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太田述正コラム#4784(2011.6.2)
<日本文化論の人間主義的批判(その1)>(2011.8.23公開)
1 始めに
寺嶋眞一(noga)サンのコラム
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
中での全ての引用・・日本人の言動における病理に係るものという触れ込み・・について、人間主義の観点からの批判を加えたいと思います。
なお、これらのうち、私が読んでいないのは、肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』(注)、W・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』、夏目漱石『マードック先生の「日本歴史」』です。また、カレル・ヴァン・ウォルフレン 『日本/権力構造の謎 』については、買ったけれど読まずじまいです。
(注)「古代から近現代までに至る下田の歴史と史跡約80カ所を・・・解説・・・。著者・下田開国博物館当館相談役 肥田喜左衛門」
http://kaikoku.co.jp/sov/
2 批判
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確<な>根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」(山本七平『『空気』の研究』)
→「及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。・・・
第二艦隊<の大和等が>徳山沖に回航<してい>た<時、>・・・アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が・・・機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために<母港の>呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。<また、>関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった。
<そんなところへ、>連合艦隊より<第二艦隊に対し、>沖縄海上特攻の命令<が下令された。>
この<大和特攻>作戦は・・・アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和<することを期し、>・・・「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと、<連合艦隊の>神重徳大佐の発案が唐突に実施されたものであった。・・・。<ただし、>一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされている。・・・<また、>うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。・・・
特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。<徳山沖を>出航後・・・に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
このような経緯を踏まえると、大和には、早晩泊地や母港で攻撃を受けて撃沈される運命を甘受するか、あえて出撃して撃沈されるか、の究極の二択しかおおむね残されていなかったことから、前者が選ばれたことは必ずしも不合理な決定であったとは言えないのであって、だからこそ、乗組員達はその決定を喜んだ、と見るべきでしょう。
従って、本件に関して、山本のように「空気」を持ち出して大和の特攻を病理的であると切り捨てることには、私は違和感があります。(太田)
「日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて ・・・柳条溝や蘆溝橋の一発はとめどもなく拡大して行き、”無法者”の陰謀は次々とヒエラルヒーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇して行ったのである。」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)
→ここは多言を要しないでしょう。下剋上を単に病理現象ととらえたのは、丸山には日本型政治経済体制が構築されたという認識がなく、同体制の生理が理解できていなかったためです。(太田)
「徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。」(肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』)
→時代の違いに目を曇らされなければ、これは、江戸時代において、支配者は被支配者のことを慮り、被支配者は支配者を信頼する、という関係が成立していたことを示す事件であると言えるのであって、当時の日本社会の病理を示すものでは全くありますまい。(太田)
「日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。」(W・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』)
→「日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。」というくだりは、チャーチル自身が、日本の軍事力を過小評価し、しかも東南アジアでの英軍の配備や人事に不適切な介入をしたために緒戦において日本軍に大敗北を喫したことの責任を日本に転嫁しようとするものであり、これはチャーチルの矮小さを示しこそすれ、日本側の病理を示すものでは全くありません。
そもそも、チャーチルは、日本に対米開戦をさせることで米国を対ナチスドイツ戦に引きずり込もうと画策し、それに成功したわけですが、かつて日本とあれほど肝胆相照らしあっていた英国の政府首脳であるチャーチルが、日本に対してかくも背信的なことを企むことができたということへの後ろめたさが、このチャーチルのくだりからは全く感じられません。チャーチルの倫理感覚を疑います。(太田)
(続く)
<日本文化論の人間主義的批判(その1)>(2011.8.23公開)
1 始めに
寺嶋眞一(noga)サンのコラム
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
中での全ての引用・・日本人の言動における病理に係るものという触れ込み・・について、人間主義の観点からの批判を加えたいと思います。
なお、これらのうち、私が読んでいないのは、肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』(注)、W・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』、夏目漱石『マードック先生の「日本歴史」』です。また、カレル・ヴァン・ウォルフレン 『日本/権力構造の謎 』については、買ったけれど読まずじまいです。
(注)「古代から近現代までに至る下田の歴史と史跡約80カ所を・・・解説・・・。著者・下田開国博物館当館相談役 肥田喜左衛門」
http://kaikoku.co.jp/sov/
2 批判
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確<な>根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」(山本七平『『空気』の研究』)
→「及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。・・・
第二艦隊<の大和等が>徳山沖に回航<してい>た<時、>・・・アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が・・・機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために<母港の>呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。<また、>関門海峡は貨物船が沈没して通行不能だった。
<そんなところへ、>連合艦隊より<第二艦隊に対し、>沖縄海上特攻の命令<が下令された。>
この<大和特攻>作戦は・・・アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和<することを期し、>・・・「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと、<連合艦隊の>神重徳大佐の発案が唐突に実施されたものであった。・・・。<ただし、>一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされている。・・・<また、>うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。・・・
特攻作戦であることは乗組員には事前に伝えられなかった。<徳山沖を>出航後・・・に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
このような経緯を踏まえると、大和には、早晩泊地や母港で攻撃を受けて撃沈される運命を甘受するか、あえて出撃して撃沈されるか、の究極の二択しかおおむね残されていなかったことから、前者が選ばれたことは必ずしも不合理な決定であったとは言えないのであって、だからこそ、乗組員達はその決定を喜んだ、と見るべきでしょう。
従って、本件に関して、山本のように「空気」を持ち出して大和の特攻を病理的であると切り捨てることには、私は違和感があります。(太田)
「日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて ・・・柳条溝や蘆溝橋の一発はとめどもなく拡大して行き、”無法者”の陰謀は次々とヒエラルヒーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇して行ったのである。」(丸山真男『現代政治の思想と行動』)
→ここは多言を要しないでしょう。下剋上を単に病理現象ととらえたのは、丸山には日本型政治経済体制が構築されたという認識がなく、同体制の生理が理解できていなかったためです。(太田)
「徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。」(肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』)
→時代の違いに目を曇らされなければ、これは、江戸時代において、支配者は被支配者のことを慮り、被支配者は支配者を信頼する、という関係が成立していたことを示す事件であると言えるのであって、当時の日本社会の病理を示すものでは全くありますまい。(太田)
「日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。」(W・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』)
→「日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。」というくだりは、チャーチル自身が、日本の軍事力を過小評価し、しかも東南アジアでの英軍の配備や人事に不適切な介入をしたために緒戦において日本軍に大敗北を喫したことの責任を日本に転嫁しようとするものであり、これはチャーチルの矮小さを示しこそすれ、日本側の病理を示すものでは全くありません。
そもそも、チャーチルは、日本に対米開戦をさせることで米国を対ナチスドイツ戦に引きずり込もうと画策し、それに成功したわけですが、かつて日本とあれほど肝胆相照らしあっていた英国の政府首脳であるチャーチルが、日本に対してかくも背信的なことを企むことができたということへの後ろめたさが、このチャーチルのくだりからは全く感じられません。チャーチルの倫理感覚を疑います。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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