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太田述正コラム#4964(2011.8.31)
<戦間期日英関係の軌跡(その7)>(2011.11.21公開)

 「<他方、>日本の対中輸出は1925年を通して増大し、ボイコットのなかった1922年の実績を上回ることとなった。中国の貿易に占める日本のシェアは初めて3割に達した。中国の貿易に占める日本のシェアは初めて3割に達した。・・・海運業でのストと上海の日本資本工場の閉鎖による影響はあるが、日本製品の販売自体はボイコットによって減少するどころか増大し・・・<た。>その理由は、上海の紡績工場の操業中止によって日本で生産された糸への需要が強まっていることなどであ・・・<った。>・・・

→英国の国力の相対的低下傾向、日本の国力の相対的上昇傾向から早晩そうなることは避けられなかったわけですが、それが、英国を狙い撃ちしたボイコットによって急激に招来されたことについて、日本は、赤露に対する猜疑心を一層掻き立てるとともに、英国に衷心から同情しなければならなかったのです。(太田)

 イギリスの当初の意図は、ワシントン会議での「合意」に基づいて関係するすべての列強と協力して問題を解決することであった。・・・ただし、イギリスは二つの問題に直面することとなった。第一に、イギリスだけがストやボイコットの標的となっていったことであり、第二に、イギリスの意見は他の列強と全く異なり、協調が困難だったことである。次第にイギリスは孤立感を深めていった。

→イギリスは、最初から日本を積極的に取り込む努力をすべきでした。(太田)

 ・・・イギリスと、イギリス人が過半数を占めていた<上海共同>租界参事会は、・・・<支那人に向けて>発砲<した>・・・警官<達は>単に自分たちと警察署を防衛するために行動しただけだとした。彼らには、発砲にかかわった者を処罰する意思はなかった。しかし、6月<に>・・・騒動を起こしたとして逮捕された中国人の裁判が上海の会審衙門で行われると、証言に立ったアメリカ人宣教師の中に<警官達>に不利な発言をする者がいた。群衆はそれほど不穏な状態にあったわけではなく、また警察は何の警告もなしに発砲したというのである。・・・調査・解決のために6日に任命され、北京から上海に派遣された外交団の代表たちは、この問題につき一致した見解を持つことができなかった。

→日本自身、その後、米国人宣教師の支那ナショナリズムに迎合した言動と、それに影響された米国政府の親蒋介石政権ぶりに振り回されることになるわけですが、米国人宣教師達の、赤露の陰謀などわれ関せずで、支那人キリスト教徒たる信徒・・その中に容共的人物や赤露の細胞が紛れ込んでいたはずです・・に吹き込まれたことを無条件で信じるナイーブさは犯罪的です。(太田)

 外交団の会合<では>・・・、1919年に作成されたイギリスの警察秘密訓令がもう一つの論争点となった。その訓令によれば警官は「必要があれば発砲をためらってはならない」とされた。同時に「暴動状態にある、あるいは手に負えない群衆を威嚇するための発砲」は禁止されていた。発砲の目的は「発砲された人間を殺す、あるいはその手足をきかなくすること」であるべきとされていた。この規則を知って外交団は衝撃を受け、それが中国人に対するイギリスの優越意識に基づくものと考えた。代表のほとんどは中国人に同情的に、逆にイギリス人には批判的となった。イギリス外務省極東部の・・・一等書記官すらこの批判は的を射ていると記している。しかし、外交団のイギリス委員<たる>・・・一等書記官はこうした批判こそが東洋を理解していない証拠だと主張した。<彼>は、東洋、ことに「エジプトとインドでの長い(植民地支配の--筆者注)歴史と経験」によって、イギリス人は東洋が西洋とは全く異なると気付いており、イギリス人による東洋人の取り扱いは適切だと主張した。この意見は列強代表にすら傲慢と映った。

→(後藤は、「イギリスの」警察秘密訓令としているところ、「工部局の」の誤りではないかという気がしますが、それはともかく、)外交団の日本委員、ひいては日本政府の見解が記されていませんが、当時の支那が、統一的中央政府が存在しないという混沌的状況下にあったことを顧慮すれば、(イギリス委員の東洋と西洋を対置させるレトリックには賛同いたしかねるけれど、)私には、この規則については、その内容といい秘密にしていたことといい、何ら問題があったとは思えないのであって、当時の日本政府が英国に批判的であったとは想像しづらいところ、少なくとも、米仏等の外交団委員達は、英国だけが標的になっていることに密かに快哉を叫び、あえてこの規則をあげつらったのではないか、と勘繰りたくなります。(太田)

 <また、>7月・・・<外交団はイギリス人の警察署長は更迭、警察規則は改正の上公表する、等を決定し、>・・・上海駐在の各国総領事にこの決定の実行を命じ、参事会が従わない場合にはそれを解散する権限を与えた。<英国の>上海総領事と参事会は・・・租界について取り決めた土地章程が改正されない限り外交団といえども参事会を解散することはできないと主張した。・・・<フランスの公使たる委員は、怒って外交団を辞した。>・・・

→外交団は「一致した見解を持つことができなかった」と記しておいて、結局「決定」を行ったというのですから、毎度のことながら、後藤の記述ぶりには悩まされます。(太田)

 チェンバレン<英外相>の命を受けたエリオット駐日大使<(注18)(コラム#4270、4386、4388、4508、4510、4534、4649、4945)>は、7月7日に幣原外相を訪ね、・・・日本がイギリスと協調して行動するよう要請した。・・・参事会が外交団の勧告を受け入れない<ことはやむをえないとし、その代わり>五・三0事件の司法調査を<しようというのである。>・・・

 (注18)Sir Charles Norton Edgecumbe Eliot。1862〜1931年。オックスフォード大学在籍中の秀才ぶりは伝説的。その後、16カ国語を自在にあやつり、その他20カ国語を話せるに至った。英国の外交官、植民地行政官にして軟体動物学者、海洋動物学者。香港大学の副学長を経て、シベリアの総領事として日本のシベリア出兵と関わり(コラム#4649)、駐日大使:1919〜26年。退官後、そのままなくなる1931年まで日本に仏教研究のためにとどまる。生涯独身。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Eliot_(diplomat)

 結局、<イギリス/租界参事会の姿勢にもフランスの姿勢にも批判的であった>日本は五・三0事件の司法調査に参加することに決した。
 イギリスはアメリカの支持を取り付けることにも成功した。・・・英米日の3判事がに任命され、10月3日に司法調査が開始された。その前日、<警察署長は>・・・免職処分となった。日米両国が司法調査に参加する前提条件として彼の辞任を要求していたからである。しかし、3判事の意見は最終的に一致を見ず、司法調査は何ら有効な結果を生み出さなかった。さらに、1926年に結果が発表されたときには、すでに誰も調査に注意を向けなくなっていた。」(62〜65頁)
 
→この時点で早くも、赤露が、英国、日米、フランス等その他、の少なくとも3グループに列強を分断することに成功した、ということが分かりますね。(太田)

(続く) 

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