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太田述正コラム#4912(2011.8.5)
<イギリスと騎士道(その2)>(2011.10.26公開)

 (2)始まり

 「イギリスでは、物語は、劇的に異なる戦争のテクノロジーの衝突であったところの、ノルマン人による征服に始まる。
 その大部分がノルマンディーからだが、フランスのその他のいくつかの地域とフランダースからも、<ノルマンディー>公爵のウィリアムにつき従ってやってきた、騎乗の戦士達は、この経費が嵩むやっかいな(demanding)形態の戦争方式(warfare)を自分達の領土(estates)からの収入によって維持していたが、すぐに収入はイギリスの土地によって増加することとなった。
 彼らは少年期から騎乗戦争の技の訓練を受け、彼らの一家は軍事的手柄(exploit)志向(gear)だった。・・・
 ソールは、イギリスにおける騎士の起源をノルマン人の1066年の到着に求める。
 ノルマン人が騎兵を好んだのに対し、アングロサクソンは、デーン人やヴァイキング同様、もっぱら歩兵でもって戦うやり方をしていた。
 アングロサクソンは、暴虐であって、殺戮の狂乱の中で打ち破った敵の頭蓋骨を叩き割り四肢をちょん切ることを好んで行った。
 逆に、ノルマン人は、城を造り、財産、カネ、或いは爾後の忠誠の誓約を見返りに敗れた敵に情けをかける規約(convention)を定めた。・・・
 1066年以降、アングロ・ノルマンのエリートは、「戦争のやり方(conduct)をやわらげ文明化する」諸価値を<イギリスに>押し付けたところ、これは、この礼儀と寛大の名誉規範(honour code of courtesy)は、嬉々として、妊娠した女性、子供、そして年寄を屠殺することから野蛮人と見なされていたスコットランド人とはまことに対照的だった。」(B)

→イギリス以外の地理的意味での西欧における騎士道の物語の始まりについては一切語られていないことに注目しましょう。(太田)

 (3)全盛期

   ア 序

 「ソールが格別な関心を向けるのは三人の国王だ。
 十字軍の英雄、騎士馬上試合(tournament)のパトロンにしてフランスにおけるノルマン<公領=ノルマンディー(コラム#74、96、397、1650、1694、1695、3533)>とアンジュー<伯領(コラム#96、2055、2210、3816、4468、4472、4476、4529)>の相続財産(inheritance)の断固たる防衛者であったリチャード1世、十字軍騎士、ウェールズの征服者にしてスコットランド人粉砕者(Hammer of the Scots)であったエドワード1世、クレシーの戦いの勝者、ガーター騎士団(Order of the Garter)の創設者にして(彼がイギリスの守護聖人にして戦争に際してのイギリスの天上におけるスポンサーとして採択したところの)聖ジョージ(St George)帰依者(devotee)であったエドワード3世。
 この3人の国王の治世、彼らのあげた勝利、そして彼らが自分達自身を寛大なる騎士的指導者として表現する(project)技、が<ソールがこの3人を選んだ>選定の基準なのだ。」(C)

   イ リチャード1世

 「12世紀は、騎士道の歴史における重要な時代だった。
 騎士(knight=chevalier)は、(ノルマン人による征服より前のイギリスには見られなかったところの、)鞍の上で戦う技の巧みさを愛でられた職業的兵士というつつましい存在として始まったわけだが、リチャード1世(Richard I<。1157〜99年。英国王:1189〜99年
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England (太田)
>)<(コラム#4472)>の時までには、それをはるかに超える存在・・キリスト教社会の「団(order)」の一員・・として、見られ、自らもそう見るようになった。
 騎士の地位の基盤は、<キリスト教>僧侶と土壌の耕作者(tiller)を防衛するために武器を帯びるということだった。
 騎士道の神秘的な初期の文化は、この団とその軍事をめぐって集成した。
 ソールがここでとりわけ強調する様相は、この団への入団の共通の儀式(rite)・・国王が抜いた剣で肩を軽くたたいてナイト(騎士)爵を授ける(dubbing)
http://ejje.weblio.jp/content/dub (太田)>
儀式(ceremony)・・の発展だった。
 この儀式は、金持ちと貧乏、名門(blue-blooded)と新参(new stock)の騎士同士の一体感、アーサー王物語(Arthurian romance)とその騎士的冒険の小話群についての嗜み、そして、騎士達を貴族的な生誕と地位の武人(martial persons)と見なした(identify)「視覚的象徴主義の言語」たる紋章(heraldry)の発展、を醸成した。
 これは、リチャード1世のリーダーシップと軍事的業績に熱情的に応えたところの騎士道(knighthood)のイギリス版(version)だった。
 リチャード1世のキャリアを、彼の後継者達がイギリスの統治者として成功したいのなら真似をし(emulate)なければならなくなったところの模範(model)として深く心に刻みつける(stamp)こととなったほど極めて熱情的に・・。」(C)

→騎士道のイギリス以外の版について、何の言及もないことに、ここでも注目しましょう。(太田)

(続く)

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