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太田述正コラム#5020(2011.9.28)
<戦間期日本人の対独意識(その14)>(2011.12.19公開)
「<次は、>『わが闘争』日本語版への考察<だ。>・・・
<この本は、>1925年に第1巻が出版された。のち、1927年に第2巻が出版され・・・た。・・・
最初に日本が登場する<のは>・・・日露戦争について<であり、>・・・オーストリアに生まれ育ち、同国のスラブ主義に反感を抱いていたヒトラーは、・・・ロシアと戦う日本を支持したというのである。
二番目は、今日では比較的有名な日本文化論関連の<以下のような>記述である。・・・
日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。[中略]今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉はかれてしまい、日本的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、70年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。[中略]ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。
・・・三番目は、ユダヤ人批判のなかで日本に触れた箇所である。・・・
日本国民に浸透することのできなかったユダヤ人は、それゆえに日本を邪魔な存在であるとみなし、諸民族を扇動して反日キャンペーンを行わせている、とヒトラーは言うのである。
以上の3カ所のうち、戦前期においてとりわけ問題になったのが、二番目の日本文化論の箇所であった。・・・
結局、戦前期においては『わが闘争』の<日本に係る二番目の箇所を含む訳>は公刊されなかった。完訳がようやく公刊されたのは、・・・1961年であった。」(141〜143、159頁)
→私は、父親の蔵書中の、室伏高信訳『我が闘争』(第一書房、1940年)を読んだので、この二番目の箇所は今回が初対面です。
さて、「19世紀に・・・、「アーリア人」は、・・・「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。・・・<中でも>ドイツでは・・・、・・・ドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると<いう>主張<がなされた>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%AD%A6%E8%AA%AC
ところ、ヒットラーはこの説に拠っているわけです。
愉快なことに、私見では、イギリス人(アングロサクソン)とは、ケルト化し、更にゲルマン化したバスク人・・バスク語はインド・ヨーロッパ語族に属さない・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Basque_people
なのであり、上掲の『我が闘争』の箇所は、下掲のように、「日本」を「アーリア、就中ヨーロッパ」で、「アーリア」ないし「ヨーロッパ(とアメリカ)」を「アングロサクソン」で置き換えてこそ、成り立つのです。
「ヨーロッパは多くの人々がそう思っているように、自分の文化にアングロサクソンの技術をつけ加えたのではなく、アングロサクソンの科学と技術が欧州の特性によって装飾されたのだ。[中略]今日以後、かりにアングロサクソンが滅亡したとして、すべてアングロサクソン人の影響がそれ以上欧州に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の欧州の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉はかれてしまい、欧州的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、<18世紀>にアングロサクソン文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう・・・」
結局、ヒットラーもまた、代表的欧州人として、アングロサクソンへの強い劣等感を抱いており、実は似て非なるものであるところの、アングロサクソンと自分達欧州人とを無理やり一体視することで、この劣等感の解消を図ろうとしたわけです。(太田)
「<まだ日本で翻訳が出版されていなかった頃だが、>ナチス政権成立から2年目の1934年、東京日日新聞・大阪毎日新聞のベルリン特派員大塚虎雄<(注45)>は、『わが闘争』中の日本文化論を紙面で紹介し、読者の注意を喚起した。ヒトラーの脳裏には「白人種に対し有色人種は一段と低いものだとの見解が、先入主的にコビリついてゐるに違ひない」とし、・・・日本民族がいかなる文化を持っていたかについて、ヒトラーが無知であることは明らかである・・・と。
(注45)著書に『ナチ独逸を往く』 (1936年) がある。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%83%81%E7%8B%AC%E9%80%B8%E3%82%92%E5%BE%80%E3%81%8F-1936%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E5%A1%9A-%E8%99%8E%E9%9B%84/dp/B000JANUL2
・・・<また、>文芸評論家の勝本清一郎<(注46)>・・・は『読売』に寄稿した随筆・・・において・・・ヒトラーが人種的侮蔑観をもって日本に臨んでくる以上、日本人は彼と共に天を同じくすることはできないはずだ。日本人はナチス運動の本質をもっと見極めるべきだ、と主張した。また・・・鈴木東民・・・は、「ナチスはわれわれ日本人を、ユダヤ人と同様に排斥してゐるのだ」と論じた。両者ともヴァイマール期のドイツに長期滞在し、・・・共産主義に親近感を持つ点で共通していた。
(注46)1899〜1967年。慶大文卒。プロレタリア文学や演劇の運動に関わった文芸評論家。ドイツ外遊。1938年に検挙。戦後、日本ユネスコ協会連盟理事長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%9C%AC%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E
・・・かかる発言が有力メディアで公然と行われていたということは、当時の知識人の間にヒトラーの日本文化論がある程度知れ渡り、批判的に受容されていたことを意味するであろう。たとえば、1936年6月、早稲田大学総長。田中穂積<(注47)>は、ベルリンオリンピックに出場する早大生に向かって、「我日本国民を模倣民族なりと大言したヒットラーの面前に日本国民の名誉の為に、早稲田健児の名誉の為に奮闘せられん事を」と述べて激励したが、ここには、ヒトラーの日本人観に対する知識人の反発がよく現れている。」(146〜147頁)
(注47)1876〜1944年。東京専門学校(現早大)政治科卒。コロンビア大学留学。財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%A9%82%E7%A9%8D_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)
「<そこで、>水野宏一編『ヒットラーの我が闘争』(帝国出版社、1940年・・・では、あたかも若き日のヒトラーが熱烈な親日家であったかの如く、大幅な加筆が行われたのである。・・・それは、無理に是正しなければいけないほど、「ヒトラーの対日偏見」が世間に認知されていたことを意味しているといえる。
・・・日独関係が親密になった日独伊防共協定成立以後においても、・・・日本文化論の記述・・・問題に関する発言者はいたのである。
・・・社会学者の新明正道は<(注48)>、・・・『日本評論』1939年10月号<で>・・・、かかる記述が『わが闘争』に存在するのも、ナチズムの根本がアーリア人種至上主義に基づいていることから考えれば不思議はないと論じたのである。加えて、狂信的国粋主義者として知られた菱田胸喜<(注49)>は、1940年<に>・・・著書の中で・・・かかる「事実認識の欠陥に基づく誤断」が存在することに対して「衷心遺憾」の意を表明した。・・・さらに、『中央公論』1942年1月号掲載の座談会「世界史的立場と日本」において、京都大学助教授・西谷啓治<(注50)>が・・・「あれは或る意味で相当よくヨーロッパ人一般の気持ちを、つまり優越感だが、その気持ちを表現してゐると思ふ」と発言した。・・・
(注48)1898〜1984年。「日本の社会学者。<東大法(政治)>卒。独自の立場から綜合社会学を創設。」東北大学教授等を歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%98%8E%E6%AD%A3%E9%81%93
(注49)1894〜1946年。五高、東大法/文卒。慶大予科教授、国士舘専門学校教授。「天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、・・・批判の対象者は、東大法学部にかかわりのある人物が多く・・・、ある種のコンプレックスがあったとも言われている。」自殺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
(注50)1900〜90年。一高、京大文卒。京大教授。公職追放。その後京大教授に復帰。「哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E5%95%93%E6%B2%BB
日独が政治的に接近し、言論界でナチス礼賛が横溢していた時期においても、ヒトラーの人種論への反発は、日本人の対ドイツ意識の底流に浸透していたのだといえよう。・・・
これらの事実から、次の二つのことが明らかになる。第一に、『わが闘争』中に「対日偏見」が存在するということは、日本語版から省かれていたにもかかわらず、知識層では依然として広く知られ、反感を持たれていたということである。・・・
第二に、この問題についてメディアで発言しても、削除や発禁の処分を受けなかったということである。日独伊防共協定成立以後、露骨にドイツやヒトラーを批判すると内務当局によって削除や発禁の処分を受けたことは・・・<前に>紹介した。・・・しかし、『わが闘争』中の日本文化論を批判的に紹介しただけでは、処分されなかったのである。日本政府はこの記述の存在を隠蔽するつもりはなかったようである。・・・
これに対してドイツ大使館は、・・・『わが闘争』中の日本文化論をできれば隠しておきたいと考えていたようだ。・・・
<なお、>国家社会主義者・石川準一郎<(注51)>・・・<は、>三分冊で1941年から42年に<上梓され、>43年に合冊普及版が刊行された<著書の中で、>・・・<この>日本文化論について、・・・「大体正しい」ものであり、「何等新しいものでも珍しいものでもなく、従ってまた敢へて異とするに足らぬもの」とみなす見解を表明した。日本人はむしろ、こうした欠点があることを肝に銘じ、自戒するべきだと述べたのである。・・・『日本書紀』や『大日本史』が漢文で書かれていることなどを理由として挙げている。」(144、156〜157、160、頁)
(注51)『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』。その他の著書として、『社会主義論稿−論理と歴史の再検討』がある。
https://www.kosho.jp/list/975/04817154.html
→当時、私のようなドイツ観、ないし欧州観を持つに至った日本人が出現しなかったことが、私には不思議でなりません。
いずれにせよ、当時の日本の朝野が、ヒットラー、ひいてはナチスドイツにアンビバレントな意識を抱いていたことがよく分かりますね。(太田)
(続く)
<戦間期日本人の対独意識(その14)>(2011.12.19公開)
「<次は、>『わが闘争』日本語版への考察<だ。>・・・
<この本は、>1925年に第1巻が出版された。のち、1927年に第2巻が出版され・・・た。・・・
最初に日本が登場する<のは>・・・日露戦争について<であり、>・・・オーストリアに生まれ育ち、同国のスラブ主義に反感を抱いていたヒトラーは、・・・ロシアと戦う日本を支持したというのである。
二番目は、今日では比較的有名な日本文化論関連の<以下のような>記述である。・・・
日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。[中略]今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉はかれてしまい、日本的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、70年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。[中略]ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。
・・・三番目は、ユダヤ人批判のなかで日本に触れた箇所である。・・・
日本国民に浸透することのできなかったユダヤ人は、それゆえに日本を邪魔な存在であるとみなし、諸民族を扇動して反日キャンペーンを行わせている、とヒトラーは言うのである。
以上の3カ所のうち、戦前期においてとりわけ問題になったのが、二番目の日本文化論の箇所であった。・・・
結局、戦前期においては『わが闘争』の<日本に係る二番目の箇所を含む訳>は公刊されなかった。完訳がようやく公刊されたのは、・・・1961年であった。」(141〜143、159頁)
→私は、父親の蔵書中の、室伏高信訳『我が闘争』(第一書房、1940年)を読んだので、この二番目の箇所は今回が初対面です。
さて、「19世紀に・・・、「アーリア人」は、・・・「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。・・・<中でも>ドイツでは・・・、・・・ドイツ人が最も純粋なアーリア人の血を引く民族であると<いう>主張<がなされた>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%AD%A6%E8%AA%AC
ところ、ヒットラーはこの説に拠っているわけです。
愉快なことに、私見では、イギリス人(アングロサクソン)とは、ケルト化し、更にゲルマン化したバスク人・・バスク語はインド・ヨーロッパ語族に属さない・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Basque_people
なのであり、上掲の『我が闘争』の箇所は、下掲のように、「日本」を「アーリア、就中ヨーロッパ」で、「アーリア」ないし「ヨーロッパ(とアメリカ)」を「アングロサクソン」で置き換えてこそ、成り立つのです。
「ヨーロッパは多くの人々がそう思っているように、自分の文化にアングロサクソンの技術をつけ加えたのではなく、アングロサクソンの科学と技術が欧州の特性によって装飾されたのだ。[中略]今日以後、かりにアングロサクソンが滅亡したとして、すべてアングロサクソン人の影響がそれ以上欧州に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の欧州の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉はかれてしまい、欧州的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、<18世紀>にアングロサクソン文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう・・・」
結局、ヒットラーもまた、代表的欧州人として、アングロサクソンへの強い劣等感を抱いており、実は似て非なるものであるところの、アングロサクソンと自分達欧州人とを無理やり一体視することで、この劣等感の解消を図ろうとしたわけです。(太田)
「<まだ日本で翻訳が出版されていなかった頃だが、>ナチス政権成立から2年目の1934年、東京日日新聞・大阪毎日新聞のベルリン特派員大塚虎雄<(注45)>は、『わが闘争』中の日本文化論を紙面で紹介し、読者の注意を喚起した。ヒトラーの脳裏には「白人種に対し有色人種は一段と低いものだとの見解が、先入主的にコビリついてゐるに違ひない」とし、・・・日本民族がいかなる文化を持っていたかについて、ヒトラーが無知であることは明らかである・・・と。
(注45)著書に『ナチ独逸を往く』 (1936年) がある。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%83%81%E7%8B%AC%E9%80%B8%E3%82%92%E5%BE%80%E3%81%8F-1936%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E5%A1%9A-%E8%99%8E%E9%9B%84/dp/B000JANUL2
・・・<また、>文芸評論家の勝本清一郎<(注46)>・・・は『読売』に寄稿した随筆・・・において・・・ヒトラーが人種的侮蔑観をもって日本に臨んでくる以上、日本人は彼と共に天を同じくすることはできないはずだ。日本人はナチス運動の本質をもっと見極めるべきだ、と主張した。また・・・鈴木東民・・・は、「ナチスはわれわれ日本人を、ユダヤ人と同様に排斥してゐるのだ」と論じた。両者ともヴァイマール期のドイツに長期滞在し、・・・共産主義に親近感を持つ点で共通していた。
(注46)1899〜1967年。慶大文卒。プロレタリア文学や演劇の運動に関わった文芸評論家。ドイツ外遊。1938年に検挙。戦後、日本ユネスコ協会連盟理事長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%9C%AC%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E
・・・かかる発言が有力メディアで公然と行われていたということは、当時の知識人の間にヒトラーの日本文化論がある程度知れ渡り、批判的に受容されていたことを意味するであろう。たとえば、1936年6月、早稲田大学総長。田中穂積<(注47)>は、ベルリンオリンピックに出場する早大生に向かって、「我日本国民を模倣民族なりと大言したヒットラーの面前に日本国民の名誉の為に、早稲田健児の名誉の為に奮闘せられん事を」と述べて激励したが、ここには、ヒトラーの日本人観に対する知識人の反発がよく現れている。」(146〜147頁)
(注47)1876〜1944年。東京専門学校(現早大)政治科卒。コロンビア大学留学。財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%A9%82%E7%A9%8D_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)
「<そこで、>水野宏一編『ヒットラーの我が闘争』(帝国出版社、1940年・・・では、あたかも若き日のヒトラーが熱烈な親日家であったかの如く、大幅な加筆が行われたのである。・・・それは、無理に是正しなければいけないほど、「ヒトラーの対日偏見」が世間に認知されていたことを意味しているといえる。
・・・日独関係が親密になった日独伊防共協定成立以後においても、・・・日本文化論の記述・・・問題に関する発言者はいたのである。
・・・社会学者の新明正道は<(注48)>、・・・『日本評論』1939年10月号<で>・・・、かかる記述が『わが闘争』に存在するのも、ナチズムの根本がアーリア人種至上主義に基づいていることから考えれば不思議はないと論じたのである。加えて、狂信的国粋主義者として知られた菱田胸喜<(注49)>は、1940年<に>・・・著書の中で・・・かかる「事実認識の欠陥に基づく誤断」が存在することに対して「衷心遺憾」の意を表明した。・・・さらに、『中央公論』1942年1月号掲載の座談会「世界史的立場と日本」において、京都大学助教授・西谷啓治<(注50)>が・・・「あれは或る意味で相当よくヨーロッパ人一般の気持ちを、つまり優越感だが、その気持ちを表現してゐると思ふ」と発言した。・・・
(注48)1898〜1984年。「日本の社会学者。<東大法(政治)>卒。独自の立場から綜合社会学を創設。」東北大学教授等を歴任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%98%8E%E6%AD%A3%E9%81%93
(注49)1894〜1946年。五高、東大法/文卒。慶大予科教授、国士舘専門学校教授。「天皇機関説事件に始まる大学粛正運動の理論的指導者であり、・・・批判の対象者は、東大法学部にかかわりのある人物が多く・・・、ある種のコンプレックスがあったとも言われている。」自殺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
(注50)1900〜90年。一高、京大文卒。京大教授。公職追放。その後京大教授に復帰。「哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E5%95%93%E6%B2%BB
日独が政治的に接近し、言論界でナチス礼賛が横溢していた時期においても、ヒトラーの人種論への反発は、日本人の対ドイツ意識の底流に浸透していたのだといえよう。・・・
これらの事実から、次の二つのことが明らかになる。第一に、『わが闘争』中に「対日偏見」が存在するということは、日本語版から省かれていたにもかかわらず、知識層では依然として広く知られ、反感を持たれていたということである。・・・
第二に、この問題についてメディアで発言しても、削除や発禁の処分を受けなかったということである。日独伊防共協定成立以後、露骨にドイツやヒトラーを批判すると内務当局によって削除や発禁の処分を受けたことは・・・<前に>紹介した。・・・しかし、『わが闘争』中の日本文化論を批判的に紹介しただけでは、処分されなかったのである。日本政府はこの記述の存在を隠蔽するつもりはなかったようである。・・・
これに対してドイツ大使館は、・・・『わが闘争』中の日本文化論をできれば隠しておきたいと考えていたようだ。・・・
<なお、>国家社会主義者・石川準一郎<(注51)>・・・<は、>三分冊で1941年から42年に<上梓され、>43年に合冊普及版が刊行された<著書の中で、>・・・<この>日本文化論について、・・・「大体正しい」ものであり、「何等新しいものでも珍しいものでもなく、従ってまた敢へて異とするに足らぬもの」とみなす見解を表明した。日本人はむしろ、こうした欠点があることを肝に銘じ、自戒するべきだと述べたのである。・・・『日本書紀』や『大日本史』が漢文で書かれていることなどを理由として挙げている。」(144、156〜157、160、頁)
(注51)『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』。その他の著書として、『社会主義論稿−論理と歴史の再検討』がある。
https://www.kosho.jp/list/975/04817154.html
→当時、私のようなドイツ観、ないし欧州観を持つに至った日本人が出現しなかったことが、私には不思議でなりません。
いずれにせよ、当時の日本の朝野が、ヒットラー、ひいてはナチスドイツにアンビバレントな意識を抱いていたことがよく分かりますね。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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