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太田述正コラム#4756(2011.5.19)
<イアン・ニッシュかく語りき(その1)>(2011.8.9公開)

1 始めに

 既にお馴染みのイアン・ニッシュ(Ian Nish)の'Collected Writings of Ian Nish’Japan Library/Edition Synapse(2001年)からの適当紹介をさせていただきます。
 いわずと知れた、XXXXさん提供にかかるものです。
 まずは、PART1から。

2 イアン・ニッシュかく語りき(PART1)

 「日英同盟<に関する>交渉は、互いの国益の合致、就中ロシアに対する両国共通の不信に立脚して行われた。」(xvi)
 「確立された海軍大国である英国が発展途上の潜在的海軍大国である日本とを結びつけたのは、1900年に支那の最も豊かな部分である満州を軍事占領するに至ったところのロシアに対して両国が抱いていた嫌悪感だった。」(2)

→耳たこでしょうが、一番大事な点です。(太田)

 「若き外交官のセシル・スプリング=ライス(Cesil Spring-Rice)は、1894年に上司のために、<以下のように記した。>
 日本は東洋における、単一言語、宗教、人種である唯一の国であり、最も激しいところのその愛国心に関して、他に比類なき存在だ。もし我々が、日本にに対して平等な権利を与え、日本を文明化した国、我々の一員として扱うこととすれば、その結果は、公正で公平な本省の立派な人々(statesmen)はその通りだと言うであろうし、それに反対する者は理由なきものとみなされるであろう。」(2)
 「ベルリン<駐箚大使の>青木<周蔵>子爵は英国大使のアムプシル(Ampthill)(オド・ラッセル(Odo Russell))に大使、1883年に、日英同盟の可能性について語っている。山県<有朋>はその有名な備忘録に1890年、ロシアに対して警戒を促しつつ、いつか将来の時点で英国が、協力を求めるべき、かつ不可欠な国になるであろうと示唆する記述を行っている。」(11)

→相思相愛、阿吽の呼吸で日英同盟が締結へと至るわけです。(太田)

 「<1902年に日英同盟が締結される。>一種の逆説だが、英国以外の欧州諸国が黄禍論を唱えていたというのに、英国はその同盟国たる日本を讃え、日本との同盟を嘉していたのだ。」(3)

→陰りを見せていたとはいえ、依然、大英帝国の絶頂期にあった英国が、いかに人種主義から自由であったか、改めて敬意を表したくなりますね。(太田)

 「1883年11月26日に<英朝修好通商>条約・・・Anglo-Korean treaty of commerce and friendship・・が調印された。・・・翌年の4月に<駐日公使の後、駐支公使兼駐朝公使となっていた>パークスが、ソウルで批准書を交換した。・・・
 この条約には・・・象徴的意義もあった。<それは、>条約本文および交換公文において、朝鮮国王が独立国の君主である旨記されたところにあった。この条約を締結することで、朝鮮は支那と日本との関係において力が強化されたのだ。実際にどれだけ独立していたかはともかくとして、国際法上は、朝鮮は、英国によって、ということは世界の大部分の大国によってその独立国であることが認められた、ということなのだ。
 パークス<が記しているところから示唆されるのは、>それがロシアを牽制する目的もあったことだ。・・・
 パークスが亡くなった1885年、英国は突然ポート・ハミルトン(巨文島(Komondo))を占領した。ロシアが朝鮮の港の一つを占領しようとしていると称して・・。朝鮮もその宗主国たる支那もこの占領に強く反対し抗議を行った。英国はロシアによって激しく批判された。この困難な状況から抜け出すために、英国政府は、ロシアが支那に対し、将来朝鮮を侵略しないと保証するのであれば、巨文島から撤兵する、と支那に働きかけた。支那はロシアとこの保証に関して何度も交渉し、ロシアは、最終的に<それを>・・・誓約した。支那はこのことを英国に伝え、英国はこの停泊地から撤兵した。」(34〜36)

→この頃の英国の対外政策は、当時の日本に勝るとも劣らないところの、対露安全保障を基軸とするものであったのです。(太田)

(続く)

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