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太田述正コラム#5066(2011.10.21)
<戦間期の排日貨(その8)>(2012.1.11公開)

 「衝突は激しく、粗暴、野蛮であった。軍服を着ていない中国の「便衣隊」によって日本陸戦隊は誰が戦闘員かわからず、あわてた。さらに問題だったのは、日本の在郷軍人と浪人であった。ブレナン<(Brenan)上海総領事(244、254頁)(注15)>は<(ランプソン公使に(254頁))>以下のように報告した。「在郷軍人と浪人の両方とも上海に居住する者なので、排日貨が始まって以来被ってきた侮辱や損害に対して、晴らすべき恨みが疑いもなくたくさんあった。そして彼らは、この地域の不運な中国人にあからさまに復讐を始めたのである。」中国の便衣隊を探して、日本人は建物に損害を与え、家屋に放火した。数百人の中国人が殺されたと言われている。ブレナンは村井<上海総領事>が「同胞のうちのある者の振る舞いによって深く苦しんでいるだろう」と信じた。ブレナンは、さらに、村井が「多くの在郷軍人」から何とか武器を取り上げ、「約30人から40人の評判が悪い浪人」を日本に送り返したと続けた。

 (注15)Sir John F. Brenan。1930〜37年:上海総領事。先の大戦中、英外務省極東部における支那に最も詳しい人物として活躍。
http://www.gulabin.com/britishdiplomats/pdf/BRIT%20DIPS%201900-2011.pdf
http://books.google.co.jp/books?id=c-8TGS600gQC&pg=PA230&lpg=PA230&dq=British+Shanghai+Consulate+General;+Brenan&source=bl&ots=6-uqY6z8z_&sig=Q9kJMj-EzWdItuLKFY1I_6-p9VI&hl=ja&ei=SkahTrrYEq-emQWF8oigCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&sqi=2&ved=0CEoQ6AEwBA#v=onepage&q&f=false

 第19路軍の士気は非常に高く、少人数の海軍陸戦隊では手に負えないことがすぐに明らかとなった。日本海軍は、自らの予測外の損害を出し、結局陸軍の助力を求めざるを得なくなった。2月2日の閣議で、金沢から第9師団の派遣が決定された。13日、日本陸軍が上海に上陸した。この時から陸軍が戦闘において中心的役割を果たすことになった。・・・」(242頁)

→これまでたびたび引用した、上海事件に関する日本語ウィキペディアには、日本人たる「在郷軍人と浪人」による、中国人一般住民の大量殺害を含む乱暴狼藉の話は全く出てきません。
 なお、当然出ていてしかるべき、January 28 Incident(Shanghai Incident)に関する英語ウィキペディアにすら全く出てきません。
http://en.wikipedia.org/wiki/January_28_Incident
 ブレナンの公信にそのように書いてあったとしても、彼が、いかなる情報源によってこのような判断に至ったのか、疑問です。
 いずれにせよ、留意すべきことは、支那側が便衣隊を用いるという国際法違反を行ったか、仮に便衣隊でなかったとしても、一般市民が日本人の人命財産に対して乱暴狼藉を働いたらしいことであり、かかる状況下において、海軍陸戦隊や在留日本人達が過剰反応したとしても、それにはやむをえない面があった、と言うべきでしょう。
 ちなみに、最終的には、兵力は日本軍が90,000人(陸戦隊+第9師団等)で支那側が50,000人(第19路軍+第5路軍等)となり、日本軍の死傷者は5,000人でうち戦死者は800人であったのに対し、支那軍の死傷者は13,000人でうち戦死者は4,000名であり、このほか、支那の一般市民が10,000〜20,000人死亡したとされています。
http://en.wikipedia.org/wiki/January_28_Incident 上掲 (太田)

 「・・・まとめ

 <満州>事変勃発直後に遠く離れたイギリスで記されたものではあるが、ウェルズリー<(注16)>は2月1日付けの覚え書きで、日本との親善と友好的関係の「非常なる重要性」を強調していた。・・・「物質的な観点からして」イギリスは「日本を敵に回すことで得るものは何もなく、失うところは大きい」、そして、反日的態度は避けねばならない、というのが彼の結論であった。

 (注16)Sir Victor Alexander Augustus Henry Wellesley。1876〜1954年。1920〜24年:英外務省極東部長。この間、assistant secretary。1925〜36年:Deputy Under-Secretary of State。貿易を重視するとともに、支那の伝統に反する共産主義は支那にとって深刻な脅威ではなく、ソ連は極東において日本を抑止する有益な役割を果たしている、との認識で極東部を指導。
http://www.oxforddnb.com/index/36/101036828/
http://books.google.co.jp/books?id=iVUM3TgF1EwC&pg=PA34&lpg=PA34&dq=;Far+East;Wellesley;Foreign+Office&source=bl&ots=8UuW6-K1q3&sig=5mf46jOLIpWIUnLu3tSsYJQpOJ8&hl=ja&ei=uE-hTv3tOISOmQXvkpGgCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CCAQ6AEwAQ#v=onepage&q=%3BFar%20East%3BWellesley%3BForeign%20Office&f=false

 もう一つの例は1926年の広州で反英ボイコットを体験していたブレナン上海総領事であった。上海の状況に関して彼は、中国の勝利、不確定な状態の継続、日本の勝利という三通りの可能性を検討し、共同租界とそこにおける莫大なイギリスの権益の安全という観点から、イギリスは第三の選択肢を望まなければならないという結論に達した。さらに、彼は次のように付け加えた。

 中国が主として自らの愚かさのゆえに落ち込んだ立場から中国を救うことに、私は関心を持っていない。中国民族主義の全くの無能と、正当化できないうぬぼれによって近年すべての外国人、ことにイギリス人が苦しんできたことを忘れることはできない。・・・
 <しかし、>ランプソンは、<このような>ブレナンの意見に同意できなかった。彼はブレナンが上海の問題に対処する際の冷淡さを若干心配していた。・・・ランプソンは、「日本の行動についての浅はかな歓喜やその主張を浅はかに支持することには、長期的には根本的な報いがあるだろう」し、イギリス人は中国市場の大きな潜在的可能性について考えるべきだという意見であった。ただし、ランプソンとブレナンやウェルズリーには、租界の安全および中国市場の可能性こそを最も重視しているという共通点もあった。・・・
 ランプソンは<上海事変の日支間の>停戦仲介に乗り出した<が、その経験から、>・・・日本人は公正な振る舞いというものを知らないと日記に書くに至った。・・・
 ようやく停戦協定がまとまったのは4月28日になってであった。この翌日、虹口公園で開かれた天皇誕生日の祝賀式で現地の日本側首脳に朝鮮人が爆弾を投げつけるという事件が起こった。重光はこの事件により隻脚となり、白川義則司令官は負傷から約一ヵ月後に死亡した。ただし、上海事変停戦協定は5月5日に調印され、日本軍は5月末に撤退した。
 <そして、>リットン調査団・・・の報告書<が、>9月24日、国際連盟に提出された。
 リットン報告書は日本軍の行動が自衛に基づくものとは考えられないと批判する一方で、日本人への心理的影響も含めて排日貨にもふれていた。すなわち、排日貨遂行において国民党が果たした中心的役割や、手段の違法性などを指摘していたのである。・・・理事会への勧告を扱った報告書第10章でも、日中通商条約において中国政府は組織的排日貨を禁ずるあらゆる措置を講ずると約束すべきだと記すなど、日本に対する配慮をにじませる内容であった。
 しかし、当時の日本は、リットン報告書をそのように解釈しなかった。また、翌1933年1月、日本軍が山海関を占領、万里の長城を越えて熱河省を攻撃すると、イギリスを含め諸国の態度は硬化した。2月24日、「満州国」の存在を否認する勧告が連盟総会で可決され、日本代表団は首席全権松岡洋右以下総会議場を退出した。そして3月27日、日本は連盟に脱退を通告し・・・たのである。・・・
 攻撃の標的として一度に一つの国のみを選り出すという国民政府の対外戦略は巧妙だった。・・・
 <また、>ボイコットという実力行使は、国民政府革命外交の効果的な武器となった。ボイコットを用いず、既存の国際規則に則った交渉だけに頼っていたのでは、依然弱い立場に置かれていた中国が不平等条約改正という目標を達成するのは困難で、はるかに長い年月が必要であっただろう。」(243〜248、261頁)

→後藤は、当時、支那に関わった3人の英国の外交官の微妙な情勢認識の違いに触れていますが、彼らが書いた、特定の覚書や公信の一部を切り取って論じるのは危ない限りであり、例えば、ウェルズリーについて言えば、注16のような、彼のマクロ的な支那観を取り上げて論ずるべきでした。
 更に言えば、その上で、この3人等の当時の英国の外交官におおむね共通する対外政策観を見出す努力をすべきでした。
 私は、この3人を含む、当時の英国の外交官におおむね共通していたのは、後藤が「租界の安全・・・を最も重視してい<た>」と指摘していることからも分かるように、法治主義の重要性についての確固たる認識であったと見ており、この認識が当時の日本の外交官にはおおむね欠けていたか薄弱であったことが、両国の外務省の間に齟齬をきたせしめた可能性がある、と考えています。
 より重要なことは、当時の両国の外交官は、共通して、おおむね、赤露に対する認識が(例えば、両国の陸軍に比べて)甘かったことであり、また、これと裏腹の関係にあると言ってもよさそうですが、当時の両国の外交官は、共通しておおむね経済的国益の追求志向であったことです。
 (英国の外交官については、これは、後藤が「中国市場の可能性<も>最も重視している」と指摘していることからも分かります。)
 だからこそ、英日は、それを見透かしたところの、中国国民党政府、ひいては赤露が発動したボイコット戦術によって、容易に翻弄され、分断されてしまったのである、と私は見ていますし、当時の英国の外交官の日本観が簡単にぶれてしまったのも、そのためである、と私は見ているのです。

 なお、後藤が中国国民党政府のこのボイコット戦術を「評価」しているのはとんでもない話です。
 私が累次申し上げてきたように、日本は「既存の国際規則に則った交渉だけに頼って」不平等条約改正を成し遂げたところ、果たして後藤は、これを「評価」しないつもりなのでしょうか。
 また、後藤のリットン調査団報告書に対する評価にも私は全く賛成いたしかねます。(太田)

(完)

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