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太田述正コラム#4998(2011.9.17)
<戦間期日本人の対独意識(その6)>(2011.12.8公開)
「なお、雑誌に掲載された論文をみると、『読売』と同じく、協定を批判的に捉えたものが圧倒的に多く、賛意を表明しているのは一部の右翼的言論人など少数である・・・。一般国民の反応も歓迎一色ではなく、微妙なものがあった。<1936年>12月12日に日比谷公園で開催された防共協定祝賀会は、出席した反ユダヤ主義者・四王天延孝<(注14)>によれば、「割合に淋しく、一般大衆よりも、先生から駆り出されたのかと思われる学生群の方が多かったように見えて物足らなかった」という。・・・
(注14)1879〜1962年。陸士、陸大。ハルピン特務機関長、軍務局航空課長等を経て、1929年、予備役編入時特昇で中将。ユダヤ陰謀論を唱え『シオンの議定書』の邦訳を行うとともに、戦中の翼賛総選挙で全国最高点で当選。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%8E%8B%E5%A4%A9%E5%BB%B6%E5%AD%9D
防共協定成立から一カ月たたない1936年12月22日、『東日』は社説でドイツの食糧問題について、以下のように論じた。ドイツの食糧難は、凶作の影響もあるが、ベルリン五輪で外来客に繁栄を誇示するために大消費を行ったこと、軍備の大拡張によって国内金準備が枯渇し輸入難になっていることが理由である。軍備拡充で国民の生活難を招くことが、果たして国防の充実となるだろうか。国民の士気と体力がそれで養われるだろうか。さらに五輪の宣伝が国民の保健に悪影響を及ぼしたことについて考えるならば、わが国の今日についても他山の石たるべきものが多々発見せられるようだ、と述べている。防共協定を締結したばかりの「友邦」に対する、突き放した冷たい論調である。
また、同紙1937年3月17日付夕刊に一面トップで大きく掲載された、客員特派員・河上清<(注15)>による記事「繁栄ナチスの裏表」も批判的な記事のひとつである。河上は古くから『大毎』『東日』の客員特派員となっていた。・・・
(注15)1873〜1949年。「慶應義塾・・・などで学び・・・万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。・・・1900年・・・社会主義協会結成に参加、・・・1901年・・・社会民主党を他の5名とともに創立。同党が禁止されると、身の危険を感じて渡米。大学で学びながらジャーナリストとしての活動も再開。キヨシ・カール・カワカミ(K.K.カワカミ)の筆名を用いる(ミドルネームの「カール」はカール・マルクスにちなむ)。
折りしも日露戦争が始まった事から万朝報の特派員の名目で同地に留まり、その後もフリージャーナリスト、時事新報<等の日本の新聞>・・・の客員特派員としてアメリカでの執筆活動を続け、その間にアメリカ人女性と結婚した。
その後、日本への国際的非難が集中した「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから、米国では「日本の政策の代弁者」と見られるようになった。太平洋戦争開戦直後、スパイ容疑で逮捕されたが、彼を知るアメリカ人有力者の助力もあって釈放される。太平洋戦争中には「日本は負けなければならない」と連合国支持を明確にする立場に転じた。
さらに戦後は、再び「革新」の側にシンパシィを示すようにな<り、>・・・社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言した。
以後、日本には戻らずワシントン<で没。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E6%B8%85
河上は、・・・ドイツは表面的には繁栄しているかに見えるが、その経済の実態はかなり貧弱であるとし、大部分の非ナチス国民はヒトラーに対してひそかに不満を漏らしていると伝えていた。・・・
以上のような、ドイツに対するネガティブな分析が社説になったり、一面トップに掲載されたりすることは、いちはやく日独提携に賛同した『東日』といえども、まだドイツへの批判精神を完全に失ってはいなかったのだといえるであろう。
より反ナチスの色彩が濃厚だったのは、やはり『読売』であった。・・・
『日本評論』の新聞時評は、『読売』の「ナチス攻撃」を取り上げ、高く評価していた。それは「時には感情的な点もあるにせよ、必ず実証的であり、理論的である」とし、日本はこうした冷静な諸論に傾聴することにより、正しい判断の助けとするべきだと論じている。」(24〜25、27頁)
「しかし、こうした対独批判は、<1937年>7月7日に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争(支那事変)に突入してからは、紙面から姿を消していく。華北への派兵が決定された7月11日、近衛文麿首相は都下の新聞社・通信社幹部44名を招いて挙国一致のための協力を要請した。これに対し、同盟通信社社長岩永祐吉が一同を代表して協力を約束した。日中戦争遂行に協力を誓ったメディアは、以後、「防共友邦」ドイツに対する姿勢を変化させるのであった。
盧溝橋事件から2週間後の7月21日、頭山満<(注16)(コラム#230、4376、4614、4703、4952)>、徳富蘇峰ら民間有志が丸の内会館で会合を開き、日独防共協定強化を求める宣言を発表した。いわく、共産主義は現代における世界の一大呪詛にして、一大害毒である。それゆえに我々は、日独防共協定締結を機宜を得た施為と確信したのだが、その後1年が経とうとするにもかかわらず、いまだその趣旨が中外に貫徹されず、その目的が上下に達していないのは最も遺憾とするところである。特に現下北支事件の真相を洞察する者は、中国政府の背後にコミンテルンの存在することを看取し、如何にわが国が共産主義団体と正面衝突をなしつつあるかを痛感しない者はあるまい。・・・
(注16)1855〜1944年。「明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。・・・玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、犬養毅・大隈重信・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
頭山満については、機会を見て改めて取り上げたい。
この宣言書については、発起人として33名が名を連ねた。頭山と徳富のほか、有田八郎<(コラム#3784、4274、4374、4392、4618)>、・・・、松井石根<(コラム#3536、4834、4837、4693、4968)>、・・・、藤原銀次郎<(注17)>、松野鶴平<(松野頼三の父、松野頼久の祖父たる政治家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3
>・・・、小泉又次郎<(小泉純一郎元首相の祖父たる政治家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%8F%88%E6%AC%A1%E9%83%8E
>、中野正剛<(注18)(コラム#229、4669)>といった各界の有力者が名を連ねているが、そこにはマスコミ業界から緒方竹虎(東京朝日新聞社主筆)、高石真五郎(東京日日新聞社主筆)、正力松太郎(読売新聞社社長)、・・・、岩永裕吉(同盟通信社社長)、・・・、野間清治(大日本雄弁会講談社社長・報知新聞社社長)も加わっていた。つまり、彼らマスコミ人も、日中戦争勃発を受けて日独防共協定の意義を認識し、これを強化するべきと考えたのである。
(注17)1869〜1960年。慶應大卒。「戦前の三井財閥の中心人物の一人で、王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8A%80%E6%AC%A1%E9%83%8E
(注18)1886〜1943年。早大政経卒。ジャーナリストを経て衆議院議員。独ソ開戦までヒットラーを尊敬、そのほか、クレマンソー、チャーチルを尊敬(!?)。東條英樹には反発。そのからみで憲兵監視下で割腹自殺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
8月に入って、戦争相手の中華民国がソ連と不可侵条約<(注19)>を結んだことが明らかになった。このことは、日独防共協定の価値を再認識させ、ドイツへの期待を高めた。たとえば、『読売』8月31日の一面トップ記事は、中ソ条約に対してドイツ政府が重大な関心を持っているという内容の同盟通信のベルリン特電であるが、『読売』はこれに『防共の精神厳然」と横見出しをつけ、縦見出しでは「ソ支条約黙視出来ず/ドイツ政府起たん」とし、さらにヒトラーの大きな顔写真を付け加え、独伊の国民政府軍事顧問が引き揚げを開始したという上海本社特電とならべて掲載した・・・。ナチス・ドイツに批判的だった同紙が、このようにドイツに期待をかけるような報道をしているのは象徴的である。」(27〜29頁)
(注19)中ソ不可侵条約=Treaty of non-aggression between the Republic of China and the Union of Soviet Socialist Republics。「日中戦争の第二次上海事変により日中戦争が全面戦争として勃発した直後の1937年8月21日・・・調印・・・。・・・同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。
一方、条約締結と同時にソ連から中国国民政府に対する武器の供給も開始され、ソ連からは武器購入代金として2億5000万USドルが渡され、航空機千機、戦車、大砲が売却された。ソ連政府はおよそ300人の軍事顧問団を中国に派遣した。・・・以後4年間、中国に入る重火器、大砲、航空機の供給はソ連からのみとなったほど、ソ連はライフルの生産しか行われていない中国にとっての最大の武器供給国であり続けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
なお、日ソ中立条約は、1941年4月13日調印、25日発効。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
→河上清は一記者に過ぎませんが、彼の論調の軌跡を見ると、(戦時中、滞在先の米国に阿った点はともかくとして、)一貫して日本の世論の動向に配慮した記事を書き続けたことが分かります。
大新聞の論調についても、基本的に同じことが言えるのであろう、と考えます。
もっとも、大新聞が、世論の動向に配慮するのは当たり前ないしやむを得ないとしても、(例えばナチスドイツに係る、)事実や、未来予測をそのために捻じ曲げたらいけないわけですが、残念ながら、日本のマスコミには、当時も現在も、ややもすればその傾向がうかがえるようです。
さて、民間有志による「日独防共協定強化を求める宣言」が端的に示しているように、当時の日本の世論は、対外政策において赤露抑止を最重視し、かつまた、中国国民党政権が赤露の手先であることを明確に自覚し、だからこそ、日支戦争に強く賛同していたことが分かります。
このような国民世論を踏まえ、当時の日本政府は、当面の敵である中国国民党政権を打ち破るために、日独防共協定を締結してナチスドイツに中国国民党政権加担を止めさせ、次いで日ソ中立条約を締結して赤露に中国国民党政権加担を止めさせる、というモグラ叩きのような懸命の努力を続けたわけです。
残されたのは、米英による中国国民党政権への加担をどう止めさせるか、という問題でしたが、結局、日本政府はそれに失敗し、太平洋戦争へと突入して行くことになります。(太田)
(続く)
<戦間期日本人の対独意識(その6)>(2011.12.8公開)
「なお、雑誌に掲載された論文をみると、『読売』と同じく、協定を批判的に捉えたものが圧倒的に多く、賛意を表明しているのは一部の右翼的言論人など少数である・・・。一般国民の反応も歓迎一色ではなく、微妙なものがあった。<1936年>12月12日に日比谷公園で開催された防共協定祝賀会は、出席した反ユダヤ主義者・四王天延孝<(注14)>によれば、「割合に淋しく、一般大衆よりも、先生から駆り出されたのかと思われる学生群の方が多かったように見えて物足らなかった」という。・・・
(注14)1879〜1962年。陸士、陸大。ハルピン特務機関長、軍務局航空課長等を経て、1929年、予備役編入時特昇で中将。ユダヤ陰謀論を唱え『シオンの議定書』の邦訳を行うとともに、戦中の翼賛総選挙で全国最高点で当選。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%8E%8B%E5%A4%A9%E5%BB%B6%E5%AD%9D
防共協定成立から一カ月たたない1936年12月22日、『東日』は社説でドイツの食糧問題について、以下のように論じた。ドイツの食糧難は、凶作の影響もあるが、ベルリン五輪で外来客に繁栄を誇示するために大消費を行ったこと、軍備の大拡張によって国内金準備が枯渇し輸入難になっていることが理由である。軍備拡充で国民の生活難を招くことが、果たして国防の充実となるだろうか。国民の士気と体力がそれで養われるだろうか。さらに五輪の宣伝が国民の保健に悪影響を及ぼしたことについて考えるならば、わが国の今日についても他山の石たるべきものが多々発見せられるようだ、と述べている。防共協定を締結したばかりの「友邦」に対する、突き放した冷たい論調である。
また、同紙1937年3月17日付夕刊に一面トップで大きく掲載された、客員特派員・河上清<(注15)>による記事「繁栄ナチスの裏表」も批判的な記事のひとつである。河上は古くから『大毎』『東日』の客員特派員となっていた。・・・
(注15)1873〜1949年。「慶應義塾・・・などで学び・・・万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。・・・1900年・・・社会主義協会結成に参加、・・・1901年・・・社会民主党を他の5名とともに創立。同党が禁止されると、身の危険を感じて渡米。大学で学びながらジャーナリストとしての活動も再開。キヨシ・カール・カワカミ(K.K.カワカミ)の筆名を用いる(ミドルネームの「カール」はカール・マルクスにちなむ)。
折りしも日露戦争が始まった事から万朝報の特派員の名目で同地に留まり、その後もフリージャーナリスト、時事新報<等の日本の新聞>・・・の客員特派員としてアメリカでの執筆活動を続け、その間にアメリカ人女性と結婚した。
その後、日本への国際的非難が集中した「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから、米国では「日本の政策の代弁者」と見られるようになった。太平洋戦争開戦直後、スパイ容疑で逮捕されたが、彼を知るアメリカ人有力者の助力もあって釈放される。太平洋戦争中には「日本は負けなければならない」と連合国支持を明確にする立場に転じた。
さらに戦後は、再び「革新」の側にシンパシィを示すようにな<り、>・・・社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言した。
以後、日本には戻らずワシントン<で没。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E6%B8%85
河上は、・・・ドイツは表面的には繁栄しているかに見えるが、その経済の実態はかなり貧弱であるとし、大部分の非ナチス国民はヒトラーに対してひそかに不満を漏らしていると伝えていた。・・・
以上のような、ドイツに対するネガティブな分析が社説になったり、一面トップに掲載されたりすることは、いちはやく日独提携に賛同した『東日』といえども、まだドイツへの批判精神を完全に失ってはいなかったのだといえるであろう。
より反ナチスの色彩が濃厚だったのは、やはり『読売』であった。・・・
『日本評論』の新聞時評は、『読売』の「ナチス攻撃」を取り上げ、高く評価していた。それは「時には感情的な点もあるにせよ、必ず実証的であり、理論的である」とし、日本はこうした冷静な諸論に傾聴することにより、正しい判断の助けとするべきだと論じている。」(24〜25、27頁)
「しかし、こうした対独批判は、<1937年>7月7日に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争(支那事変)に突入してからは、紙面から姿を消していく。華北への派兵が決定された7月11日、近衛文麿首相は都下の新聞社・通信社幹部44名を招いて挙国一致のための協力を要請した。これに対し、同盟通信社社長岩永祐吉が一同を代表して協力を約束した。日中戦争遂行に協力を誓ったメディアは、以後、「防共友邦」ドイツに対する姿勢を変化させるのであった。
盧溝橋事件から2週間後の7月21日、頭山満<(注16)(コラム#230、4376、4614、4703、4952)>、徳富蘇峰ら民間有志が丸の内会館で会合を開き、日独防共協定強化を求める宣言を発表した。いわく、共産主義は現代における世界の一大呪詛にして、一大害毒である。それゆえに我々は、日独防共協定締結を機宜を得た施為と確信したのだが、その後1年が経とうとするにもかかわらず、いまだその趣旨が中外に貫徹されず、その目的が上下に達していないのは最も遺憾とするところである。特に現下北支事件の真相を洞察する者は、中国政府の背後にコミンテルンの存在することを看取し、如何にわが国が共産主義団体と正面衝突をなしつつあるかを痛感しない者はあるまい。・・・
(注16)1855〜1944年。「明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。・・・玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、犬養毅・大隈重信・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
頭山満については、機会を見て改めて取り上げたい。
この宣言書については、発起人として33名が名を連ねた。頭山と徳富のほか、有田八郎<(コラム#3784、4274、4374、4392、4618)>、・・・、松井石根<(コラム#3536、4834、4837、4693、4968)>、・・・、藤原銀次郎<(注17)>、松野鶴平<(松野頼三の父、松野頼久の祖父たる政治家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3
>・・・、小泉又次郎<(小泉純一郎元首相の祖父たる政治家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%8F%88%E6%AC%A1%E9%83%8E
>、中野正剛<(注18)(コラム#229、4669)>といった各界の有力者が名を連ねているが、そこにはマスコミ業界から緒方竹虎(東京朝日新聞社主筆)、高石真五郎(東京日日新聞社主筆)、正力松太郎(読売新聞社社長)、・・・、岩永裕吉(同盟通信社社長)、・・・、野間清治(大日本雄弁会講談社社長・報知新聞社社長)も加わっていた。つまり、彼らマスコミ人も、日中戦争勃発を受けて日独防共協定の意義を認識し、これを強化するべきと考えたのである。
(注17)1869〜1960年。慶應大卒。「戦前の三井財閥の中心人物の一人で、王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8A%80%E6%AC%A1%E9%83%8E
(注18)1886〜1943年。早大政経卒。ジャーナリストを経て衆議院議員。独ソ開戦までヒットラーを尊敬、そのほか、クレマンソー、チャーチルを尊敬(!?)。東條英樹には反発。そのからみで憲兵監視下で割腹自殺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
8月に入って、戦争相手の中華民国がソ連と不可侵条約<(注19)>を結んだことが明らかになった。このことは、日独防共協定の価値を再認識させ、ドイツへの期待を高めた。たとえば、『読売』8月31日の一面トップ記事は、中ソ条約に対してドイツ政府が重大な関心を持っているという内容の同盟通信のベルリン特電であるが、『読売』はこれに『防共の精神厳然」と横見出しをつけ、縦見出しでは「ソ支条約黙視出来ず/ドイツ政府起たん」とし、さらにヒトラーの大きな顔写真を付け加え、独伊の国民政府軍事顧問が引き揚げを開始したという上海本社特電とならべて掲載した・・・。ナチス・ドイツに批判的だった同紙が、このようにドイツに期待をかけるような報道をしているのは象徴的である。」(27〜29頁)
(注19)中ソ不可侵条約=Treaty of non-aggression between the Republic of China and the Union of Soviet Socialist Republics。「日中戦争の第二次上海事変により日中戦争が全面戦争として勃発した直後の1937年8月21日・・・調印・・・。・・・同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。
一方、条約締結と同時にソ連から中国国民政府に対する武器の供給も開始され、ソ連からは武器購入代金として2億5000万USドルが渡され、航空機千機、戦車、大砲が売却された。ソ連政府はおよそ300人の軍事顧問団を中国に派遣した。・・・以後4年間、中国に入る重火器、大砲、航空機の供給はソ連からのみとなったほど、ソ連はライフルの生産しか行われていない中国にとっての最大の武器供給国であり続けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
なお、日ソ中立条約は、1941年4月13日調印、25日発効。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
→河上清は一記者に過ぎませんが、彼の論調の軌跡を見ると、(戦時中、滞在先の米国に阿った点はともかくとして、)一貫して日本の世論の動向に配慮した記事を書き続けたことが分かります。
大新聞の論調についても、基本的に同じことが言えるのであろう、と考えます。
もっとも、大新聞が、世論の動向に配慮するのは当たり前ないしやむを得ないとしても、(例えばナチスドイツに係る、)事実や、未来予測をそのために捻じ曲げたらいけないわけですが、残念ながら、日本のマスコミには、当時も現在も、ややもすればその傾向がうかがえるようです。
さて、民間有志による「日独防共協定強化を求める宣言」が端的に示しているように、当時の日本の世論は、対外政策において赤露抑止を最重視し、かつまた、中国国民党政権が赤露の手先であることを明確に自覚し、だからこそ、日支戦争に強く賛同していたことが分かります。
このような国民世論を踏まえ、当時の日本政府は、当面の敵である中国国民党政権を打ち破るために、日独防共協定を締結してナチスドイツに中国国民党政権加担を止めさせ、次いで日ソ中立条約を締結して赤露に中国国民党政権加担を止めさせる、というモグラ叩きのような懸命の努力を続けたわけです。
残されたのは、米英による中国国民党政権への加担をどう止めさせるか、という問題でしたが、結局、日本政府はそれに失敗し、太平洋戦争へと突入して行くことになります。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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