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太田述正コラム#4994(2011.9.15)
<戦間期日本人の対独意識(その4)>(2011.12.6公開)
「新聞紙上でドイツのイメージが徐々に良好になってくるに従い、日独提携論も主張されるようになる。その嚆矢といえるのが、朝日新聞ベルリン特派員・黒田礼二<(筆名)>・・・だった。・・・
黒田は東京帝国大学を卒業後、南満州鉄道株式会社に入社した。東大に学生思想団体として新人会が結成されると、・・・これに参加する。・・・その筆名はクロポトキンとレーニンから採ったといわれる・・・1923年に大阪朝日新聞社に入社し、モスクワ特派員、次いでベルリン特派員を1932年まで務める。・・・<1934年に>再び特派員の座を得て、ベルリンへ向かった・・・。・・・<黒田は一回目の特派員の時も二回目の時も、異例にも>ヒトラーとの単独会見に成功<しているが、それは>・・・その親独的傾向がナチス側に評価されたからではないだろうか。・・・
黒田はナチスの政権基盤の安定さや、ドイツ人の親日傾向を過度に強調する特電を日本に送り、ナチス・イメージの良好化に一役買うことになる。・・・<彼は、>ナチス政権の脆弱性を指摘した前述の同紙社説とは正反対の見解を披瀝し・・・た。
その後、黒田のナチス賛美は更にエスカレートし、5月の解説記事「欧州はどう動く」においては以下のようにドイツを絶賛する。「最近のヒトラー外交は満点に近い」。「今日のドイツ人は実をいふとフランスなどもう物の数とも思ってやしないのだ」。「ドイツは怖しく豪い国になつた」。更に黒田は、ドイツ人ほど親日的な国民はいないと述べ、日本は「欧州平和工作の中枢をなす強国ドイツと何らかの形で『提携』の一歩を進める必要はないか?」と日独提携を提案するのであった。
<ただし、>以上のような黒田の親独姿勢が、この時期の『東朝』紙面全体の傾向を代表するとは言い難い。・・・
ところで黒田の議論は、新聞批評紙『現代新聞批判』から強い批判を受けていた。同紙は、・・・『東朝』と『大朝』<(=大阪朝日新聞)>では、<もともとは>社説は基本的に別々であったが、二・二六事件後の1936年5月に社説を共通化し<ていたところ、>・・・「出鱈目と提灯で固めた/大朝の『第三帝国の初印象』/ナチスに買はれた黒田礼二」、「ナチスの犬をつとめる/非国民的通信を暴く/日本を侮辱する黒田礼二」、「厚顔無恥の底抜け男/又も黒田礼二の愚電/愈よヒツトラアの犬と化す/大朝幹部はなぜ看過するか」、「愚劣な黒田礼二の/ヒトラア会見記/的外れの質問に無智を暴露」といった長文の匿名批判記事をたびたび掲げ、黒田の特電を強い調子で攻撃していた。これらの記事には下品な人格攻撃などもあるが、黒田のドイツ経済に対する過大評価<(注8)>や有色人種排斥問題の矮小化などを鋭く指摘している。・・・
(注8)ナチスが第一党となった1932年の総選挙の時点で、世界大恐慌の影響もあり、ドイツの失業率は約30%に達していた。ナチス政権下で、1933年から中央銀行総裁、翌年からは経済相を兼務したヒャルマール・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht。1877〜1970年)によって赤字財政による公共投資(後には軍需中心となる)というケインズ的政策がとられ、ドイツは急速に完全雇用を達成する。しかし、1933年から1938年の間に、実質賃金は約4分の3に落ちている。
なお、1936年9月に、経済の責任者がシャハトから、アウタルキー(自給自足)経済を追求するゲーリング(Hermann Wilhelm Goering。1893〜1946年)(コラム#2792、3497、3605、3507、4420、4422、4872)に代わり、爾後、ドイツ経済は軟調で推移し、第二次世界大戦中のドイツの足を引っ張った。
http://econ161.berkeley.edu/TCEH/Slouch_Purge15.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
日独防共協定の交渉<の>・・・情報は外国メディアに察知され、日本のメディアにも紹介されていた。・・・
こうした状況に素早く反応したのが『東日』であった。<1936年>9月26日付朝刊に、社説「日独の提携/その伝統と将来への期待」を掲げ、明治以来の日独交流の歴史から説き起こして日独提携賛同論を展開したのである。ここでは、政治的提携については「今日直ちに断ずる問題ではない」としてはいるものの、「国民的に文化的に」日独が提携することに期待を寄せている。「いまではドイツ魂の真の姿を見直したやうな心持ちでドイツを見るに至つた」と告白するその態度には、前述した1933年の社説「極端な独裁専制政治」にみられたような、ナチス全体主義の問題点、危険性への警戒は見当たらない。」(16〜19頁)
→一番最初にナチス・イデオロギーに迎合した記事を載せた日本のマスコミが朝日で、一番最初にナチス・イデオロギーに社として迎合したのは毎日の前身であったこと(、そして読売は一番最後までこの動きに批判的であったこと(後出))を我々は忘れないようにしましょう。(太田)
「さて、日独防共協定<(注9)(コラム#254、877、3958、4006、4374、4546、4730)>は、1936年11月26日にベルリンで締結された。公表された協定の内容は、日独両国がコミンテルンの破壊工作に対して協力することを約束したものにすぎなかった。しかし、ソ連を仮想敵国とする秘密協定が付属しており、実際は軍事同盟に近い側面があった。・・・
(注9)Anti-Comintern Pact。この協定締結を推進したドイツ側のリッベントロップ等の当初の狙いは、中国国民党政府をこの協定に加わらせることによって、どちらもドイツと親しいというのに、互いに反目関係にあったところの、この政府と日本とを結び付けることだった。ところが、国民党政府は関心を示さなかった。
他方、日本側でこの協定締結を推進した帝国陸軍の狙いは、日ソ戦が勃発した際にドイツに中立を守らせることであり、これは秘密付属協定「第一条 締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。」により実現した。
ドイツは、日本とこの協定を締結してから、英国やポーランド等に加入するように促したが、両国ともこれを拒否した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Comintern_Pact
既に日独提携に賛意を表明していた『東日』は、防共協定についても当然賛同した。ただし、社説では目的が「防共」のみであることを強調するなど、慎重な言い回しである。協定が他国に与える悪影響については「この趣旨に共鳴せぬものはないと思ふ」と楽観的であった。・・・
『東朝』も、『東日』と同じく防共協定に賛同した。協定成立直後の社説では、ソ連政府に対する政治工作であるという点に積極的意義を見出し歓迎している。もっとも翌日の社説では、コミンテルンが目的でありソ連やその他の国を目的とするものではない、とトーンダウンした。日本がファッショブロックに加わったかのような「無用の疑惑を残した」外交当局を批判したり、日独の「指導原則の共鳴もしくは妥協」はあり得ないと念を押してはいるが、協定そのものは一貫して評価している。また、この問題で外交当局を攻撃しようとする立憲民政党の姿勢には批判的であり、政府を擁護するかの如くであった。・・・
つまり、『東朝』『東日』両紙は、部分的な批判はしたものの基本的に協定を支持したといえる。これに対し、協定反対の立場を明瞭に打ち出したのが『読売』である。協定成立直後の社説では、今日の国際情勢上、わが国の外交措置として賢明であったのかどうか疑問がないでもないとして、次のような問題点を挙げた。第一に、中国とならともかく、なぜ防共のためにドイツと組まなければいけないのか。第二に、ファッショ国と結んだことはわが国の外交政策を誤解せしめる。第三は国内にナチス的政治を招来する危険性がある、ということであった。さらに、夕刊の短評欄は「前門の狼を防いで、後門の虎を迎ふ、愚策も甚だしい」、「議会制度を擁護するものが、ファッショと道連れになつては筋が立つまい」等と辛辣であった。そして、協定不参加を表明した中国の態度を「国家は老衰しても、政治家は老衰してゐない」と褒めてみせ、日本政府に当てつけている。」(20〜21頁)
→注9から分かるように、帝国陸軍は、あくまでも、ナチス・イデオロギーへの共感からではなく、赤露抑止という軍事的観点から防共協定締結を推進した、ということです。
(もっとも、本件に深くかかわった大島浩(コラム#4372、4546、4550、4616)駐独武官(当時)はナチス・イデオロギーに心酔していたところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9 )
なお、中国国民党政権が防共協定に入らなかった事情についての情報をお持ちの方はご教示いただきたいが、同政権が、反日を反赤露よりも優先したということは、中国国民党が依然として容共政党であったことの例証のように私には思えます。
いずれにせよ、同政権やポーランドがこの協定に入らなかったことは、両者の大失敗であったことは、その後の両者の辿った過酷な運命に照らして明らかでしょう。
それにしても、日本の二大政党中の一方や読売という大新聞がこの協定締結に反対を表明し、また、この読売が、日本が議会制の国であるとの前提の下、ドイツ等のファシズムを批判していることは、改めて1936年当時も日本が自由民主主義国であったことを紛れもない形で示しています。(太田)
(続く)
<戦間期日本人の対独意識(その4)>(2011.12.6公開)
「新聞紙上でドイツのイメージが徐々に良好になってくるに従い、日独提携論も主張されるようになる。その嚆矢といえるのが、朝日新聞ベルリン特派員・黒田礼二<(筆名)>・・・だった。・・・
黒田は東京帝国大学を卒業後、南満州鉄道株式会社に入社した。東大に学生思想団体として新人会が結成されると、・・・これに参加する。・・・その筆名はクロポトキンとレーニンから採ったといわれる・・・1923年に大阪朝日新聞社に入社し、モスクワ特派員、次いでベルリン特派員を1932年まで務める。・・・<1934年に>再び特派員の座を得て、ベルリンへ向かった・・・。・・・<黒田は一回目の特派員の時も二回目の時も、異例にも>ヒトラーとの単独会見に成功<しているが、それは>・・・その親独的傾向がナチス側に評価されたからではないだろうか。・・・
黒田はナチスの政権基盤の安定さや、ドイツ人の親日傾向を過度に強調する特電を日本に送り、ナチス・イメージの良好化に一役買うことになる。・・・<彼は、>ナチス政権の脆弱性を指摘した前述の同紙社説とは正反対の見解を披瀝し・・・た。
その後、黒田のナチス賛美は更にエスカレートし、5月の解説記事「欧州はどう動く」においては以下のようにドイツを絶賛する。「最近のヒトラー外交は満点に近い」。「今日のドイツ人は実をいふとフランスなどもう物の数とも思ってやしないのだ」。「ドイツは怖しく豪い国になつた」。更に黒田は、ドイツ人ほど親日的な国民はいないと述べ、日本は「欧州平和工作の中枢をなす強国ドイツと何らかの形で『提携』の一歩を進める必要はないか?」と日独提携を提案するのであった。
<ただし、>以上のような黒田の親独姿勢が、この時期の『東朝』紙面全体の傾向を代表するとは言い難い。・・・
ところで黒田の議論は、新聞批評紙『現代新聞批判』から強い批判を受けていた。同紙は、・・・『東朝』と『大朝』<(=大阪朝日新聞)>では、<もともとは>社説は基本的に別々であったが、二・二六事件後の1936年5月に社説を共通化し<ていたところ、>・・・「出鱈目と提灯で固めた/大朝の『第三帝国の初印象』/ナチスに買はれた黒田礼二」、「ナチスの犬をつとめる/非国民的通信を暴く/日本を侮辱する黒田礼二」、「厚顔無恥の底抜け男/又も黒田礼二の愚電/愈よヒツトラアの犬と化す/大朝幹部はなぜ看過するか」、「愚劣な黒田礼二の/ヒトラア会見記/的外れの質問に無智を暴露」といった長文の匿名批判記事をたびたび掲げ、黒田の特電を強い調子で攻撃していた。これらの記事には下品な人格攻撃などもあるが、黒田のドイツ経済に対する過大評価<(注8)>や有色人種排斥問題の矮小化などを鋭く指摘している。・・・
(注8)ナチスが第一党となった1932年の総選挙の時点で、世界大恐慌の影響もあり、ドイツの失業率は約30%に達していた。ナチス政権下で、1933年から中央銀行総裁、翌年からは経済相を兼務したヒャルマール・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht。1877〜1970年)によって赤字財政による公共投資(後には軍需中心となる)というケインズ的政策がとられ、ドイツは急速に完全雇用を達成する。しかし、1933年から1938年の間に、実質賃金は約4分の3に落ちている。
なお、1936年9月に、経済の責任者がシャハトから、アウタルキー(自給自足)経済を追求するゲーリング(Hermann Wilhelm Goering。1893〜1946年)(コラム#2792、3497、3605、3507、4420、4422、4872)に代わり、爾後、ドイツ経済は軟調で推移し、第二次世界大戦中のドイツの足を引っ張った。
http://econ161.berkeley.edu/TCEH/Slouch_Purge15.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
日独防共協定の交渉<の>・・・情報は外国メディアに察知され、日本のメディアにも紹介されていた。・・・
こうした状況に素早く反応したのが『東日』であった。<1936年>9月26日付朝刊に、社説「日独の提携/その伝統と将来への期待」を掲げ、明治以来の日独交流の歴史から説き起こして日独提携賛同論を展開したのである。ここでは、政治的提携については「今日直ちに断ずる問題ではない」としてはいるものの、「国民的に文化的に」日独が提携することに期待を寄せている。「いまではドイツ魂の真の姿を見直したやうな心持ちでドイツを見るに至つた」と告白するその態度には、前述した1933年の社説「極端な独裁専制政治」にみられたような、ナチス全体主義の問題点、危険性への警戒は見当たらない。」(16〜19頁)
→一番最初にナチス・イデオロギーに迎合した記事を載せた日本のマスコミが朝日で、一番最初にナチス・イデオロギーに社として迎合したのは毎日の前身であったこと(、そして読売は一番最後までこの動きに批判的であったこと(後出))を我々は忘れないようにしましょう。(太田)
「さて、日独防共協定<(注9)(コラム#254、877、3958、4006、4374、4546、4730)>は、1936年11月26日にベルリンで締結された。公表された協定の内容は、日独両国がコミンテルンの破壊工作に対して協力することを約束したものにすぎなかった。しかし、ソ連を仮想敵国とする秘密協定が付属しており、実際は軍事同盟に近い側面があった。・・・
(注9)Anti-Comintern Pact。この協定締結を推進したドイツ側のリッベントロップ等の当初の狙いは、中国国民党政府をこの協定に加わらせることによって、どちらもドイツと親しいというのに、互いに反目関係にあったところの、この政府と日本とを結び付けることだった。ところが、国民党政府は関心を示さなかった。
他方、日本側でこの協定締結を推進した帝国陸軍の狙いは、日ソ戦が勃発した際にドイツに中立を守らせることであり、これは秘密付属協定「第一条 締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。」により実現した。
ドイツは、日本とこの協定を締結してから、英国やポーランド等に加入するように促したが、両国ともこれを拒否した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Comintern_Pact
既に日独提携に賛意を表明していた『東日』は、防共協定についても当然賛同した。ただし、社説では目的が「防共」のみであることを強調するなど、慎重な言い回しである。協定が他国に与える悪影響については「この趣旨に共鳴せぬものはないと思ふ」と楽観的であった。・・・
『東朝』も、『東日』と同じく防共協定に賛同した。協定成立直後の社説では、ソ連政府に対する政治工作であるという点に積極的意義を見出し歓迎している。もっとも翌日の社説では、コミンテルンが目的でありソ連やその他の国を目的とするものではない、とトーンダウンした。日本がファッショブロックに加わったかのような「無用の疑惑を残した」外交当局を批判したり、日独の「指導原則の共鳴もしくは妥協」はあり得ないと念を押してはいるが、協定そのものは一貫して評価している。また、この問題で外交当局を攻撃しようとする立憲民政党の姿勢には批判的であり、政府を擁護するかの如くであった。・・・
つまり、『東朝』『東日』両紙は、部分的な批判はしたものの基本的に協定を支持したといえる。これに対し、協定反対の立場を明瞭に打ち出したのが『読売』である。協定成立直後の社説では、今日の国際情勢上、わが国の外交措置として賢明であったのかどうか疑問がないでもないとして、次のような問題点を挙げた。第一に、中国とならともかく、なぜ防共のためにドイツと組まなければいけないのか。第二に、ファッショ国と結んだことはわが国の外交政策を誤解せしめる。第三は国内にナチス的政治を招来する危険性がある、ということであった。さらに、夕刊の短評欄は「前門の狼を防いで、後門の虎を迎ふ、愚策も甚だしい」、「議会制度を擁護するものが、ファッショと道連れになつては筋が立つまい」等と辛辣であった。そして、協定不参加を表明した中国の態度を「国家は老衰しても、政治家は老衰してゐない」と褒めてみせ、日本政府に当てつけている。」(20〜21頁)
→注9から分かるように、帝国陸軍は、あくまでも、ナチス・イデオロギーへの共感からではなく、赤露抑止という軍事的観点から防共協定締結を推進した、ということです。
(もっとも、本件に深くかかわった大島浩(コラム#4372、4546、4550、4616)駐独武官(当時)はナチス・イデオロギーに心酔していたところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9 )
なお、中国国民党政権が防共協定に入らなかった事情についての情報をお持ちの方はご教示いただきたいが、同政権が、反日を反赤露よりも優先したということは、中国国民党が依然として容共政党であったことの例証のように私には思えます。
いずれにせよ、同政権やポーランドがこの協定に入らなかったことは、両者の大失敗であったことは、その後の両者の辿った過酷な運命に照らして明らかでしょう。
それにしても、日本の二大政党中の一方や読売という大新聞がこの協定締結に反対を表明し、また、この読売が、日本が議会制の国であるとの前提の下、ドイツ等のファシズムを批判していることは、改めて1936年当時も日本が自由民主主義国であったことを紛れもない形で示しています。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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