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太田述正コラム#5004(2011.9.20)
<戦間期日本人の対独意識(その9)>(2011.12.11公開)

 「内閣情報部が1938年に作成した新聞指導要領には、「独伊ニ対シテハ出来ル限リ好感ヲ表明シ防共協定ノ精神ニ則リ両国ノ外交政策ヲ支援スルコト」、「徒ニ国民ヲシテ独伊ノ積極的支援ヲ期待セシメ以テ自主独往ノ精神ヲ失ハシムル如キ記事ハ差控フルコト」とある。また、内務省警保局図書課が同年に発した「時局に関する新聞紙其の他出版記事取締事項」には、「徒に国交を阻碍するが如き論議特に独、伊との友好関係に支障を生ずるが如き事項」が取り締まりの対象として挙げられていた。・・・
 しかし、新聞社が政府の命令で嫌々ながら親独記事を載せていたとは考えにくい。各紙はドイツ支持・日独友好の記事を載せることが国家及び自社の利益になると信じ、むしろ率先して記事を掲載していた。それだけでなく、各新聞社は、ナチス・ドイツへの日本人の「理解」を促し、日独両国の交流をより推進させ、さらに販売拡張につなげるための事業(メディア・イベント)を積極的に展開したのである。」(56〜56頁)

→このくだりで、私の指摘の正しかったことが裏付けられた、と言えるでしょう。(太田)

 「1938年後半頃から、泥沼化しつつあった日中戦争解決のため、防共協定を強化せよという主張が有力になりつつあった。ドイツは英仏をも対象とした軍事同盟の締結を望んだが、イギリスの蒋介石援助を日中戦争長期化の原因と考える陸軍は、これに同調した。他方、対英戦争に巻き込まれることを恐れる海軍と外務省は、反対姿勢を見せて抵抗した。両者の意見対立を収拾できずに近衛文麿内閣は総辞職し、後を継いだ平沼騏一郎内閣では五相会議が60回以上も開かれたが、やはり意見をまとめることができず、右往左往していた。・・・
 新聞社の中には軍事同盟締結を主張するものがあった。その立場を最も鮮明にしていたのが、『国民新聞』である。同紙は明治時代に徳富蘇峰が創刊した新聞であるが、1933年に『新愛知』の大島宇吉<(注27)>の支配下に移っていた。軍部寄りの報道姿勢を続け、この時期には明確に「軍事同盟」という言葉を用い、ソ連のみでなく英国をも仮想敵国とした日独伊同盟締結の必要を繰り返し説いていた。たとえば、1939年1月8日の社説では、援蒋政策を続けソ連の世界政策に協力する英国が日本の敵か味方かは明白であるとし、それへの対応策である日独伊軍事同盟にはいささかの顧慮なしに邁進すべきである、と主張した。・・・また『報知新聞』も、1939年に三木武吉<(注28)>が社長に就任してからは親独伊・反英米的傾向を強め、軍事同盟締結を求めていた。・・・

 (注27)1852〜1940年。現在の名古屋市内の地主の家に生まれる。自由民権運動に没頭した後、新聞発行を始め、1890年、第1回衆議院議員選挙に落選してからは、再び政治の表面には立たないと決心。やがて「新愛知」(新聞)を創設。国民新聞を買収して東京に進出し、東京新聞、東京中日スポーツを創設。なお、「新愛知」は、1942年、「名古屋新聞」と合併、現在の「中日新聞」となり、現在に至っている。
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_44.pdf
http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris23.htm
 (注28)1884〜1956年。東京専門学校(現早大)卒。日銀に入行するも政治演説を行ったため免職。その後、高等文官試験(司法科)に合格して裁判官になるがすぐに辞めて弁護士。後、衆議院議員。
 1928年に疑獄事件に連座して一時政界を去り、1939年、報知新聞社社長に就任。
 1942年、総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に非推薦で出馬し当選、政界に復帰。この選挙では鳩山一郎も非推薦で当選している。戦前、鳩山は政友会、三木は民政党の幹部であり、お互いに敵同士であったが、戦時中はともに政党人として、鳩山と三木は将来の「鳩山首相、三木衆院議長」を誓い合う。
 同年8月には買収合併の形で報知新聞社を読売新聞に譲渡。
 終戦後、日本自由党の創立に参画。1946年、総選挙で自由党は第一党となり、鳩山内閣成立が現実味を帯びたものとなるが、鳩山は組閣直前に公職追放となり、内閣成立は一歩手前で頓挫。鳩山に代わって吉田茂が自由党総裁となり、吉田内閣を組閣。吉田は戦前の政党に嫌悪感を持っており、河野一郎幹事長や総務会長の三木ら自由党幹部に相談せず人事を決めたため、吉田総裁を除名すべしとの極論も出るが、三木は吉田首班を認めない場合、社会党に政権が行く可能性ありとして党内世論の沈静化に努めた。第1次吉田内閣成立の直後に三木も公職追放となる。
 1951年に公職追放令が解除されると、三木は鳩山、河野らと共に吉田打倒に動き出した。自由党に復帰した後、1954年に民主党の結成に参画し、同年末、ついに吉田打倒を果たす。
 その後、自由民主党結党による保守合同を成し遂げる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%90%89

 『東日』は、『国民新聞』や『報知新聞』のように露骨に「軍事同盟」という言葉は用いなかった。それでも1939年3月24日の社説において、・・・軍事同盟の必要を示唆している。・・・
 『読売』も、社説において・・・防共強化賛成を暗示した。・・・
 このように、『東日』と『読売』は軍事同盟締結に賛意を表明していたが、『東朝』紙上には防共強化論は見出せない。同紙が慎重だったのは、主筆の緒方竹虎<(注29)(コラム#4376、4998)>が、軍事同盟に反対していた米内光政海相と親交があったことが関係しているのかもしれない。・・・

 (注29)1888〜1956年。東京高等商業学校(現在の一橋大学)を退学して早稲田大学専門部政治経済科卒。修猷館中学(福岡)時代の同窓生の中野正剛に誘われ朝日新聞社入社。1934年東京朝日新聞社主筆。
 近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会に、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者を参加させ、緒方自身も第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与。しかしその中から、尾崎秀実が1941年10月にゾルゲ事件で逮捕された。
 中野正剛が1943年に東條首相に弾圧され自殺すると、中野の葬儀委員長を務めた緒方は、東條からの供花を拒否している。
 朝日新聞社退社後、1944年、小磯内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣。敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方が内閣書記官長と内閣の大番頭を務め、文部大臣に元朝日新聞社論説委員前田多門、総理大臣秘書官に朝日新聞社論説委員太田照彦、緒方の秘書官に朝日新聞記者中村正吾、内閣参与に元朝日新聞記者田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した。
 公職追放解除の翌年にあたる1952年、総選挙に出馬し、福岡の中野正剛の地盤を引き継いだ上に地元財界の支持を得て当選。第4次吉田内閣で当選1回ながら、国務大臣兼内閣官房長官、さらに副総理に任命され、翌1953年5月成立の第5次吉田内閣でも副総理に就任。この政界での急速な階梯昇段の要因として、吉田が重光葵の後任として東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが挙げられる。
 なお、緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、村井順とともに、アメリカのCIA、イギリスのMI5、MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

 この間、国家主義勢力は軍事同盟締結運動を積極的に展開する。それは1939年6月の天津租界封鎖問題<(コラム#3780、3782、3794、3970、4274、4276、4350、4392、4546、4550、4582、4711)>をめぐって展開された反英運動と一体化し、街頭には「日独伊三国同盟を結び英国を討て」といった立て看板やビラが氾濫するに至った。・・・有田・クレーギー会談当日に、在京新聞各社が対英共同宣言<(コラム#4274)>を発表したことはよく知られている。」(65〜67頁)

→自由民主党の党人派中の、三木武吉は「タカ」派の祖、緒方竹虎はその「ハト」派の祖、といった趣がありますね。(言うまでもありませんが、官僚派中の「タカ」派の祖は岸信介ですし、「ハト」派の祖は、吉田茂です。)
 興味深いのは、緒方竹虎率いる朝日新聞社をいわば勧進元として、早くも、戦前から戦中にかけて、英米事大主義にして親外務省/帝国海軍・反帝国陸軍を母斑とするところの、吉田ドクトリン的勢力が概成していたかのように見える点です。
 そして、この勢力が、吉田茂を占領期から主権回復直後にかけて、首相として押し立て続けて行くわけです。
 なお、岩村は、「国家主義勢力は軍事同盟締結運動を積極的に展開」したとしており、「国家主義勢力」という言葉を、何の説明もなくして唐突に登場させていますが、日独伊三国同盟を推進した勢力とは、当時の世論であり、また、その世論に最も忠実であった帝国陸軍であった以上、岩村は、そのように説明した上で、どうしてそれが「国家主義」なのか、はたまた、「国家主義」という言葉にはネガティブな語感があるけれど、岩村は日独伊三国同盟締結は愚行であると考えているのか、そう考えているとすればそれはどうしてか、を明らかにすべきでした。(太田)
 
(続く)

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