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太田述正コラム#4922(2011.8.10)
<イギリスと騎士道(その7)>(2011.10.31公開)
では、最後にあげられていた、二人目のフランス人騎士のジョフロイ・ド・シャルニ(1300?〜56年)はどうでしょうか。
生まれたのは、現在のフランスのブルゴーニュ地方のシャルニです。
彼は、フランスのジャン2世(Jean II=イギリスではジョン2世(John II))が、イギリスのエドワード3世によって創設されたガーター騎士団の真似をして1351年に創設した星騎士団(Order of the Star)の創設時の団員の一人です。
彼は、フランス王旗たるオリフラム(Oriflamme)の旗手という至上の名誉と危険・・敵の攻撃の的となった・・の担い手であり、戦技だけでなく、敬虔さ等においても有名であったといいます。
彼のエピソードとして英国でよく知られているのは、英仏百年戦争における最も著名な戦いの一つである1356年のポワティエ(Poitiers)の戦い(注14)の直前、英仏両陣営の首脳達が戦いを回避するための話し合いを行った時、彼が、両陣営から騎士を100人ずつ出して戦うことで決着をつけ、それ以上の犠牲者が出るのを防ごうと提案したことです。
(注14)英仏百年戦争においてイギリス軍が大勝利をあげた3つの戦い・・クレシー(Crecy)(前出)、ポワティエ(Poitiers)、アジンコート(Agincourt)(前出)の1つ。イギリスのエドワード黒太子とフランスのジャン2世が戦い、後者が前者の捕虜になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Poitiers_(1356)
結局、この話し合いは決裂し、ポワティエの戦いで、シャルニは戦死するのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny
興味深いのは、彼に関するフランス語のウィキペディアは極めて簡単であって、ほとんど何も書いてないに等しいことです。
英語ウィキペディアの書き手の数とフランス語ウィキペディアの書き手の数が違うことから、前者の方が詳しくても不思議はない、と一般論としては言えますが、彼のような「有名人」たるフランス人に関するウィキペディアなのですから、これは異常なことです。
要は、彼については、戦功をあげたとか政治的手腕を発揮したと言えるほどの顕著な事績がないことをフランス人はよく自覚しているからこそ、多くを書く気にならない、ということではないでしょうか。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Geoffroy_de_Charny
それに、フランス語ウィキペディアが、そもそも、シャルニは、デュ・ゲクランより世代的に先輩なのに、シャルニを一番最後に持ってきている点も意味深です。
考えてみれば、旗手は、常に国王の直轄軍と行動を共にしなければならず、自分の才覚で部隊を指揮することができない、いわば飾り物のような存在です。
しかし、代表的騎士としてイギリス人を1人はあげざるをえない以上は、フランス人を何とか2人あげたい、ということで、イギリスで評判の良かったフランス人騎士であるシャルニ(後述)を無理やり列記した、と私は勘繰っているのです。
いずれにせよ、シャルニは、フランス国王の命で2度、スコットランドを訪れ、スコットランド貴族達と親交があったことから、この、イギリスと密接な関わりのある、しかもイギリスの接壌国の貴族達を通してイギリス騎士道について学んだことと思われますし、彼はまた、イギリス軍の捕虜に2回なっており、2度目の時には、イギリスにまで連れて行かれて拘置されていることから、イギリス人騎士から直々に騎士道を学んだと思われるのです。
ポワティエの戦い直前の上記の挿話を記録したのは、この話し合いに出席していた一人のイギリス人騎士であって、フランス側は記録した形跡がないことは、この時の、あたかもイギリス騎士道を体現したかのようなシャルニの発言をイギリス側は高く評価したけれど、フランス側は突飛な発言であるとして評価しなかったことを示唆していて、私の解釈を裏付けているように思うのですが、いかがでしょうか。
(以上、事実関係は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny 前掲
さて、騎士に関する英語ウィキペディア(c)には、代表的騎士があげられていないのですが、騎兵に関する英語ウィキペディア(b)の、欧州の中世後期の記述の所に、著名な騎士として、サラディン(Saladin)、ブイヨンのゴドフリー(Godfrey of Bouillon)、ウィリアム・マーシャル(前出)、そしてベルトラン・デュ・ゲクラン(前出)があげられています。
この4人中、後の2人は、騎士道に関するフランス語ウィキペディアに出てきた代表的騎士と重なっていますが、最初の2人は違います。
興味深いことには、最初のサラディンは、イスラム世界の「騎士」であって地理的意味での欧州の騎士ではないことです。
このサラディンは後回しにして、まず、2番目のブイヨンのゴドフリー(1060?〜1100年)を俎上に載せましょう。
彼は、フランス人騎士というより、フランク人騎士であり、第一次十字軍の指導者の1人を1096年からその死亡時まで務めました。
彼は、1076年からブイヨン(Bouillon)(注15)の領主(Lords of Bouillon)であり、1087年からは低ロレーヌ(Lower Lorraine)(注16)の公爵でした。
(注15)現在のルクセンブルグからフランスアルプスあたりにかけて散在していたところの、アルデンヌ・ブイヨン家(Ardennes-Bouillon dynasty)の所有地等の総称。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_Bouillon
(注16)フランク王国が三分割された時にできたロタールの国(Lotharingia)の領土の北半分の呼称。現在のオランダとベルギーの相当部分と、現在のドイツのラインラントの北部からなる。ブイヨンのゴドフリーの当時は神聖ローマ帝国領。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lower_Lorraine
1099年に十字軍がエルサレムを落とすと、ゴドフリーは、エルサレム王国の最初の統治者となります。
なお、国王と称するのを、彼は、エルサレムは神に属するとして固辞したといいます。
彼の両親はどちらも貴族であり、現在のフランス東北端のブーローニュ・シュール・メール(Boulogne-sur-Mer)(注17)か現在のベルギーのベイジ(Baisy)・・当時は神聖ローマ帝国領・・で生まれています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Godfrey_of_Bouillon
(注17)ドーバー海峡に面した町でカレーの近傍。
http://en.wikipedia.org/wiki/Boulogne-sur-Mer
英語ウィキペディアが、こんなゴドフリーを登場させたのは、イギリスで生まれた騎士道がキリスト教と関わりが深いことから、輝かしい第一次十字軍の象徴とも言うべきブイヨンのゴドフリーを、彼が生きていた当時には、まだ騎士道が明確に成立していなかったにもかかわらず、後付で遡って、彼を騎士道の元祖的に奉ろうとしたからである、と推察できるのであり、これは、私がたびたび指摘しているところの、イギリス人的韜晦・・自らへりくだることで目立たなくさせて出る杭が打たれないようにする・・の典型例の一つである、と私は思うのです。
(続く)
<イギリスと騎士道(その7)>(2011.10.31公開)
では、最後にあげられていた、二人目のフランス人騎士のジョフロイ・ド・シャルニ(1300?〜56年)はどうでしょうか。
生まれたのは、現在のフランスのブルゴーニュ地方のシャルニです。
彼は、フランスのジャン2世(Jean II=イギリスではジョン2世(John II))が、イギリスのエドワード3世によって創設されたガーター騎士団の真似をして1351年に創設した星騎士団(Order of the Star)の創設時の団員の一人です。
彼は、フランス王旗たるオリフラム(Oriflamme)の旗手という至上の名誉と危険・・敵の攻撃の的となった・・の担い手であり、戦技だけでなく、敬虔さ等においても有名であったといいます。
彼のエピソードとして英国でよく知られているのは、英仏百年戦争における最も著名な戦いの一つである1356年のポワティエ(Poitiers)の戦い(注14)の直前、英仏両陣営の首脳達が戦いを回避するための話し合いを行った時、彼が、両陣営から騎士を100人ずつ出して戦うことで決着をつけ、それ以上の犠牲者が出るのを防ごうと提案したことです。
(注14)英仏百年戦争においてイギリス軍が大勝利をあげた3つの戦い・・クレシー(Crecy)(前出)、ポワティエ(Poitiers)、アジンコート(Agincourt)(前出)の1つ。イギリスのエドワード黒太子とフランスのジャン2世が戦い、後者が前者の捕虜になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Poitiers_(1356)
結局、この話し合いは決裂し、ポワティエの戦いで、シャルニは戦死するのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny
興味深いのは、彼に関するフランス語のウィキペディアは極めて簡単であって、ほとんど何も書いてないに等しいことです。
英語ウィキペディアの書き手の数とフランス語ウィキペディアの書き手の数が違うことから、前者の方が詳しくても不思議はない、と一般論としては言えますが、彼のような「有名人」たるフランス人に関するウィキペディアなのですから、これは異常なことです。
要は、彼については、戦功をあげたとか政治的手腕を発揮したと言えるほどの顕著な事績がないことをフランス人はよく自覚しているからこそ、多くを書く気にならない、ということではないでしょうか。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Geoffroy_de_Charny
それに、フランス語ウィキペディアが、そもそも、シャルニは、デュ・ゲクランより世代的に先輩なのに、シャルニを一番最後に持ってきている点も意味深です。
考えてみれば、旗手は、常に国王の直轄軍と行動を共にしなければならず、自分の才覚で部隊を指揮することができない、いわば飾り物のような存在です。
しかし、代表的騎士としてイギリス人を1人はあげざるをえない以上は、フランス人を何とか2人あげたい、ということで、イギリスで評判の良かったフランス人騎士であるシャルニ(後述)を無理やり列記した、と私は勘繰っているのです。
いずれにせよ、シャルニは、フランス国王の命で2度、スコットランドを訪れ、スコットランド貴族達と親交があったことから、この、イギリスと密接な関わりのある、しかもイギリスの接壌国の貴族達を通してイギリス騎士道について学んだことと思われますし、彼はまた、イギリス軍の捕虜に2回なっており、2度目の時には、イギリスにまで連れて行かれて拘置されていることから、イギリス人騎士から直々に騎士道を学んだと思われるのです。
ポワティエの戦い直前の上記の挿話を記録したのは、この話し合いに出席していた一人のイギリス人騎士であって、フランス側は記録した形跡がないことは、この時の、あたかもイギリス騎士道を体現したかのようなシャルニの発言をイギリス側は高く評価したけれど、フランス側は突飛な発言であるとして評価しなかったことを示唆していて、私の解釈を裏付けているように思うのですが、いかがでしょうか。
(以上、事実関係は、下掲↓による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffroi_de_Charny 前掲
さて、騎士に関する英語ウィキペディア(c)には、代表的騎士があげられていないのですが、騎兵に関する英語ウィキペディア(b)の、欧州の中世後期の記述の所に、著名な騎士として、サラディン(Saladin)、ブイヨンのゴドフリー(Godfrey of Bouillon)、ウィリアム・マーシャル(前出)、そしてベルトラン・デュ・ゲクラン(前出)があげられています。
この4人中、後の2人は、騎士道に関するフランス語ウィキペディアに出てきた代表的騎士と重なっていますが、最初の2人は違います。
興味深いことには、最初のサラディンは、イスラム世界の「騎士」であって地理的意味での欧州の騎士ではないことです。
このサラディンは後回しにして、まず、2番目のブイヨンのゴドフリー(1060?〜1100年)を俎上に載せましょう。
彼は、フランス人騎士というより、フランク人騎士であり、第一次十字軍の指導者の1人を1096年からその死亡時まで務めました。
彼は、1076年からブイヨン(Bouillon)(注15)の領主(Lords of Bouillon)であり、1087年からは低ロレーヌ(Lower Lorraine)(注16)の公爵でした。
(注15)現在のルクセンブルグからフランスアルプスあたりにかけて散在していたところの、アルデンヌ・ブイヨン家(Ardennes-Bouillon dynasty)の所有地等の総称。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_Bouillon
(注16)フランク王国が三分割された時にできたロタールの国(Lotharingia)の領土の北半分の呼称。現在のオランダとベルギーの相当部分と、現在のドイツのラインラントの北部からなる。ブイヨンのゴドフリーの当時は神聖ローマ帝国領。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lower_Lorraine
1099年に十字軍がエルサレムを落とすと、ゴドフリーは、エルサレム王国の最初の統治者となります。
なお、国王と称するのを、彼は、エルサレムは神に属するとして固辞したといいます。
彼の両親はどちらも貴族であり、現在のフランス東北端のブーローニュ・シュール・メール(Boulogne-sur-Mer)(注17)か現在のベルギーのベイジ(Baisy)・・当時は神聖ローマ帝国領・・で生まれています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Godfrey_of_Bouillon
(注17)ドーバー海峡に面した町でカレーの近傍。
http://en.wikipedia.org/wiki/Boulogne-sur-Mer
英語ウィキペディアが、こんなゴドフリーを登場させたのは、イギリスで生まれた騎士道がキリスト教と関わりが深いことから、輝かしい第一次十字軍の象徴とも言うべきブイヨンのゴドフリーを、彼が生きていた当時には、まだ騎士道が明確に成立していなかったにもかかわらず、後付で遡って、彼を騎士道の元祖的に奉ろうとしたからである、と推察できるのであり、これは、私がたびたび指摘しているところの、イギリス人的韜晦・・自らへりくだることで目立たなくさせて出る杭が打たれないようにする・・の典型例の一つである、と私は思うのです。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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