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太田述正コラム#4774(2011.5.28)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その2)>(2011.8.18公開)

 「1868年・・・、大政奉還後の徳川慶喜の巻き返しを伝え聞くなか、伊藤は木戸孝允に・・・次のように書き送って・・いる。
 米国独立の時に当(あたり)ては、我日本の形勢と違ひ、自国の人民は更に兵権もなきものすら、人心の一致より、かかる強敵を打ひしぎ、各自国を保つの忠情凝固して、今日の盛大を為すに至る。然況(しかればいわんや)我国数千歳連綿たる 天子を戴きながら、其大恩を忘却して、阿諛を事とし、機会を失ひ候様至らせしは、実に無人心(じんしきなき)者と奉存候。」(20)

→英国から18世紀に武力独立し、富国となって(南北戦争後、再び)母国を経済力において急追し始めていた米国に、伊藤は、英国留学時以来、いや、恐らくは米国のペリーの日本来航以来、ずっと注目してきた、ということでしょうね。(太田)

 「[1870<年、>]当時大蔵少輔であった伊藤は、財政幣制の調査のため<に>[渡米]を願い出て認められ、[11月芳川顕正、福地源一郎、吉田二郎、木梨平之進らとともに、]同国へ派遣された。[(〜71年5月9日帰朝)]」(21、ただし、[]内は376)

→伊藤は、その米国を自分の眼で見てやろう、という気持ちだったのでしょう。(太田)

 「1871年・・・8月、アメリカから帰国後の伊藤は、・・・意見書<を>著している。 ・・・<その>なかで・・・いつの日か「開化の進歩大に拡充し」た暁には、国民の代表者を集めて議院を開き、国の会計を過去にわたってまで審議させなければならず、そのためにいまのうちから政府の公金出納の記録をきちんと残しておくことが肝要と主張している・・・。・・・
 国民国家の理念と漸進主義という点において、この時期の伊藤はアメリカをモデルとして自ら国家構想を育んでいたのである。」(26〜27)

→「我国<が>数千歳連綿たる 天子を戴<く国>」であることに大いなる意義を見出す伊藤(上出)が、君主制を擲った米国をモデルとした国家構想などを育むわけがありません。
 また、米国は、そもそも革命によって君主制を擲った国であり、(一時的に擲ったけれど、すぐに君主制を復古させ、)君主制を維持してきたその母国たる英国こそ漸進主義の国であって、米国はむしろ急進的な国と言うべきです。
 私は、伊藤は、一貫して、英国をモデルとして国家構想を育んだ人間であると考えています。(太田)

 「1871年から73年にかけての岩倉遣外使節団に・・・伊藤は副使として加わり、再度アメリカをはじめ西洋諸国を訪れることになる。・・・
 1873年・・・1月2日付の大隈重信・副島種臣宛の書簡・・・で、伊藤は「仏国も共和治体未一定(ちたいいまだいつていせず)、大統領一人之力にて今日の無事を維持仕居候様被窺(うかがわれ)申候。孛(はい)相ビスマルクも各省卿と議論不合(あわず)して孛の宰相を辞せり」と伝えている。・・・伊藤はヨーロッパにおいて、その政治体制の不安定さに留意しているのである。・・・大統領と言う職位もビスマルクという政治的カリスマも、決して盤石の地位を築いているわけではない<と>・・・。ここで改めて伊藤は、制度の重大さに思い至ったのではなかろうか。実際、伊藤は3月にドイツに入るや、政体の調査に従事している。」(28、37、39〜40)

→瀧井は、英国(と米国)の政治体制についての伊藤の感想を紹介していませんが、少なくとも、英国(と米国)の政治体制について、伊藤が問題点をあげてはいなさそうであることも、伊藤の国家構想がいかなるものであったかが想像できるというものです。
 そもそも、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら総勢107名からなる岩倉使節団は、「主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた<が、>アメリカには約8ヶ月もの長期滞在となってしま」うも、「その後、大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4ヶ月)・フランス(2ヶ月)・ベルギー・オランダ・ドイツ(3週間)・ロシア(2週間)・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)・スイスの12カ国」を訪問した(・・そして、アジア各国(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問<を>行<いつつ>、・・・当初予定から大幅に遅れ、出発から1年10ヶ月後<の>・・・1873年・・・9月・・・に、<日本>に帰着した・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
ところ、この滞在日数を見ただけでも、彼らがいかに英国を重視していたかを示して余りあるものがあります。
 なお、米国での滞在日数が長いのは、最初の訪問先の米国でただちに条約改正交渉に入るべきである、との伊藤のフライング的提案により、伊藤と大久保が全権委任状を取得するため一旦帰国して米国に戻ってくるまでに4か月を空費したからです。(31〜33)
 実質滞在期間をとったとしても、米国は英国と同じ4か月ではないか、と言われる方もいるでしょうが、米国はひどい惨禍をもたらしたところの、内戦(南北戦争)が終わってからまだそれほど時間が経っておらず、経済面に関してこそ、視察や調査を行うには値したでしょうが、米国の政治体制を、伊藤を含めた、当時の日本政府の指導層が高く評価していたとは、私には到底思えないのです。(太田)

 (3)伊藤博文と日本の立憲国家化

 「<1873年>11月19日、参議一同は閣議を開き、政体取調の担当者として伊藤と寺島宗則を選任した・・・。政体取調とは、立憲制導入のための調査に他ならない。・・・
 政体取調の任務とは、木戸と大久保の漸進主義の信念をベースにして、そこから具体的な制度設計を練り上げるという課題に他ならなかった。」(48)

→ここで、先取り的に申し上げておきますが、後に、1882年から1883年にかけて、伊藤はドイツとオーストリアを主とし、英国を従とする憲法調査に日本から赴きます。(59〜66)
 米国もフランスも、彼の行先には入っていません。
 これは要するに、米国やフランスの大統領制(を君主制に置き換えたもの)ではなく、英国の立憲君主制/議院内閣制の政体を模した政体を規定するところの、日本の憲法を起草する、というコンセンサスが当時の日本政府の指導層の中で早くから確立していたところ、英国は憲法を持たないので、次善の策として、その議会制があまり機能していない点では憾みがあったものの立憲君主制中の最先進国ではあったドイツとオーストリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD
に赴いた、ということだと私は思うのです。
 しかし、伊藤の任務は、そもそも、英国の政体を模した憲法を起草することなので、調査の締めくくりに、念のために英国も訪れた、といったところでしょう。(太田)

(続く)

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