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太田述正コラム#5050(2011.10.13)
<戦間期の排日貨(その2)>(2012.1.3公開)
「日本にとってとは対照的に、イギリスにとって、1928年は非常に満足のいく年であった。・・・
しかし、上海のイギリス人はこの状況を歓迎してばかりいたわけではない。実際のところ、彼らは排日貨を厳しく批判していた。たとえば、1928年10月12日付けの『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙の社説は、中国人も日中関係において日本が一方的に悪いと他国を説得することはできないであろうし、他国の目にボイコットがどのように映るか考えたのかと問うた。この社説は、ボイコットを「ボイコット委員会の図々しい泥棒行為」と描写していた。さらに、11月30日に同紙は「恥ずべきボイコット」と題する社説を掲載し、「野放し状態の窃盗」と「純然たる公認の略奪」を批判した。さらに、南京国民政府の役人は海外における中国の信望や「新体制につけられる大きなマイナス点」、中国の貿易への被害、日本産の安価な日用品を奪われた一般の人々にとっての生活費の上昇、犯罪一般の増加という悪影響について考えてみるべきだと警告した。
自由な通商・貿易の秩序維持は、イギリスにとって大いなる関心事であった。そして、法的権限を持たない私的な団体が商品を没収するということを中国在留のイギリス人実業家は深く懸念した。基金、競売という方法は1925〜6年に<イギリス商品に対して>広州でも用いられたので、イギリス人には、その実態がわかっていたようである。また、中国人商人の所有していた商品だけでなく、日本人や他の外国人の商品もしばしば没収された。日本品を他国の商品と完全に区別するの<が>困難であった<こともその一つの理由である。>・・・
「反日団体の無法な行為」に対し強い懸念を抱く上海イギリス商業会議所は、1929年3月<中旬>に・・・イギリス<の上海>総領事代理・・・<のほか、>アメリカ<の上海>総領事であり、首席総領事でもある<者>・・・に書簡を送った。・・4月9日、総領事団の会合で、多くが反日団体の乱暴な行為を批判した。・・・その結果、・・・首席総領事は<、北京駐留の>首席公使であるオランダのアウデンダイクに、南京国民政府に対し反日団体の行為をやめさせるよう要請すべく依頼した。・・・
アウデンダイクは、回顧録・・・で、次のように記している。「条約をおおっぴらに破るのはほとんど毎日のことだった。危険な挑発の雰囲気で、国民党は何か問題を起こしたがっているかのように見えた。」「中国全土にわたる排日貨は、商品の没収、罰金、処罰を伴って乱暴さを増し、決して商人の自発的行為ではなかった。」・・・
『上海イギリス商業会議所報』の1929年9月号は「没収貨物の売却」という短い記事を掲載していた。この記事はまず新聞広告の例を挙げている。
「反日会によって没収された貨物が8月20日から30日にかけて競売にかけられます。貨物は三つに分類されています。綿布、綿製品と海産物です。この品物のいずれかを購入したいと思う方は・・・上海国民党部に応募してください。」(1929年8月20日、『申報』掲載の広告)
「<上海>国民党部は最近のボイコットで没収した日本品を昨日から売り出しています。売り出しは8月30日に終了します。」(1929年8月23日、『ノース・チャイナ・ディリー・ニュース』)
『上海イギリス商業会議所報』は、文明国であればどこでも、どのような社会集団も協会も個人も、他人の所有物を没収したり売却したりすることは許されないと不満を述べた。同誌によると、この没収品売却の最も深刻な点は、責任ある政府であるべき南京国民政府が盗品の売却を大目に見ていることであった。特定の国の商品を買わないという「ボイコット」は、イギリス人や日本人にも中国人消費者の選択であるとして理解できた。しかし、この時期の「排日貨」は、「ボイコット」と翻訳されていても実際は窃盗行為に近いのではないかと考えられ、批判されたのである。・・・」(201〜204、215頁)
→「南京国民政府が盗品の売却を大目に見ている」には一応典拠が付けられていますが、本当に典拠にそんな微温的なことが書いてあったのでしょうか。なぜなら、明らかに実態は、「<上海国民党部、すなわち、国民党一党独裁の>南京国民政府が盗品を売却している」であったからです。
つまり、国民党政府は、事実上全支那の権力を掌握しつつあった1920年代後半において、国際法や文明の共通法規、それに恐らくは北京政府や自らが定めた法規にも反する、違法行為を、支那内において、(国内の反対勢力や)英国、次いで日本を標的にしてやっていた、ということであり、これは、事実上全ドイツの権力を掌握しつつあり、やがて掌握した1930年代前半にナチスがドイツ国内外において、国内の反対勢力や周辺諸国を標的に同様の違法行為をやったことに比肩すべきであり、法の支配どころか、法治主義すら弊履のごとく扱うところの、中国国民党指導層の権力欲、金銭欲等追求の手段たる中国国民党/国民党政府のファシスト性を如実に物語るものです。
もう一点、忘れてはならないのは、ナチスの場合と違って、実は、そんな中国国民党は、意識すると意識せざるとにかかわらず、赤露のエージェントであったということです。(太田)
「1929年9月に芳沢<謙吉(コラム#4378、4506、4510、4512、4614、4966、4968、4976、4978、4984)>が中国を去ると、その後は彼とランプソンの間に形成された友情や良好な意志疎通に代わるものはなかった。とりわけ同年11月には、新任の佐分利貞夫<(コラム#4968、4986)>駐華公使が箱根で怪死を遂げた。その後任となるはず小幡西吉<(注3)(コラム#4506)>は、国民政府からアグレマンを拒否された。・・・<その>理由は、かつて日本が中国に二一ヵ条要求を突きつけた際に小幡が駐華公使館一等書記官であったためだとされた。この結果、1931年6月に重光が正式に駐華公使となるまで約2年間、駐華公使は空席となってしまったのである。この間、1929年11月からは堀内謙介<(注4)>が臨時代理公使を務め、さらに1930年1月には上海総領事の重光が代理公使を兼ねるようになった。このころ幣原外相らがロンドン海軍軍縮会議などで忙殺されていたこともあり、対中政策における重光の役割は増していった。・・・
(注3)中国国民党政府が小幡にアグレマンを与えなかった理由はとんでもないものだが、そもそも、小幡は、彼のウィキペディアすら存在しない外交官であるところ、当時、既に、彼が芳沢や重光クラスに比べて小物であることが国民党政府に分かっていたことが、案外真の理由であった可能性がある。
(注4)1886〜1979年。一高、東大法(政治)。亜米利加局長、次官、駐米大使(後任は野村吉三郎海軍大将)。戦後、駐中華民国(台湾)大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%AC%99%E4%BB%8B
1930年10月2日付けの・・・重光・・・の報告によると、ランプソンは「如何なることにても常に列国に先んせむことを努め、貿易本位の支那との関係を有利に維持せむことを焦慮し居り、為に小策を弄するとの評ある位」ということであった。上海の日本人もランプソンのこのような姿勢や行為に目を止めていた。1930年4月の威海衛の対中返還、および見返りとして、延長含みで10年間の軍港使用許可を勝ち取るなど、英中間の種々の懸案解決・関係改善を目の当たりにして、上海の日本人はそれが日中関係に及ぼす効果について深刻に考えざるを得なかった。そして上海在留日本人は、ランプソンではなく、日本の外交官に対して批判的だった。ランプソンの交渉の成功に比べて、日中関係を改善できない日本の外交官は無能なように思われた。上海日本人のこの考え方は、1925〜7年の上海イギリス人のそれと類似していた。
しかし、視野を日英以外にも広げてみると、イギリスは中国との関係が最も良い国というわけではなかった。国民政府の指導者の中には、イェール大学出身の王正廷外交部長やハーヴァード大学出身の宋子文財政部長のように、アメリカで教育を受けアメリカの善意に期待する者が多くいた。また、この時期、国際連盟も保健などの分野でアドヴァイザーを中国に派遣し始めていたが、その中心は必ずしもイギリス人ではなかった。・・・」(209〜210頁)
→この時点では、もはや英国と日本は完全に中国国民党政府、ひいては赤露に各個撃破され、分断されるに至っていたことが分かります。
そのような中で、少なくとも、ランプソンら英国の在支外交官は在支英国人達の要望にできるだけ応えようとした者が多かったのに対し、日本の在支外交官にはそのような者が少なかったことが、在支日本人の外務省離れを引き起こしていた、ということでしょう。
それはそれとして、この頃の英国の相対的凋落ぶりには痛ましいほどのものがあったことを痛感させられます。(太田)
(続く)
<戦間期の排日貨(その2)>(2012.1.3公開)
「日本にとってとは対照的に、イギリスにとって、1928年は非常に満足のいく年であった。・・・
しかし、上海のイギリス人はこの状況を歓迎してばかりいたわけではない。実際のところ、彼らは排日貨を厳しく批判していた。たとえば、1928年10月12日付けの『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙の社説は、中国人も日中関係において日本が一方的に悪いと他国を説得することはできないであろうし、他国の目にボイコットがどのように映るか考えたのかと問うた。この社説は、ボイコットを「ボイコット委員会の図々しい泥棒行為」と描写していた。さらに、11月30日に同紙は「恥ずべきボイコット」と題する社説を掲載し、「野放し状態の窃盗」と「純然たる公認の略奪」を批判した。さらに、南京国民政府の役人は海外における中国の信望や「新体制につけられる大きなマイナス点」、中国の貿易への被害、日本産の安価な日用品を奪われた一般の人々にとっての生活費の上昇、犯罪一般の増加という悪影響について考えてみるべきだと警告した。
自由な通商・貿易の秩序維持は、イギリスにとって大いなる関心事であった。そして、法的権限を持たない私的な団体が商品を没収するということを中国在留のイギリス人実業家は深く懸念した。基金、競売という方法は1925〜6年に<イギリス商品に対して>広州でも用いられたので、イギリス人には、その実態がわかっていたようである。また、中国人商人の所有していた商品だけでなく、日本人や他の外国人の商品もしばしば没収された。日本品を他国の商品と完全に区別するの<が>困難であった<こともその一つの理由である。>・・・
「反日団体の無法な行為」に対し強い懸念を抱く上海イギリス商業会議所は、1929年3月<中旬>に・・・イギリス<の上海>総領事代理・・・<のほか、>アメリカ<の上海>総領事であり、首席総領事でもある<者>・・・に書簡を送った。・・4月9日、総領事団の会合で、多くが反日団体の乱暴な行為を批判した。・・・その結果、・・・首席総領事は<、北京駐留の>首席公使であるオランダのアウデンダイクに、南京国民政府に対し反日団体の行為をやめさせるよう要請すべく依頼した。・・・
アウデンダイクは、回顧録・・・で、次のように記している。「条約をおおっぴらに破るのはほとんど毎日のことだった。危険な挑発の雰囲気で、国民党は何か問題を起こしたがっているかのように見えた。」「中国全土にわたる排日貨は、商品の没収、罰金、処罰を伴って乱暴さを増し、決して商人の自発的行為ではなかった。」・・・
『上海イギリス商業会議所報』の1929年9月号は「没収貨物の売却」という短い記事を掲載していた。この記事はまず新聞広告の例を挙げている。
「反日会によって没収された貨物が8月20日から30日にかけて競売にかけられます。貨物は三つに分類されています。綿布、綿製品と海産物です。この品物のいずれかを購入したいと思う方は・・・上海国民党部に応募してください。」(1929年8月20日、『申報』掲載の広告)
「<上海>国民党部は最近のボイコットで没収した日本品を昨日から売り出しています。売り出しは8月30日に終了します。」(1929年8月23日、『ノース・チャイナ・ディリー・ニュース』)
『上海イギリス商業会議所報』は、文明国であればどこでも、どのような社会集団も協会も個人も、他人の所有物を没収したり売却したりすることは許されないと不満を述べた。同誌によると、この没収品売却の最も深刻な点は、責任ある政府であるべき南京国民政府が盗品の売却を大目に見ていることであった。特定の国の商品を買わないという「ボイコット」は、イギリス人や日本人にも中国人消費者の選択であるとして理解できた。しかし、この時期の「排日貨」は、「ボイコット」と翻訳されていても実際は窃盗行為に近いのではないかと考えられ、批判されたのである。・・・」(201〜204、215頁)
→「南京国民政府が盗品の売却を大目に見ている」には一応典拠が付けられていますが、本当に典拠にそんな微温的なことが書いてあったのでしょうか。なぜなら、明らかに実態は、「<上海国民党部、すなわち、国民党一党独裁の>南京国民政府が盗品を売却している」であったからです。
つまり、国民党政府は、事実上全支那の権力を掌握しつつあった1920年代後半において、国際法や文明の共通法規、それに恐らくは北京政府や自らが定めた法規にも反する、違法行為を、支那内において、(国内の反対勢力や)英国、次いで日本を標的にしてやっていた、ということであり、これは、事実上全ドイツの権力を掌握しつつあり、やがて掌握した1930年代前半にナチスがドイツ国内外において、国内の反対勢力や周辺諸国を標的に同様の違法行為をやったことに比肩すべきであり、法の支配どころか、法治主義すら弊履のごとく扱うところの、中国国民党指導層の権力欲、金銭欲等追求の手段たる中国国民党/国民党政府のファシスト性を如実に物語るものです。
もう一点、忘れてはならないのは、ナチスの場合と違って、実は、そんな中国国民党は、意識すると意識せざるとにかかわらず、赤露のエージェントであったということです。(太田)
「1929年9月に芳沢<謙吉(コラム#4378、4506、4510、4512、4614、4966、4968、4976、4978、4984)>が中国を去ると、その後は彼とランプソンの間に形成された友情や良好な意志疎通に代わるものはなかった。とりわけ同年11月には、新任の佐分利貞夫<(コラム#4968、4986)>駐華公使が箱根で怪死を遂げた。その後任となるはず小幡西吉<(注3)(コラム#4506)>は、国民政府からアグレマンを拒否された。・・・<その>理由は、かつて日本が中国に二一ヵ条要求を突きつけた際に小幡が駐華公使館一等書記官であったためだとされた。この結果、1931年6月に重光が正式に駐華公使となるまで約2年間、駐華公使は空席となってしまったのである。この間、1929年11月からは堀内謙介<(注4)>が臨時代理公使を務め、さらに1930年1月には上海総領事の重光が代理公使を兼ねるようになった。このころ幣原外相らがロンドン海軍軍縮会議などで忙殺されていたこともあり、対中政策における重光の役割は増していった。・・・
(注3)中国国民党政府が小幡にアグレマンを与えなかった理由はとんでもないものだが、そもそも、小幡は、彼のウィキペディアすら存在しない外交官であるところ、当時、既に、彼が芳沢や重光クラスに比べて小物であることが国民党政府に分かっていたことが、案外真の理由であった可能性がある。
(注4)1886〜1979年。一高、東大法(政治)。亜米利加局長、次官、駐米大使(後任は野村吉三郎海軍大将)。戦後、駐中華民国(台湾)大使。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%AC%99%E4%BB%8B
1930年10月2日付けの・・・重光・・・の報告によると、ランプソンは「如何なることにても常に列国に先んせむことを努め、貿易本位の支那との関係を有利に維持せむことを焦慮し居り、為に小策を弄するとの評ある位」ということであった。上海の日本人もランプソンのこのような姿勢や行為に目を止めていた。1930年4月の威海衛の対中返還、および見返りとして、延長含みで10年間の軍港使用許可を勝ち取るなど、英中間の種々の懸案解決・関係改善を目の当たりにして、上海の日本人はそれが日中関係に及ぼす効果について深刻に考えざるを得なかった。そして上海在留日本人は、ランプソンではなく、日本の外交官に対して批判的だった。ランプソンの交渉の成功に比べて、日中関係を改善できない日本の外交官は無能なように思われた。上海日本人のこの考え方は、1925〜7年の上海イギリス人のそれと類似していた。
しかし、視野を日英以外にも広げてみると、イギリスは中国との関係が最も良い国というわけではなかった。国民政府の指導者の中には、イェール大学出身の王正廷外交部長やハーヴァード大学出身の宋子文財政部長のように、アメリカで教育を受けアメリカの善意に期待する者が多くいた。また、この時期、国際連盟も保健などの分野でアドヴァイザーを中国に派遣し始めていたが、その中心は必ずしもイギリス人ではなかった。・・・」(209〜210頁)
→この時点では、もはや英国と日本は完全に中国国民党政府、ひいては赤露に各個撃破され、分断されるに至っていたことが分かります。
そのような中で、少なくとも、ランプソンら英国の在支外交官は在支英国人達の要望にできるだけ応えようとした者が多かったのに対し、日本の在支外交官にはそのような者が少なかったことが、在支日本人の外務省離れを引き起こしていた、ということでしょう。
それはそれとして、この頃の英国の相対的凋落ぶりには痛ましいほどのものがあったことを痛感させられます。(太田)
(続く)
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