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太田述正コラム#4762(2011.5.22)
<2011.5.21オフ会次第(続)>(2011.8.12公開)

Q:<中村秀樹氏の本の紹介(コラム#4759)についてだが、>法務次官と検察庁の関係はともかく、外務次官と在外公館の関係は、本省の次官と地方支分部局との関係と全く同じではないか。
A:外務省設置法にあたらなければならないな。(誰か、調べて!)
Q:ゾルゲなんかよりも大物のエコノミストと呼ばれたソ連のスパイ(注)が日本にいたらしい。「これまでに元ソ連駐在大使館参事官の天羽英二<(コラム#4695)>など、何人か〈エコノミスト〉に擬せられた人物がいた」。
http://book.asahi.com/review/TKY201010050109.html

 (注)「 1941・・・年9月6日の御前会議・・・の情報は最高指導者スターリンにも伝わっていた。ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から、御前会議の3日後の9月9日付「特別報告」によってソ連内務人民委員ベリヤからスターリンとモロトフ外相へ伝えられていたことが明らかになった(05年8月13日付共同通信)。
 日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し、この「エコノミスト」は、左近司政三商工大臣(当時)が9月2日に行った要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり「9月、10月が重大局面」と明かしたとベリヤに報告、また、対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し、外交方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた。
 この記事の中で、下斗米伸夫法政大教授と袴田茂樹青山学院大教授は、ゾルゲや尾崎秀実の関わったソ連赤軍第四本部の統括下にあったスパイ網とは別系統のNKVD統括下のスパイ網が存在していた可能性を指摘している。
 ここに登場する左近司は海軍条約派に属し、1935・・・年より海軍主導の国策会社・北樺太石油会社の社長を務めた経験がある。当時、戦争に向けて陸・海軍間で石油の奪い合いをしていた。
 この石油が「エコノミスト」を特定する鍵を握っているのかもしれない。
 現在の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1・2」の原点でもある北樺太石油会社は、<19>25・・・年の日ソ協定に基づき、オハを中心とする北樺太油田の採油利権を認められた時に始まり、左近司を含めた3名の歴代社長はすべて海軍中将が務めた。
 最盛期には年産約17万トン、ソ連開発分の買い入れを含めると約30万トン、これは当時日本国内の産油量の半分以上に相当し、日本の原油調達全体の約6%を占めていた。
 日独伊三国同盟に続いて、<19>41・・年4月に締結された日ソ中立条約の交渉過程で、モロトフ外相はこの北樺太油田の利権解消を要求する。実はこの時も松岡の動きと意図は直前の3月10日付でゾルゲを通じてスターリンにもたらされていた。
 この情報を手にしたスターリンは終始主導権を握る。
 この条約締結によって日、独との二正面作戦を巧みに免れたスターリンは北樺太の石油利権放棄という譲歩まで手に入れる。 
 それにしても米国との関係悪化が日本を石油確保に奔走させる中、北樺太油田は当時風前の灯火状態だったとはいえ貴重な安定供給源である。
 簡単に譲歩に応じた松岡の態度、加えて松岡は利権解消について議定書ではなく外相書簡にすることをソ連側に提案、この書簡は秘密扱いにしつつ、中立条約のみが外交成果として強調したことも極めて不可解と言える。
 ヒトラーではなく「おそらくはスターリンに買収でもされたのではないかと思われる」などと想像してしまう。
 そもそも国際連盟脱退後、満鉄総裁として返り咲き、大調査部を発足させ、左翼からの転向者を大量に招き入れることで満鉄調査部内に「満鉄マルクス主義」を浸透させるきっかけをつくったのが松岡である。
 満鉄調査部にはその嘱託職員であった尾崎と満鉄調査部から企画院へ出向した小泉吉雄らを加えたコミンテルン人脈、それに中西功や尾崎庄太郎らを中心とする中国共産党人脈が巣くっていた(『満鉄調査部』『満鉄調査部事件の真相』小林英夫他)。
 彼らのほとんどが「エコノミスト」による「特別報告」が行われた9月9日直後から、ゾルゲ事件(41年10月)、合作者事件(41年)、満鉄調査部事件(42年、43年)や中国共産党諜報団事件(42年)で検挙されていることを考えれば、この検挙者の中に「エコノミスト」が含まれていたのだろうか。
 筆者には中国も事前に日米開戦時期をより正確につかんでいたとの情報が入っていることから、「エコノミスト」は満鉄調査部周辺の中国共産党人脈が怪しいと睨んでいる。
 中国には英国特殊作戦執行部(SOE)が深く潜入しており、コミンテルンも巻き込みながら英国・ソ連・中国間で日本情報を共有していた可能性すらある。
 その根拠の一つとして、中国国民党の国際問題研究所(IIS=Institute for International Studies)の下部部門を英国が運営したという中英共同活動があげられる。
 その下部部門とはその名も資源調査研究所(RII=Resources Investigation Institute)である。
 どうやらコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員もここに出入りしていたようだ。
 日本という大敵の存在が彼らを一瞬結びつけた。
 それぞれの利害が複雑に絡まる中で、一致を見出す戦略目標が現れたからだ。
 その戦略目標とは日本を米国と戦争させること、即ち日本を米国にぶつけることである。
 当時蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル(生産量の74%)とスタンバック(残り26%)の支配下にあった。
 スタンバックとはスタンダード・バキュームのことでスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(後にエクソンからエクソン・モービル)とスタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(後にモービルからエクソン・モービル)の極東合弁会社である。
 彼らはこれに目を付けた。
 石油で揺さぶり日本を米国と衝突させる。
 そして、石油欲しさの日本をロスチャイルドとロックフェラーの地へと追い込む。日本を南進させて虎の尾を踏ませるわけだ。
 これによって、戦争は激化し、長期化し、日本は破滅へと向かう。
 ソ連・中国としては日本の脅威を回避できる。
 英国は日本憎しで国内を結束させつつ、モンロー主義の米国を世界大戦に引き込む狙いがあった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k8/1810031.htm

→この話、興味深いので長々と引用したが、2006年10月1日にこの文章をアップしたYSという人物の松岡洋右陰謀史観には賛同し難い。
 当時の日本のインテリにはマルクス主義に染まった人間が多かったので、「転向」表明をした人間をそれが偽装「転向」であった場合のリスクを覚悟しつつ登用する、というのは一つの見識である、と言ってよかろうというのが第一点だ。
 また、既に1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
ところ、西側国境が安全になっていたソ連と、日支戦争の泥沼に足をとられていてしかも日独伊三国・・1940年9月に三国同盟締結
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
・・とソ連とを事実上の同盟関係にすることで米英を抑止したかった日本・・松岡の「大」構想・・とでは、日ソ中立条約締結の利益は日本側の方が大きかった以上、北樺太油田の利権を手放すこと等をソ連向けの手土産にするほかなかった、と考えるべきである、というのが第二点だ。(太田)

A:だけど、政府へのソ連のスパイの浸透度でいったら、当時の米国の方がはるかにひどかった。
Q:米国は、朝鮮戦争が起きるまで、本当の意味で赤露の脅威に目覚めなかったのでは?
A:そうだ。急に目覚めたからこそ、マッカーシズムのようなヒステリー現象が起きた。
 <本日昼過ぎにNHK−Hをちらっと見たら、映画『ローマの休日』の監督も脚本家もマルキスト的経歴を持ち、マッカーシズムが猖獗する中で、監督は怯えつつローマに「逃避」して、元同志達と映画作りを行い、脚本家は投獄寸前で他人の名前を借りて脚本を書いた、ということを知った。
 この話、英語ウィキペディアには出てこないが、日本語ウィキペディアの方には載っている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Holiday
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E4%BC%91%E6%97%A
Q:フランス人も米国人も、今回の大震災直後に被災者がちゃんと列をつくって救援物資の配給を受けている映像を見て異口同音に信じられないと言う。
A:それと、日本人はどんな時でも自分自身、自分の家だけでなく、その周りまで清潔にする。
 これらは、すべて、日本人の人間主義の表れなのだ。

<印象に残っている出席者の発言>

B:日本のODAは腐っている。
B:徳山二郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E4%BA%8C%E9%83%8E
は、自分の経歴の中で、陸上自衛隊の1尉であったことを長らく隠し続けた。
B:戦後日本の大企業の首脳達には、今に至るまで、支那に対して贖罪意識を持っている者が多い。どうしてなのか不思議だ。現在の駐中国大使で元伊藤忠社長の丹羽宇一郎もそうだ。
C:日本の歴史学者達は、酒が入ると、太田さんの言っているような戦前史観を結構口に出しているのだが、公の場での発言や彼らが書くものは、従来の枠から一歩も出ない戦前史観になってしまう。

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<太田>

 昨日のオフ会がらみで、私が答えなかった質問にお答えしておきましょう。

≫太田さんは、活字を追うだけでなく、土地を訪れ、人に会う、といったこともした方がよいのでは。(オフ会。NK)

 もちろん、それができたらそうした方がいいに決まっています。
 しかし、それには、時間もカネもかかります。
 今、カネはありませんし、ネットにさく時間を削るのはつらいですね。
 ネットには、私ならぬ他人が土地を訪れ、人にあって書いたコラムや記事が載っています。
 幸い、私には、幼少期から世界各地を訪れ、様々な人とめぐりあってきた蓄積があります。
 この蓄積をもとに、ネット上のコラムや記事を篩い分けて選び取り、その上澄みを掬って私が太田コラムに仕立て上げている、ということです。

≫北村淳氏<は、その>著作<の中で、>・・・「移動式のミサイル発射装置への攻撃は、そもそも技術的に難しい。だから敵基地攻撃能力云々の議論はあまり意味がない」という話と、「通常弾頭に限れば、北朝鮮のミサイルは、世間で騒がれているほど脅威ではない」といった話を、割と詳細に述べておられたと記憶します。これらに関する記述も、「読むことはお奨めできません」でしたか?≪(コラム#4759。TA)

 この話、私自身が以前、コラムでやったような記憶があるのですが、北村本の該当箇所、当たり前過ぎて印象に残らなかったといったところです。
 そもそも、ソ連の脅威論と違って、日本のマスコミでも北村本や私と同じような論調も結構出ているのではないでしょうか。 

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