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太田述正コラム#4852(2011.7.6)
<支那における自由民主主義的伝統の発掘(その1)>(2011.9.26公開)
1 始めに
これまで、私は、支那の自由民主主義化は可能であり、そのためには、支那の主要「民族」たる漢人の農民としての歴史ではなく、(自由民主主義と親和性を有するところの)遊牧民としての歴史に着目すべきだ、と主張してきたところですが、このたび、北京在住のLIU JUNNING・・恐らく偽名でしょう・・がウォールストリート・ジャーナルに、支那の歴史の中から自由民主主義的伝統を発掘するコラムを寄せていたので、その概要をご紹介するとともに、私のコメントを付したいと思います。
2 支那における自由民主主義的伝統の発掘
LIUは、「・・・我々が、今、欧米流(Western-style)の自由主義と呼ぶものは、何千年にもわたって支那自身の文化の中で大きな役割を果たしてきた(featured)」とした上で、老子、孟子、そして黄宗羲の3人をあげています。
便宜上、時代を遡ってこの3人を順次とりあげて行くことにしましょう。
「時代をずっと下ると、我々は、「支那啓蒙主義の父」として知られる黄宗羲(1610〜1695年)<(注1)>の著作を見出す。
(注1)1610〜95年。「明末、清初の儒学者。・・・陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された。・・・明が滅び、清が中国本土に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は・・・、1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している。」※
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/98/d2/c7/98e260079d8aa94db5e932898796b87f.htm ☆
「彼は・・・基本法(constitutional law)の必要性を強調した。彼はまた、高官達は皇帝に対して公然と批判的であるべきであり、また、統治者達は彼らの国に対して責任を負っている、とする考え方を公然と擁護した。更に、皇帝は、自分の内閣大学士(prime minister)や国子監(Imperial College)の学長の関心事を傾聴すべきであるとした。地方においては、郷紳、学者、そして国立学校の学生達は、集まり、議会を構成して、使司や使司の吏員達と公然と諸問題について議論をすべきであるとした。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Huang_Zongxi ★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E#.E5.AE.98.E5.88.B6.E3.83.BB.E7.A8.8E.E5.88.B6.E3.83.BB.E5.85.B5.E5.88.B6
専制主義と主権者の神聖なる諸権利に対する激しい批判者であった黄は、ある時、修辞的に問いかけた。「果たして、天と地は、かくも広大であるというのに、すべての人々の中で、わずか一人の人間や一つの家族の贔屓をするよう運命づけているものだろうか」と。
彼の『明夷待訪録(Waiting for the Dawn: A Plan for the Prince,)』<(注2)>が、ジョン・ロック(John Locke)<(注3)>の『市民政府二論(Two Treatises of Government)』<(1689年)>の50年以上前に書かれたことを銘記すべきだ。」
(以上、特に断っていない限り、下掲に拠る。)
http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304803104576425364242777554.html
(注2)1663年(※)。左記の上梓年が正しいとすると、『市民政府二論』の「50年以上も前」ではなくて、4半世紀前に書かれた、ということになる。中身については下掲参照。
「萬暦帝(在位:1572〜1620年)の時代以来、様々な学者によって唱えられてきた政治改革の考え方を要約したもの。この政治小冊子は、利己的な専制的統治の指弾から始まり、天下は人民に属すると宣言する。・・・黄は、すべての法や規則類は地方における必要性の延長線上のものでなければならず、指導者達によって政治的目的(agenda)のために押し付けられてはならないと宣言する。・・・彼は、<中央と地方の>国立学校を公的諸問題に関する教養ある意見が交わされる準公的な場として用いることを擁護した。・・・彼は、土地保有の衡平な配分や、文官と武官の分離や財政改革や明王朝における宦官の力の問題について議論をした。」(★。ただし、下掲も参照した。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Wanli_Emperor
「当時としては革新的な思想、及び反清運動の前歴から、清の乾隆帝によって『明夷待訪録』などの著書が禁書となるなどの迫害を受けている。
清末になって、革命派の手により『明夷待訪録』は革命思想の宣伝や民主主義の経典として利用され、黄宗羲は「中国のルソー」と称されるようになる。その後も中華民国において、五・四運動などの学生運動でこの著書はよく引用された。」(☆)
(注3)1632〜1704年。自然権、社会契約の考え方を打ち出したイギリスの哲学者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
さて、一体、この黄宗羲、支那における自由民主主義の祖の一人、ひいては「支那啓蒙主義の父」、と評するに足る人物なのでしょうか。
(続く)
<支那における自由民主主義的伝統の発掘(その1)>(2011.9.26公開)
1 始めに
これまで、私は、支那の自由民主主義化は可能であり、そのためには、支那の主要「民族」たる漢人の農民としての歴史ではなく、(自由民主主義と親和性を有するところの)遊牧民としての歴史に着目すべきだ、と主張してきたところですが、このたび、北京在住のLIU JUNNING・・恐らく偽名でしょう・・がウォールストリート・ジャーナルに、支那の歴史の中から自由民主主義的伝統を発掘するコラムを寄せていたので、その概要をご紹介するとともに、私のコメントを付したいと思います。
2 支那における自由民主主義的伝統の発掘
LIUは、「・・・我々が、今、欧米流(Western-style)の自由主義と呼ぶものは、何千年にもわたって支那自身の文化の中で大きな役割を果たしてきた(featured)」とした上で、老子、孟子、そして黄宗羲の3人をあげています。
便宜上、時代を遡ってこの3人を順次とりあげて行くことにしましょう。
「時代をずっと下ると、我々は、「支那啓蒙主義の父」として知られる黄宗羲(1610〜1695年)<(注1)>の著作を見出す。
(注1)1610〜95年。「明末、清初の儒学者。・・・陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された。・・・明が滅び、清が中国本土に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は・・・、1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している。」※
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/98/d2/c7/98e260079d8aa94db5e932898796b87f.htm ☆
「彼は・・・基本法(constitutional law)の必要性を強調した。彼はまた、高官達は皇帝に対して公然と批判的であるべきであり、また、統治者達は彼らの国に対して責任を負っている、とする考え方を公然と擁護した。更に、皇帝は、自分の内閣大学士(prime minister)や国子監(Imperial College)の学長の関心事を傾聴すべきであるとした。地方においては、郷紳、学者、そして国立学校の学生達は、集まり、議会を構成して、使司や使司の吏員達と公然と諸問題について議論をすべきであるとした。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Huang_Zongxi ★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E#.E5.AE.98.E5.88.B6.E3.83.BB.E7.A8.8E.E5.88.B6.E3.83.BB.E5.85.B5.E5.88.B6
専制主義と主権者の神聖なる諸権利に対する激しい批判者であった黄は、ある時、修辞的に問いかけた。「果たして、天と地は、かくも広大であるというのに、すべての人々の中で、わずか一人の人間や一つの家族の贔屓をするよう運命づけているものだろうか」と。
彼の『明夷待訪録(Waiting for the Dawn: A Plan for the Prince,)』<(注2)>が、ジョン・ロック(John Locke)<(注3)>の『市民政府二論(Two Treatises of Government)』<(1689年)>の50年以上前に書かれたことを銘記すべきだ。」
(以上、特に断っていない限り、下掲に拠る。)
http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304803104576425364242777554.html
(注2)1663年(※)。左記の上梓年が正しいとすると、『市民政府二論』の「50年以上も前」ではなくて、4半世紀前に書かれた、ということになる。中身については下掲参照。
「萬暦帝(在位:1572〜1620年)の時代以来、様々な学者によって唱えられてきた政治改革の考え方を要約したもの。この政治小冊子は、利己的な専制的統治の指弾から始まり、天下は人民に属すると宣言する。・・・黄は、すべての法や規則類は地方における必要性の延長線上のものでなければならず、指導者達によって政治的目的(agenda)のために押し付けられてはならないと宣言する。・・・彼は、<中央と地方の>国立学校を公的諸問題に関する教養ある意見が交わされる準公的な場として用いることを擁護した。・・・彼は、土地保有の衡平な配分や、文官と武官の分離や財政改革や明王朝における宦官の力の問題について議論をした。」(★。ただし、下掲も参照した。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Wanli_Emperor
「当時としては革新的な思想、及び反清運動の前歴から、清の乾隆帝によって『明夷待訪録』などの著書が禁書となるなどの迫害を受けている。
清末になって、革命派の手により『明夷待訪録』は革命思想の宣伝や民主主義の経典として利用され、黄宗羲は「中国のルソー」と称されるようになる。その後も中華民国において、五・四運動などの学生運動でこの著書はよく引用された。」(☆)
(注3)1632〜1704年。自然権、社会契約の考え方を打ち出したイギリスの哲学者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
さて、一体、この黄宗羲、支那における自由民主主義の祖の一人、ひいては「支那啓蒙主義の父」、と評するに足る人物なのでしょうか。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
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