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太田述正コラム#5096(2011.11.5)
<映画評論28:ザ・パシフィック(その3)>(2012.2.21公開)
(3)どうして日本兵は徹底的に戦ったのか
ア 戦後日本人の解釈
(中国国民党軍や中国共産党軍と戦った日本兵は別として、)太平洋戦争を米英軍と戦った日本兵・・過半の日本兵・・にとって先の大戦での戦いは地獄であったことから、戦後の日本では、戦争・地獄観が普遍的なものとなり、現在に至っています。
そして、そんな地獄で日本兵がどうして戦ったのか、いや、より正しくは、日本兵が、決して集団投降することなく、バンザイ攻撃や特攻までして戦ったからこそ太平洋戦争での戦いは地獄になったわけだけれど、何が日本兵達をそうさせたのか、という疑問を、戦後生まれの日本人の多くは抱き、それをつい最近まで引きずってきていました。
この戦後日本人の代表格として、村上春樹に登場してもらうことにしましょう。
環境・エネルギー問題評論家で日本と香港に滞在経験のあるブライアン・ウォルシュ(BRYAN WALSH)
http://ecocentric.blogs.time.com/author/bryanrwalsh/
は、村上の『1Q84』についての書評の中で、次のように言っています。
「同じく分厚い『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる岡田亨
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E3%81%BE%E3%81%8D%E9%B3%A5%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AB >
のように、<『1Q84』に出てくる>青豆と天吾
< http://ja.wikipedia.org/wiki/1Q84 >
は、現世的な(mundane)日本の背後に潜んでいる悪魔的な専制的カルトと取り組むことになる。
専制主義と、それからの逃走は、常に村上の強迫観念となっており、彼は、どうしてかくも多くの普通の日本人が第二次世界大戦中に喜んで狂気に服従したのかという、永続的な疑問を彼の最も強力な作品において繰り返し繰り返し記し続けてきた。
この<彼の>思い入れ(drive)は社会的に貴重であると言える。
というのも、この戦争について多くの日本人は強いられた記憶喪失症にかかったままだからだ。
そのことはまた、村上を、単なるクールでポップな小説家ではない、それを超える存在へと押し上げることにもつながった。
にもかかわらず、ついに『1Q84』・・それは意図的にオーウェルの『1984年』を引用しているが、実際には全くと言ってよいほど関係が出てこない・・においては、この服従と独立という大きな諸問題について語ることが余りなくなってしまっている。
<物語の>開陳の山に次ぐ山が<今回も>続くけれども、『ねじまき鳥クロニクル』と『羊をめぐる冒険』
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E5%86%92%E9%99%BA >
のような本が我々の心をかき乱したところの、見えざる力によるパイソン的締め付けはほとんどなくなってしまったのだ。・・・
・・・この長らく待たれた村上の小説<の英訳>に欠けていて残念だと思ったのは村上自身だ。
『1Q84』では、著者は、彼の長い著作歴で初めて一人称による叙述を完全に放棄したため、彼の不在が感じられるのだ。
私は何時間も村上と付き合うことはできる。
それは、要するに、彼のこれまでの全ての本が提供してくれた経験を追体験することだ。
(スパゲッティを料理する、スタン・ゲッツ(Stan Getz)<(コラム#3615)>を聴く、女の子達のことを遠回しに語る、或いはジョギングに出かける、とかいったことを私は思いめぐらす。)
しかし、青豆と天吾<が織りなすこの物語>に至っては、私はもはやそんな追体験をしなくてもいい<や、という気がしてきた>。
村上<の小説>から村上がいなくなった以上、魔法は解けてしまった、ということだ。」
http://entertainment.time.com/2011/10/31/iq84-a-murakami-novel-sans-murakami/?iid=ent-main-lede
(11月1日アクセス)
かねてから私は、フィクションを紡ぎだすことを生業とする小説家が、ノンフィクションである(=事実に即していなければならない)歴史や政治について語ることは控えるべきだし、彼らが歴史や政治について語ったことは、眉に唾をつけて聴いた方がよいと申し上げているところです。
例えば、小説家の大江健三郎の歴史や政治に係るスタンスは、戦後日本の「左」の「インテリ」のそれの範疇を一歩も出るものではなく、全くもって陳腐な代物です。
ところが、その彼、自分の歴史や政治に関するこの種の主張を盛り込んだ小説をかなり書いているようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
そんな大江にノーベル文学賞を授与したノーベル賞委員会に対しては、一体何を考えてるんだ、と言いたいところです。
さて、私は、村上のパレスティナ問題や原発に関する政治的発言にも、その中身云々以前に批判的なわけですが、彼もまた、ウォルシュによるこの書評を読む限り、自分の歴史や政治に関する主張を、間接的であるとはいえ、盛り込んだ小説を多数書いてきたようですね。
村上のこれまでの政治的発言やこの書評からうかがえるのは、彼の歴史や政治に係るスタンスは、大江とは違って、戦後日本の平均的日本人のそれ以上でも以下でもない、ということです。
恐らく、彼の感性もまた、戦後日本人の平均的感性そのものなのでしょう。
しかし、だからこそ、村上の小説は、戦後日本で、そして世界で、大江の小説よりもはるかに大衆的人気を博してきたのであろうと思います。
なぜなら、戦後日本が生み出してきたアニメやファッション等に顕現されている戦後日本人の感性は、ある意味、世界最先端の感性であるからです。
私は、大江の小説も村上の小説も一冊も読んだことがないので、軽々なことは本来言わない方が良いのですが、村上は、あらかじめ、頭の中で、日本、そして世界を念頭に置いたマーケティングリサーチをやった上で、売れるとふんだ小説を執筆したり政治的発言を行ったりしているのでは、と勘繰っています。
いずれにせよ、このような大衆小説家たる村上に将来ノーベル文学賞が与えられるとすれば、それは大江への授与に比べれば健全なことではないでしょうか。
以上を押さえた上で、話を元に戻しますが、ウォルシュは、村上が戦前・戦中の日本の専制的体制と戦後日本のオウム等のカルトとを狂気の源泉として同一視しているところ、村上は、その小説群を通じて、戦前・戦中の日本の専制的体制と狂気に関して健忘症にかかった戦後日本人に、汝らゆめ忘れることなかれ、と繰り返し訴えてきた、と指摘するとともに、『1Q84』では、かかる姿勢が後退してしまっている、と指摘しているわけです。
私の考えは、比較的最近までの戦後日本人は健忘症にかかっていたどころか、吉田ドクトリンの下、村上と全く同じような日本の戦前・戦中体制観を抱いており、村上は、それをこれまでの彼の小説群において忠実に鏡に映し出してきたところ、最近(『1Q84』)になって、村上は、今度は、戦前・戦中体制観が風化しつつある最近の日本人をこれまた忠実に鏡に映しだしている、というものです。
すなわち、村上に代表される戦後の平均的日本人は、太平洋戦争で日本兵が米英兵と徹底的に戦ったのは、オウム真理教の信徒達が、教祖の命であると信じて、暴力やサリンを用いて無意味な殺人を繰り返したのと同じことを、天皇の命であると信じて行ったものである、と考えてきたところ、最近では、もはやそんなことを考えることに興味をなくしつつある、ということだと私は思うのです。
イ 戦中・戦後米国人の解釈
戦後の米国においては、日本兵はどうして徹底的に戦ったのか、という問題について、実際に太平洋戦域で日本兵と戦った米兵達が苦し紛れにひねり出した解釈が、そのまま、米国人一般に共通する解釈になって現在に至っています。
それは、「日本では指導部が「野蛮と見まがうばかりの容赦なさの文化をその軍隊」に染み込ませた」」
http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/inferno-the-world-at-war-1939-1945-by-max-hastings/2011/10/26/gIQAjVuRnM_print.html
というものです。
(続く)
<映画評論28:ザ・パシフィック(その3)>(2012.2.21公開)
(3)どうして日本兵は徹底的に戦ったのか
ア 戦後日本人の解釈
(中国国民党軍や中国共産党軍と戦った日本兵は別として、)太平洋戦争を米英軍と戦った日本兵・・過半の日本兵・・にとって先の大戦での戦いは地獄であったことから、戦後の日本では、戦争・地獄観が普遍的なものとなり、現在に至っています。
そして、そんな地獄で日本兵がどうして戦ったのか、いや、より正しくは、日本兵が、決して集団投降することなく、バンザイ攻撃や特攻までして戦ったからこそ太平洋戦争での戦いは地獄になったわけだけれど、何が日本兵達をそうさせたのか、という疑問を、戦後生まれの日本人の多くは抱き、それをつい最近まで引きずってきていました。
この戦後日本人の代表格として、村上春樹に登場してもらうことにしましょう。
環境・エネルギー問題評論家で日本と香港に滞在経験のあるブライアン・ウォルシュ(BRYAN WALSH)
http://ecocentric.blogs.time.com/author/bryanrwalsh/
は、村上の『1Q84』についての書評の中で、次のように言っています。
「同じく分厚い『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる岡田亨
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E3%81%BE%E3%81%8D%E9%B3%A5%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AB >
のように、<『1Q84』に出てくる>青豆と天吾
< http://ja.wikipedia.org/wiki/1Q84 >
は、現世的な(mundane)日本の背後に潜んでいる悪魔的な専制的カルトと取り組むことになる。
専制主義と、それからの逃走は、常に村上の強迫観念となっており、彼は、どうしてかくも多くの普通の日本人が第二次世界大戦中に喜んで狂気に服従したのかという、永続的な疑問を彼の最も強力な作品において繰り返し繰り返し記し続けてきた。
この<彼の>思い入れ(drive)は社会的に貴重であると言える。
というのも、この戦争について多くの日本人は強いられた記憶喪失症にかかったままだからだ。
そのことはまた、村上を、単なるクールでポップな小説家ではない、それを超える存在へと押し上げることにもつながった。
にもかかわらず、ついに『1Q84』・・それは意図的にオーウェルの『1984年』を引用しているが、実際には全くと言ってよいほど関係が出てこない・・においては、この服従と独立という大きな諸問題について語ることが余りなくなってしまっている。
<物語の>開陳の山に次ぐ山が<今回も>続くけれども、『ねじまき鳥クロニクル』と『羊をめぐる冒険』
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E5%86%92%E9%99%BA >
のような本が我々の心をかき乱したところの、見えざる力によるパイソン的締め付けはほとんどなくなってしまったのだ。・・・
・・・この長らく待たれた村上の小説<の英訳>に欠けていて残念だと思ったのは村上自身だ。
『1Q84』では、著者は、彼の長い著作歴で初めて一人称による叙述を完全に放棄したため、彼の不在が感じられるのだ。
私は何時間も村上と付き合うことはできる。
それは、要するに、彼のこれまでの全ての本が提供してくれた経験を追体験することだ。
(スパゲッティを料理する、スタン・ゲッツ(Stan Getz)<(コラム#3615)>を聴く、女の子達のことを遠回しに語る、或いはジョギングに出かける、とかいったことを私は思いめぐらす。)
しかし、青豆と天吾<が織りなすこの物語>に至っては、私はもはやそんな追体験をしなくてもいい<や、という気がしてきた>。
村上<の小説>から村上がいなくなった以上、魔法は解けてしまった、ということだ。」
http://entertainment.time.com/2011/10/31/iq84-a-murakami-novel-sans-murakami/?iid=ent-main-lede
(11月1日アクセス)
かねてから私は、フィクションを紡ぎだすことを生業とする小説家が、ノンフィクションである(=事実に即していなければならない)歴史や政治について語ることは控えるべきだし、彼らが歴史や政治について語ったことは、眉に唾をつけて聴いた方がよいと申し上げているところです。
例えば、小説家の大江健三郎の歴史や政治に係るスタンスは、戦後日本の「左」の「インテリ」のそれの範疇を一歩も出るものではなく、全くもって陳腐な代物です。
ところが、その彼、自分の歴史や政治に関するこの種の主張を盛り込んだ小説をかなり書いているようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
そんな大江にノーベル文学賞を授与したノーベル賞委員会に対しては、一体何を考えてるんだ、と言いたいところです。
さて、私は、村上のパレスティナ問題や原発に関する政治的発言にも、その中身云々以前に批判的なわけですが、彼もまた、ウォルシュによるこの書評を読む限り、自分の歴史や政治に関する主張を、間接的であるとはいえ、盛り込んだ小説を多数書いてきたようですね。
村上のこれまでの政治的発言やこの書評からうかがえるのは、彼の歴史や政治に係るスタンスは、大江とは違って、戦後日本の平均的日本人のそれ以上でも以下でもない、ということです。
恐らく、彼の感性もまた、戦後日本人の平均的感性そのものなのでしょう。
しかし、だからこそ、村上の小説は、戦後日本で、そして世界で、大江の小説よりもはるかに大衆的人気を博してきたのであろうと思います。
なぜなら、戦後日本が生み出してきたアニメやファッション等に顕現されている戦後日本人の感性は、ある意味、世界最先端の感性であるからです。
私は、大江の小説も村上の小説も一冊も読んだことがないので、軽々なことは本来言わない方が良いのですが、村上は、あらかじめ、頭の中で、日本、そして世界を念頭に置いたマーケティングリサーチをやった上で、売れるとふんだ小説を執筆したり政治的発言を行ったりしているのでは、と勘繰っています。
いずれにせよ、このような大衆小説家たる村上に将来ノーベル文学賞が与えられるとすれば、それは大江への授与に比べれば健全なことではないでしょうか。
以上を押さえた上で、話を元に戻しますが、ウォルシュは、村上が戦前・戦中の日本の専制的体制と戦後日本のオウム等のカルトとを狂気の源泉として同一視しているところ、村上は、その小説群を通じて、戦前・戦中の日本の専制的体制と狂気に関して健忘症にかかった戦後日本人に、汝らゆめ忘れることなかれ、と繰り返し訴えてきた、と指摘するとともに、『1Q84』では、かかる姿勢が後退してしまっている、と指摘しているわけです。
私の考えは、比較的最近までの戦後日本人は健忘症にかかっていたどころか、吉田ドクトリンの下、村上と全く同じような日本の戦前・戦中体制観を抱いており、村上は、それをこれまでの彼の小説群において忠実に鏡に映し出してきたところ、最近(『1Q84』)になって、村上は、今度は、戦前・戦中体制観が風化しつつある最近の日本人をこれまた忠実に鏡に映しだしている、というものです。
すなわち、村上に代表される戦後の平均的日本人は、太平洋戦争で日本兵が米英兵と徹底的に戦ったのは、オウム真理教の信徒達が、教祖の命であると信じて、暴力やサリンを用いて無意味な殺人を繰り返したのと同じことを、天皇の命であると信じて行ったものである、と考えてきたところ、最近では、もはやそんなことを考えることに興味をなくしつつある、ということだと私は思うのです。
イ 戦中・戦後米国人の解釈
戦後の米国においては、日本兵はどうして徹底的に戦ったのか、という問題について、実際に太平洋戦域で日本兵と戦った米兵達が苦し紛れにひねり出した解釈が、そのまま、米国人一般に共通する解釈になって現在に至っています。
それは、「日本では指導部が「野蛮と見まがうばかりの容赦なさの文化をその軍隊」に染み込ませた」」
http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/inferno-the-world-at-war-1939-1945-by-max-hastings/2011/10/26/gIQAjVuRnM_print.html
というものです。
(続く)
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