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太田述正コラム#4914(2011.8.6)
<イギリスと騎士道(その3)>(2011.10.27公開)
ウ エドワード1世
「特にエドワード1世(Edward I<。1239〜1307年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England
>)<(コラム#4572)>の積極的治世(1272〜1307年)の間のように、イギリスという国の野心がいや増しに増すようになると、ウェールズ、スコットランド、及びフランスにおける戦争を支える各種形態の税金が考案された。
騎士達は、上院という別の部屋(chamber)で審議を行う、より地位の高い<(=男爵以上の)
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_the_United_Kingdom
http://en.wikipedia.org/wiki/Peerage
>貴族達とは分れて<下院で審議を行い>、代表政治の背骨となった。
議会での審議、戦場での功績(exploits)、そしてまた、州(shires)における法と秩序の維持(delivery)、に関してかくも騎士達が中心的であるところの政府形態が、名誉と男らしい勇気の崇拝(cult)であるところの騎士道の基本的教義(tenets)を醸成し精緻化した。」(A)
「・・・「変容した騎士道(Knighthood) 1204〜90年」という章は、そのタイトルからして重要な章であることを含意している。
長くて比較的平和であったヘンリー3世(Henry III<。1207〜72年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England
>)の治世において、軍事役務に応え得る、剣で肩を軽くたたいてナイト爵を授けられたイギリスの騎士の数は大きく減少した。
ジョン(John<。1166〜1216年
http://en.wikipedia.org/wiki/John,_King_of_England
>)王が大陸での諸領地を失ったことに伴って騎士達の軍事役務への需要が減ったことは確かだが、減少の主たる原因は、絢爛たる騎士的生活様式の費用が上昇したことによるように見える。
騎士達の紋章への関心や家紋章(family arm)・・とりもなおさず家系(lineage)・・に対する誇りは、序列と地位の顕示への膨張した欲求(appetite)のわずか一つの徴候に過ぎなかった。
その結果、多くの貧しい騎士的な家は、騎士への昇格(admission)を求めるのを止めてしまった。
しかし、同時に、引き続き昇格を求めて騎士となった者達の中から、自分達の社会的役割の認識が深まりつつあった。
13世紀において、イギリス王国政府(royal government)は、範囲と密度の両面(scope and intensity)にわたって急速に拡大しつつあったところ、地方の土地所有者たる騎士達は、検死官、法律上の相続人がいない場合に国に帰属することとなる財産の検認官(escheator)
< http://ejje.weblio.jp/content/escheator、
http://ejje.weblio.jp/content/escheat >
、治安責任者、といった官職に就き、それと並行して、自分達の州の法的諸委員会の職業的法律家を務めた。
つまり、彼らは、非軍事貴族制及び軍事貴族制の一員として、国王や彼らより地位の高い貴族達による戦争や軍事的事業に従事しただけでなく、イギリス政府の中に入ったのだ。
エドワード1世の戦争や軍事的野心は、相当な数の騎士達から役務の提供を受ける必要性を改めて生ぜしめた。
それは、金持の騎士達にとっても、まったくもって経費が嵩む話だった。
エドワードが騎士達の熱情を高めるために撒いた重要な餌は、議会に課税承認させることで資金が確保されたところの、国外での<騎士達の>役務に対する、<政府による>経費負担だった。
ソールは、エドワードがイギリスの騎士達の再軍事化に成功した最大の要因について説得力ある主張をしている。
それは、国王によるイギリスの軍事的諸伝統の教化(cultivation)と称揚(celebration)だったというのだ。
エドワードは、これを、国王家の騎士達と大貴族達の従者達が自分達の同僚の間で栄光と評判を勝ち得ることができる大きな騎士馬上試合の開催、自分の宮廷での儀式的大量ナイト爵授爵、そして、騎士道の英雄的パトロンにしてイギリスの騎士的国王道(chivalric kingship)の模範たるアーサー<王>に係る歴史と範例の鳴り物入りの教化によって行った。
彼が、フランスとスコットランドでの主要戦役のために調達することができた騎士達の大量の数は、これらの努力が騎士達のエリート集団・・その主たる社会的役割は国王とイギリス王国の軍事役務であった・・に属しているとの意識を再活性化することにどれほど驚嘆的な成功を収めたかを証明するものだ。」(C)
→同じことを繰り返して恐縮ですが、いまだに、イギリス(イギリス国王のフランス等国外における所領を含む)外における騎士道がどのような影響をイギリスの騎士道に及ぼしたかどころか、イギリス外における騎士道についてそもそも一切言及がないこと、に注目してください。(太田)
(続く)
<イギリスと騎士道(その3)>(2011.10.27公開)
ウ エドワード1世
「特にエドワード1世(Edward I<。1239〜1307年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England
>)<(コラム#4572)>の積極的治世(1272〜1307年)の間のように、イギリスという国の野心がいや増しに増すようになると、ウェールズ、スコットランド、及びフランスにおける戦争を支える各種形態の税金が考案された。
騎士達は、上院という別の部屋(chamber)で審議を行う、より地位の高い<(=男爵以上の)
http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_the_United_Kingdom
http://en.wikipedia.org/wiki/Peerage
>貴族達とは分れて<下院で審議を行い>、代表政治の背骨となった。
議会での審議、戦場での功績(exploits)、そしてまた、州(shires)における法と秩序の維持(delivery)、に関してかくも騎士達が中心的であるところの政府形態が、名誉と男らしい勇気の崇拝(cult)であるところの騎士道の基本的教義(tenets)を醸成し精緻化した。」(A)
「・・・「変容した騎士道(Knighthood) 1204〜90年」という章は、そのタイトルからして重要な章であることを含意している。
長くて比較的平和であったヘンリー3世(Henry III<。1207〜72年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England
>)の治世において、軍事役務に応え得る、剣で肩を軽くたたいてナイト爵を授けられたイギリスの騎士の数は大きく減少した。
ジョン(John<。1166〜1216年
http://en.wikipedia.org/wiki/John,_King_of_England
>)王が大陸での諸領地を失ったことに伴って騎士達の軍事役務への需要が減ったことは確かだが、減少の主たる原因は、絢爛たる騎士的生活様式の費用が上昇したことによるように見える。
騎士達の紋章への関心や家紋章(family arm)・・とりもなおさず家系(lineage)・・に対する誇りは、序列と地位の顕示への膨張した欲求(appetite)のわずか一つの徴候に過ぎなかった。
その結果、多くの貧しい騎士的な家は、騎士への昇格(admission)を求めるのを止めてしまった。
しかし、同時に、引き続き昇格を求めて騎士となった者達の中から、自分達の社会的役割の認識が深まりつつあった。
13世紀において、イギリス王国政府(royal government)は、範囲と密度の両面(scope and intensity)にわたって急速に拡大しつつあったところ、地方の土地所有者たる騎士達は、検死官、法律上の相続人がいない場合に国に帰属することとなる財産の検認官(escheator)
< http://ejje.weblio.jp/content/escheator、
http://ejje.weblio.jp/content/escheat >
、治安責任者、といった官職に就き、それと並行して、自分達の州の法的諸委員会の職業的法律家を務めた。
つまり、彼らは、非軍事貴族制及び軍事貴族制の一員として、国王や彼らより地位の高い貴族達による戦争や軍事的事業に従事しただけでなく、イギリス政府の中に入ったのだ。
エドワード1世の戦争や軍事的野心は、相当な数の騎士達から役務の提供を受ける必要性を改めて生ぜしめた。
それは、金持の騎士達にとっても、まったくもって経費が嵩む話だった。
エドワードが騎士達の熱情を高めるために撒いた重要な餌は、議会に課税承認させることで資金が確保されたところの、国外での<騎士達の>役務に対する、<政府による>経費負担だった。
ソールは、エドワードがイギリスの騎士達の再軍事化に成功した最大の要因について説得力ある主張をしている。
それは、国王によるイギリスの軍事的諸伝統の教化(cultivation)と称揚(celebration)だったというのだ。
エドワードは、これを、国王家の騎士達と大貴族達の従者達が自分達の同僚の間で栄光と評判を勝ち得ることができる大きな騎士馬上試合の開催、自分の宮廷での儀式的大量ナイト爵授爵、そして、騎士道の英雄的パトロンにしてイギリスの騎士的国王道(chivalric kingship)の模範たるアーサー<王>に係る歴史と範例の鳴り物入りの教化によって行った。
彼が、フランスとスコットランドでの主要戦役のために調達することができた騎士達の大量の数は、これらの努力が騎士達のエリート集団・・その主たる社会的役割は国王とイギリス王国の軍事役務であった・・に属しているとの意識を再活性化することにどれほど驚嘆的な成功を収めたかを証明するものだ。」(C)
→同じことを繰り返して恐縮ですが、いまだに、イギリス(イギリス国王のフランス等国外における所領を含む)外における騎士道がどのような影響をイギリスの騎士道に及ぼしたかどころか、イギリス外における騎士道についてそもそも一切言及がないこと、に注目してください。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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