太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/
太田述正コラム#4798(2011.6.9)
<映画評論22:300(その3)>(2011.8.30公開)
3 私のこの映画のストーリー批判
スパルタは、大まかに言えば、市民、解放奴隷のペリオイコイ(Perioikoi)、そして奴隷のヘロット(Helots)の三者から成っていました。
スパルタ市民たる女性は、ギリシャの他のポリスを含む、当時の地中海世界のどこよりも、より権利を持ち男性と平等に扱われ、例えば、自分名義の財産を保持することができました。
また、スパルタのヘロットもギリシャの他のポリスのどこの奴隷よりも恵まれていました。彼らは結婚することができ、ある程度の私産を持つこともでき、かつ、宗教行事に従事することもできました。
政体については、スパルタの王位に、どちらもヘラクレスの子孫というふれこみの二つの家から一人ずつ、計2名が就任することになっていました。
そして、司法と立法/行政の相当部分については任命されるところの複数の役人からなるエフォルス(Ephors)が、そして司法の残り、及び立法/行政の残りに係る複数の案の策定については枢密院(Gerousia=council)・・両王に加えて、市民によって選挙された60歳以上の終身官28名、計30名で構成される・・が担い、市民が直接集う市民集会(Damos)が枢密院から提案されたところの立法/行政に係る複数の案の中から一つを投票によって選択する、という仕組みでした。
スパルタ以外のポリスでは、男性市民は有事にこそ兵士になったけれど、平時には他の仕事に従事していたのに対し、スパルタでは、男性市民は全員がプロの兵士でした。
もっとも、ヘロットも恵まれてばかりいたわけではなく、エフォルスの役人達は毎年の任期の初めに、恒例としてヘロットに対する宣戦布告を行い、市民によるヘロット狩りが行われました。
以上だけからもお分かりのように、スパルタは何よりも軍国主義的なポリスでした。
生まれてから間もない赤ん坊を母親はワインに漬け、それで死ななかった者を今度は父親が枢密院に連れていき、虚弱であるように見えたり身体に障害のある者は山から谷に投げ捨てられました。
市民の男の子達は、一定の年齢に達すると親から引き離され、アゴゲ(agoge)という教育訓練隊に入隊させられ、兵士として鍛え上げられました。
アゴゲを卒業する直前には、何グループかに分かれて、中には、ナイフだけをあてがわれて田舎に送られ、頭脳と肉体を駆使して生き残ることができるかどうかを試される者もいました。そしてその過程でヘロットを殺害することが奨励されました。
そして、18歳になると、彼らは、スパルタ軍に編入されました。
市民の女の子達も、軍事的訓練こそこれほどやらされなかったけれど、おおむね男の子達同様の教育訓練を受けさせられました。(他のポリスの市民の女の子達はほとんど教育を受けませんでした。)
アリストテレスは、スパルタの教育訓練は野獣教育であるとし、人間としての教育訓練を併せ行わないので、偏頗な市民ばかりを生み出している、と批判しています。
スパルタ大好き人間のことを、スパルタの別称がラケダイモン(Lacedaemon)であることから、ラコノフィリア(Laconophilia)と呼びますが、スパルタのライバルであるアテネにも少なからずラコノフィリアがいました。
プラトン派を始めとする多くのギリシャ哲学者たちも、しばしばスパルタについて、理想的なポリスであって、強力で勇敢で商業およびカネによる腐敗から免れていると描いたところです。
欧州では、ルネッサンス期にギリシャ時代のものが読まれるようになり、マキャベリ等のラコノフィリアが出現します。
エリザベス女王時代の政体学者のジョン・エイルマー(John Aylmer)(注5)は、スパルタの君主制・貴族政・民主制の混合政体を、チューダー朝のイギリスの混合政体と比較し、スパルタをイギリスの政体の模範たりうると主張しました。
(注5)1521〜94年。イギリスの司教・政体論者(constitutionalist)・ギリシャ学者。ロンドン司教の時、(カトリックや清教徒といった)国教徒以外の人々を迫害したことで悪名高い。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Aylmer_(bishop)
ルソーは、その『学問芸術論(Discourse on the Arts and Sciences)』の中で、スパルタの質朴な政体はアテネ人の文化的な生活よりも良しとしました。
革命時代とナポレオン時代のフランスでも、スパルタは社会的純粋性の模範として持ち上げられました。
ラコノフィリアと人種主義者が一体化したのがカール・オトフリート・ミュラー(Karl Otfried Muller)(注6)であり、理想化されたスパルタをスパルタ人が属するドーリア人の人種的優越性と結びつけたのです。
(注6)1797〜1840年。ギリシャ神話学の創始者たるドイツの学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Otfried_M%C3%BCller
彼の影響を受けたのでしょうが、ヒットラーはスパルタ人を称賛し、1928年に、ドイツはスパルタに倣って、「生きることが許される数」を絞らなければならないと主張しました。そして、6,000人のスパルタ人が350,000人のヘロットを従えることができたのは、スパルタ人の人種的優越性のおかげだった」のであり、スパルタ人は「最初の人種主義国家」を創造した、と付け加えたのです。
(以上、特に断っていない限り、以下による。)
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Sparta
しかし、以上のような議論は、スパルタだけにとらわれ過ぎているのではないでしょうか。
私は、スパルタは古典ギリシャ世界全体の中で評価される必要があると思うのです。
(続く)
<映画評論22:300(その3)>(2011.8.30公開)
3 私のこの映画のストーリー批判
スパルタは、大まかに言えば、市民、解放奴隷のペリオイコイ(Perioikoi)、そして奴隷のヘロット(Helots)の三者から成っていました。
スパルタ市民たる女性は、ギリシャの他のポリスを含む、当時の地中海世界のどこよりも、より権利を持ち男性と平等に扱われ、例えば、自分名義の財産を保持することができました。
また、スパルタのヘロットもギリシャの他のポリスのどこの奴隷よりも恵まれていました。彼らは結婚することができ、ある程度の私産を持つこともでき、かつ、宗教行事に従事することもできました。
政体については、スパルタの王位に、どちらもヘラクレスの子孫というふれこみの二つの家から一人ずつ、計2名が就任することになっていました。
そして、司法と立法/行政の相当部分については任命されるところの複数の役人からなるエフォルス(Ephors)が、そして司法の残り、及び立法/行政の残りに係る複数の案の策定については枢密院(Gerousia=council)・・両王に加えて、市民によって選挙された60歳以上の終身官28名、計30名で構成される・・が担い、市民が直接集う市民集会(Damos)が枢密院から提案されたところの立法/行政に係る複数の案の中から一つを投票によって選択する、という仕組みでした。
スパルタ以外のポリスでは、男性市民は有事にこそ兵士になったけれど、平時には他の仕事に従事していたのに対し、スパルタでは、男性市民は全員がプロの兵士でした。
もっとも、ヘロットも恵まれてばかりいたわけではなく、エフォルスの役人達は毎年の任期の初めに、恒例としてヘロットに対する宣戦布告を行い、市民によるヘロット狩りが行われました。
以上だけからもお分かりのように、スパルタは何よりも軍国主義的なポリスでした。
生まれてから間もない赤ん坊を母親はワインに漬け、それで死ななかった者を今度は父親が枢密院に連れていき、虚弱であるように見えたり身体に障害のある者は山から谷に投げ捨てられました。
市民の男の子達は、一定の年齢に達すると親から引き離され、アゴゲ(agoge)という教育訓練隊に入隊させられ、兵士として鍛え上げられました。
アゴゲを卒業する直前には、何グループかに分かれて、中には、ナイフだけをあてがわれて田舎に送られ、頭脳と肉体を駆使して生き残ることができるかどうかを試される者もいました。そしてその過程でヘロットを殺害することが奨励されました。
そして、18歳になると、彼らは、スパルタ軍に編入されました。
市民の女の子達も、軍事的訓練こそこれほどやらされなかったけれど、おおむね男の子達同様の教育訓練を受けさせられました。(他のポリスの市民の女の子達はほとんど教育を受けませんでした。)
アリストテレスは、スパルタの教育訓練は野獣教育であるとし、人間としての教育訓練を併せ行わないので、偏頗な市民ばかりを生み出している、と批判しています。
スパルタ大好き人間のことを、スパルタの別称がラケダイモン(Lacedaemon)であることから、ラコノフィリア(Laconophilia)と呼びますが、スパルタのライバルであるアテネにも少なからずラコノフィリアがいました。
プラトン派を始めとする多くのギリシャ哲学者たちも、しばしばスパルタについて、理想的なポリスであって、強力で勇敢で商業およびカネによる腐敗から免れていると描いたところです。
欧州では、ルネッサンス期にギリシャ時代のものが読まれるようになり、マキャベリ等のラコノフィリアが出現します。
エリザベス女王時代の政体学者のジョン・エイルマー(John Aylmer)(注5)は、スパルタの君主制・貴族政・民主制の混合政体を、チューダー朝のイギリスの混合政体と比較し、スパルタをイギリスの政体の模範たりうると主張しました。
(注5)1521〜94年。イギリスの司教・政体論者(constitutionalist)・ギリシャ学者。ロンドン司教の時、(カトリックや清教徒といった)国教徒以外の人々を迫害したことで悪名高い。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Aylmer_(bishop)
ルソーは、その『学問芸術論(Discourse on the Arts and Sciences)』の中で、スパルタの質朴な政体はアテネ人の文化的な生活よりも良しとしました。
革命時代とナポレオン時代のフランスでも、スパルタは社会的純粋性の模範として持ち上げられました。
ラコノフィリアと人種主義者が一体化したのがカール・オトフリート・ミュラー(Karl Otfried Muller)(注6)であり、理想化されたスパルタをスパルタ人が属するドーリア人の人種的優越性と結びつけたのです。
(注6)1797〜1840年。ギリシャ神話学の創始者たるドイツの学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Otfried_M%C3%BCller
彼の影響を受けたのでしょうが、ヒットラーはスパルタ人を称賛し、1928年に、ドイツはスパルタに倣って、「生きることが許される数」を絞らなければならないと主張しました。そして、6,000人のスパルタ人が350,000人のヘロットを従えることができたのは、スパルタ人の人種的優越性のおかげだった」のであり、スパルタ人は「最初の人種主義国家」を創造した、と付け加えたのです。
(以上、特に断っていない限り、以下による。)
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Sparta
しかし、以上のような議論は、スパルタだけにとらわれ過ぎているのではないでしょうか。
私は、スパルタは古典ギリシャ世界全体の中で評価される必要があると思うのです。
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/