることを中国国民党機関紙『中央日報』に公表した。・・・
 地味ながら注目すべき記事が、4月12日の『中央日報』国際面に掲載されたのである。・・・内容的には「田中上奏文」の誤りを説くものであった。・・・
 <すなわち、>『中央日報』は、山県の死去や田中の外遊先など「田中上奏文」の根本的な誤りを指摘し、「中日親善提唱者」の憂慮を伝えた。・・・
 「中日親善提唱者」とは、ほかならぬ日本公使館<のことである>と推定できる。・・・
 中国東北で反日運動の中心となっていたのは、民間の遼寧省国民外交協会であった。この協会は1929年7月に奉天で設立され、日本に対する国権回収を進めようとしていた。新東北学会による「田中上奏文」の流布にも、協会は関与したようである。・・・
 <また、>協会の前進である<組織>・・・の中心は奉天総商会であった<ところ、>1931年5月の段階で遼寧省国民外交協会の委員は21人いた<が、>このなかには東三省民報社長や東北民衆報社長が含まれている。・・・
 <だから、>中国東北の新聞<が>満蒙問題を論じる際に「田中上奏文」を援用し<たのは当然であった。>・・・
 <すなわち、>協会は、密接な関係にあった新聞社を用いながら、「田中上奏文」を反日宣伝に使っていたのである。・・・
 1931年9月8日・・・<つまり、>柳条湖事件の10日前・・・日本公使館が重ねて取り締まりを<国民政府外交部に>求めたことからも明らかなように、1930年4月以来の申し入れは奏功していなかった。それでも国民政府外交部は、日本側の要請に対応すべく準備していた。
 満州事変さえ起こらなければ、「田中上奏文」は当時無数に存在した反日文書の一つに終わっていたかもしれない。しかし現実には、満州問題が事態を一変させた。それ以降に<おいては、>国民政府は、ジュネーブの国際連盟会議などで「田中上奏文」を宣伝に活用する<ことになる>。」(59〜60、62〜63、65、68〜71、80)

→偽書と承知していて、「田中上奏文」を、ヤミのプロパガンダに諜報部門が用いるのならともかく、国際連盟の場において外交当局が、「その真偽はともかくとして」といったディスクレーマーを付けることなく用いた(コラム#5170)ということは、中国国民党政府は、アウトロー集団であったと言われても仕方ないでしょう。
 黒子として赤露が彼らを操っていたとでも考えないと、日本人は、こんな漢人達とは、今後ともまともなつきあいはできない、ということになりかねませんね。
 だから、というわけではないのですが、私は、「田中上奏文」をでっちあげたのは赤露ないし赤露のエージェントである、と推察しているのですが・・。(太田)

 「終戦後も・・・<1945年>9月29日の『ワシントン・ポスト』紙は、「田中メモリアルが本物の文書でなかったとしても、そこには早くも1927年秋の時点で日本の世界征服に向けた段階的計画が示されており、その多くは1930年代にアジアで現実となった」と伝えている。・・・
 戦時中に「田中メモリアル」を宣伝映画に用いていたマーシャル陸軍参謀総長は1945年10月、パターソン(Robert P. Patterson)陸軍長官宛て報告書で戦争を総括した。『ニューヨーク・タイムズ』紙によるとマーシャルの報告書は、・・・こう論じている。

 膨張の方針は、日本の首相による1927年の裕仁宛て秘密文書とされる「田中メモリアル」に描かれた。本物かどうかはともかく「田中メモリアル」は、日本が従った行動様式を示しており、それが太平洋の大戦に至った。・・・
 『ニューヨーク・タイムズ』紙は、太平洋艦隊司令長官だったニミッツ(Chester W. Nimitz)の「田中メモリアル」観についても伝えた。それによると、第二次世界大戦の海軍史編纂会議においてニミッツは、アメリカが日本の野心を知ったのは「田中メモリアル」を通じてだと述べたという。・・・
 『ワシントン・ポスト』紙<もマーシャルの報告書をとりあげ、>・・・「田中メモリアル」を本物と印象づけるような書き方<をした。>・・・
 このようにアメリカでは、戦時中のプロパガンダが浸透しており、「田中メモリアル」は終戦後もかなり信じられていたのである。」(191〜192)

→服部の書き方はおかしい。
 終戦直後の米国政府関係者や米国の有力紙は、「田中メモリアル」そのものというより、田中メモリアルに盛り込まれているところの、日本の対外戦略を、実際の日本の対外戦略そのものに近いものとして信じていた、ということ以上ではないからです。

(続く)

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