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太田述正コラム#4988(2011.9.12)
<戦間期日本人の対独意識(その1)>(2011.12.3公開)

1 始めに

 今度は、XXXXさん提供の、岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』(慶應義塾大学出版会 2005年)の抜粋に基づき、表記のご紹介を行い、私のコメントを付したいと思います。
 ちなみに、岩村は、「慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。日本政治史専攻」という経歴であり、(2005〜2009年当時だが)高崎経済大学非常勤講師であり、担当講義の「「論文の読み方・書き方」では、「論文・レポート」の書き方を学ぶことにより、「論理的に相手を説得する能力」を身につけることを目標としています。」と記しています。
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/476641165X/
http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/izanai2009.html
http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/izanai2009/iwamura.pdf

2 戦間期日本人の対独意識

 「アドルフ・ヒトラーが政権を獲得したのは、1933年1月30日であった。ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)<(注1)>大統領は、前年の総選挙で第一党となったナチスの勢いを無視することができず、不本意ながらもヒトラーを首相に任命したのである。ナチスからの入閣はヒトラーを含めて3名のみでしかなく、元首相のパーペン(Franz von Papen)<(注2)(コラム#4846)>や国家人民党党首フーゲンベルク(Alfred Hugenberg)<(注3)>らも入閣した右翼連合内閣であった。

 (注1)Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg。1847〜1934年。第一次世界大戦中の独参謀総長。1925〜34年:独大統領。1932年の大統領選でヒットラーを破って再選。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_von_Hindenburg
 (注2)Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen zu Koningen。1879〜1969年。第一次世界大戦中、米国の対独開戦まで、駐米武官として対米加諜報活動に従事。カトリック中央党員。1932年:独首相。ヒンデンブルグにヒットラーを首相にするよう説得し、1933年1月30日、自らは独副首相に就任。ナチスがドイツ国内で同時多発テロを敢行したところのレーム一揆(Rohm-Putsch)<(コラム#4288)>の後、1934年8月7日に辞任。
http://en.wikipedia.org/wiki/Franz_von_Papen
http://en.wikipedia.org/wiki/Night_of_the_Long_Knives
 (注3)Alfred Wilhelm Franz Maria Hugenberg。1865〜1951年。ゲッティンゲン、ハイデルベルグ、ベルリン各大学で法律、シュトラスブルグ大で経済学を学ぶ。実業家にして政治家。ナチスそっくりの(ヴェルサイユ体制に反対し反ユダヤ主義の)ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei=DNVP=German National People's Party)党首としてヒットラーを利用してやろうと考えてその首相就任に尽力し、自らは経済相兼農業相に就任したが、半年もしないうちに辞任させられている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Hugenberg
http://en.wikipedia.org/wiki/German_National_People%27s_Party

 ・・・日本の新聞各紙も大きく報じ<た>・・・。たとえば『東日』<(東京日日新聞)>の社説は、以下の通り論じている。ヒトラーは一言で言えば力の信者である。その主張は対外強硬論で一貫しており、対内的には自由政治に対して極端に反対している。彼を危険視するヒンデンブルク大統領は、宰相職を託すことを拒否していた。今回一転してヒトラーを首相に任命したのは、大統領が心変わりしたのではなく、ヒトラーが心変わりしたと見るべきだ。副総理として入閣したパーペンの説得を受け入れ軟化したのであろう。・・・
 『読売』の社説も、パーペンや外相ノイラート(Konstantin Freiherr von Neurath)<(注4)>がいる以上、外交問題について急旋回はないだろうと予測している。・・・
 以上のような、連立内閣である以上ヒトラーも現実的にならざるを得ないとする見解は、結果からみれば誤りであった。・・・

 (注4)1873〜1956年。ドイツ帝国のヴュルテンベルグ王国の名家に生まれ、テュービンゲン、ベルリン各大学で法律を学ぶ。外交官(ただし、第一次世界大戦に軍に「出向」して将校として負傷したことあり)。1932〜38年:パーペン、クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt von Schleicher)、ヒットラーの各首相の下で外相を務める。その後も無任所相としてヒットラー「内閣」の下にとどめおかれた後、ドイツ占領下のボヘミア・モラヴィアの総督(Protector)を務めさせられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Konstantin_von_Neurath

 他方、『東朝』<(東京朝日新聞)>の社説は結論を異にしていた。同紙も、ドイツ政治はヒトラーが平素呼号していたほど急進的にはならないだろうと述べてはいる。しかし、ナチスはヴェルサイユ条約廃棄という主張を撤回することはないだろうから、「欧州外交にとりては紛争の機会を増加」する可能性が高く、また内閣不一致から短命に終わる可能性も高いと論じている。外交で問題が起きると予測した『東朝』の見解は的確であった。ただし、短命に終わるという予測は、これもヒトラーへの過小評価であり、不的確であった。
 さて、その後ヒトラーは国会放火事件を契機に、3月に全権委任法(Ermachtigungsgesetz)を成立させてヴァイマール憲法を破壊し、他党を弾圧して権力基盤を固めていく。「国民革命」と称し、ドイツ国内全体をナチズムに沿うよう「強制的同質化」(Gleichschaltung)する政策を推し進めていったのである。
 この動きに関する日本の新聞報道は、基本的に批判的トーンで貫かれていた。・・・
 新聞がとりわけ批判の目を向けたのが、文化弾圧政策である。ナチスはユダヤ人や自由主義者、マルクス主義者による文学作品の絶滅を図った。トーマス・マン(Thomas Mann)らをアカデミーから追放し、5月10日にはベルリンで「非ドイツ的」書物2万冊を焚書処分にするデモンストレーションを行った。・・・<これに対し、>日本の新聞はナチスの文化弾圧に批判的報道を行い、それに抗議する知識人達を好意的に報道したのである。
 また、ナチスによって迫害されるユダヤ人については、同情的な報道がなされている。・・・
 やがて、ユダヤ人だけでなく日本人も「有色人種」として差別されていることが判明する。ベルリンに日本人特派員を置いている『東朝』『東日』の両紙は、この事実を積極的に報道した。具体的には、1933年4月公布の官吏法でアーリア人種以外は官吏たり得ないと定められた(Arierparagraph)ため、日本人を母に持つ学者オットー・ウルハン<(注5)>が研究員の職を奪われる事件があった。この事件を報じる・・・特派員の特電を、『東日』は「血迷うたナチス」と見出しを付けて大きく掲載した。日本企業がウルハンを招聘する意向を表明すると、「情なき父の国ドイツ/温い母の国日本」と、日独の違いを強調する見出しをつけて報じた。

 (注5)「かつてドイツのグライフスワルド大で生物学教授をし、ベルリン国立農林生物学研究所の研究員をしていたオットー・ウルハン(33)は、ユダヤ人であるためにナチスドイツによって1934年・・・5月、公職を追放となった。妻のマーガレット(30)と一緒にオットーは・・・6月25日に神戸に入港し、6月26日にお茶の水文化アパートに入った。オットーの母は日本人の山田よし子といい、29年前に父のフランツ・ウルハンと結婚していた。オットーは日本生まれで4歳でドイツに渡っていた。オットーは9月より東京文理科大講師となり、じゃがいもの病理学を研究した。 」
http://www.geocities.jp/showahistory/history01/topics09b.html
 これは、「誰か昭和を想わざる 〜昭和史と流行歌のサイト〜」という興味深いサイト
http://www.geocities.jp/showahistory/
の一環だが、残念ながら、全体に、一切典拠が付されていない。

 『東朝』のベルリン特電は、在独日本人が理由なく警察の取り調べを受けるケースが頻発し、日本人会が被害を調査し当局に抗議するべく準備中であると伝えた。さらに、準備中の刑法改正案では有色人種との結婚に対する処罰規定があることや、在独日本少女がドイツ少年に人種差別的言辞を投げかけられ顔面を殴打される事件があったことなどを、「図に乗るナチス」との見出しで報じた。
 『読売』夕刊の漫画ページには、・・・「ナチス恥を知れ!」と題して・・・ヒトラーに操られたドイツ少年が日本少女や黒人を虐めている姿が描かれ<た>・・・漫画が掲載されている。・・・
 この問題は永井松三駐独大使の強い抗議に対して、ノイラート外相が有色人中に日本人は含まないと釈明することによって一応の解決をみた。」(5〜頁)

→当時、世論調査はなかったので、主要紙の論調こそ、世論のバロメーターであったと言ってよいでしょう。
 ナチスは、当初、日本の世論に忌み嫌われていたことがよく分かります。
 これは、当時の日本人が反ファシズム、反人種主義的であったからであり、日本が、米国などよりはるかに健全な自由民主主義(的)国であった証左です。(太田)

(続く)

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