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太田述正コラム#4990(2011.9.13)
<戦間期日本人の対独意識(その2)>(2011.12.4公開)

 「1934年6月末に起きたレーム<一揆>事件は、・・・エルンスト・レーム(Ernst Rohm)<(注6)(コラム#4288、4420)>ら突撃隊(Sturmabteilung)<(コラム#571、2033、2301、4288、4420、4874)>幹部や、シュライヒャー前首相(Kurt von Scdhleicher)などの<ヒトラーの>政敵が大量に逮捕され、射殺された事件である。・・・この・・・事件は・・・わが国でもセンセーショナルに報道された。『東朝』は社説に取り上げ、この事件の根本原因は「ナチスの内外諸政策が内容空疎なる宣伝に終始するに非ずやと懐疑しはじめたるドイツ国民の不安」にあるとして、ナチスの前途は「益々多難」であろうと予測した。

 (注6)Ernst Julius Rohm。1887〜1934年。軍人、突撃隊司令官。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_R%C3%B6hm

 同年8月、ヒンデンブルク大統領が死去する。その後人民投票が行われ、ヒトラーは約9割の信任票を得て単独の国家指導者「総統兼首相」(Fuhrer und Reichskanzler)に就任することとなった。しかし、日本の新聞はこれを「お手盛り選挙」とみて冷笑的であった。そのうえで『東日』社説は、独裁国家ドイツにおいて有権者の1割が公然と反対票を投じたという事実を重視し、ドイツ国民のヒトラー政権への不信感が高まりつつあると分析している。そして、ドイツの経済情勢は急速に悪化しているとし、「ナチスは千年続く」とヒトラーは豪語しているというが、冷静な第三者から見れば「ナチスは下り坂にさしかかった」かの疑念を抱かせる、と結論づけている。・・・
 <また、>1933年7月25日の『東日』社説「極端な独裁専制政治/ドイツの昨今」・・・は、ナチス独裁の徹底振りを「おそらく世界開闢以来いまだかつてないこと」とし、ユダヤ人排斥を「暴政といふよりは人道上の一大罪科」であると断じている。・・・
 周知の通り、満州事変以後の新聞は軍国主義的色彩を強めていたが、大正以来のリベラリズムを完全に失ってはいなかったといえよう。」(9〜11頁)

→日本の主要紙は、ナチスを忌み嫌っていたけれど、これら主要紙によるその後のナチスについての否定的な情勢予測はことごとくはずれたわけです。価値観が事実評価を誤らせるという良い例でしょう。
 それにしても、岩村が、「満州事変以後の新聞は軍国主義的色彩を強めていた」と唐突に記しつつ、その根拠に全く言及していないのは困ったものです。自分自身が「「論理的に相手を説得する能力」を身につけ」(前出)ているとは言い難い?(太田)

 「ただし、新聞がドイツに批判的だったのはその国内政策に関してである。ドイツの外交政策については、むしろ同情的であった。・・・
 国際連盟の軍縮会議で軍備均等要求を拒否されたことを理由に、1933年10月、ドイツも連盟脱退を表明した。これを日本の脱退と同じケースであると見る各紙は、ドイツに同情し連盟に対して批判的に論じた。たとえば『東朝』社説は、日本の脱退もドイツの脱退も「ほとんどその軌を一にする」ものであるとし、「連盟事務局あたりの空疎なるしゃくし定規の平和主義」が日独両国の脱退をもたらしたとして批判している。当時『東日』夕刊に連載されていた徳富蘇峰<(注7)(コラム#1717、4541)>(東京日日新聞社社賓)のコラムには、「痛快と云へば痛快」「三斗の溜飲の下れるを覚ゆる」等の快哉が叫ばれている。・・・

 (注7)1863〜1957年。ジャーナリスト、思想家、歴史家。評論家、政治家。「父<は>・・・横井小楠に師事し、その妻同士は姉妹関係にあっ<た。>・・・文豪徳富蘆花の兄。・・・大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義<(=自由民主主義(太田))>」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえた。・・・満州事変以降、蘇峰はその国家主義ないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0

 また、同じく日本国内で注目を集めたのが、1935年1月のザール人民投票であった。国際連盟の治下にあるザール地方が、独仏どちらに帰属するか決定する住民投票である。・・・結果はドイツ復帰派の圧倒的勝利となったが、各紙はこれをドイツ系住民による「愛国心の勝利」であると見なして好意的であった。・・・
 1935年3月にヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項を廃棄し再軍備することを宣言した・・・が、日本の新聞はドイツに一定の理解を示している。『東朝』は、ドイツの行動は「徒に国際的感情を刺激するものであつて、吾人の遺憾とするところ」としながらも、「ドイツのみがいつまでも、この制限を甘受せねばならぬ理由はないといふドイツの主張は、必ずしも自己擁護の強弁として一笑に付することは出来ない」と同情的である。さらに翌1936年3月にドイツは、ロカルノ条約を破棄してラインラント非武装地帯に進駐した。これについて新聞各紙は、ドイツの条約破棄を批判することはなかった。
 1936年春から『東日』ベルリン特派員となった加藤三之雄は、後年のインタビューで次のように話している。当時はアングロサクソンが世界を壟断しているという考え方が日本全体にあった。自分は決して親ナチスではなかったが、世界秩序に対する「造反国仲間」として親近感に近い感情をドイツに対して持っていた、と。・・・
 さらに、国際連盟脱退後のドイツが満州国に接近する気配を見せたことも、ドイツ人気を高める一つの要因となったであろう。たとえば、1936年4月に満独通商協定が調印されたが、新聞各紙はこれを歓迎し、「日満独」の友好促進を主張している。」(11〜14頁)
→日本の当時の主要紙は、ドイツと赤露の間の秘密軍事協力については知る由がなかったでしょうが、ドイツ・・少なくともドイツ人・・の蒋介石政権への軍事支援(後述)については知っていたはずであり、そんなドイツの対外政策をかくも無防備に評価していたことには首をひねらざるをえません。また、条約破棄を咎めないのでは、蒋介石政権による不平等条約の破棄を咎めることができないはずであり、困ったものです。
 ちなみに、ナチスによるドイツ再軍備は、以下に説明するように、ドイツ軍部の再軍備に向けての執念とも言うべき努力が花開いたものであり、それにも赤露(ソ連)がからんでいたのです。

 第一次世界大戦中、オーストリア軍やオスマントルコ軍に出向して活躍した、ドイツのハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt。1866〜1936年)少将は、敗戦後、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツは軍備を10万人に制限され、参謀本部も禁止されたところ、同年に兵務局局長(Truppenamt=Troop office。参謀本部の偽装名称)に就任します。
 彼は、軍の再建とポーランドからの領土の奪還を期し、同年10月にソ連に密使を送り、ソ連との軍事協力を模索します。
 ゼークトは、1920年に陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任します。
 同年夏に、ゼークトとソ連の軍事人民委員(War Commisar)のレオン・トロツキー(Leon Trotsky)(コラム#1779、1881、1990、3377、3379、3380、3381、3425、3457、3461、3682、3684、4330、4934、4936、4940、4950)との間で話がまとまり、(有力説ではラパッロ条約(Vertrag von Rapallo)(コラム#4498、4940)の秘密の付属協定として、)ヴェルサイユ条約が禁ずる戦車・化学兵器・航空機などの兵器をソ連の奥地で研究開発及び生産させてもらう見返りにソ連を軍事技術と将校教育面で支援する約束を交わすのです。
 (ゼークトは、1920年に中将、更には大将に昇任し、1926年には上級大将(Generaloberst)に昇任しますが、同年に退役します。
 1930年の大統領選挙ではヒトラー・・落選・・を支持したゼークトは、1933年から1935年まで支那で蒋介石の軍事顧問を勤めます。
 ちなみに、上海周辺に構築された防御陣地は「ゼークトライン」と称されるのですが、この陣地は1937年の第二次上海事変の際に、日本軍により容易に攻略されてしまいます。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans_von_Seeckt
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet%E2%80%93German_relations_before_1941
http://en.wikipedia.org/wiki/German_re-armament (太田)

(続く)

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