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太田述正コラム#4730(2011.5.6)
<戦間期の日英経済関係史(その1)>(2011.7.27公開)
1 始めに
今度は、XXXXさん提供の細谷千博 イアン・ニッシュ監修 木畑洋一 イアン・ニッシュ 細谷千博 田中孝彦編『日英交流史 2 政治・外交II』(?年?月)からの抜粋から適宜ピックアップして、戦間期の日英経済関係史を考察しましょう。
事柄の性格上、過去のコラムと重なる部分が多々あることをお断りしておきます。
2 アントニー・ベスト「対決への道--1931〜1941年の日英関係」
「英国<の>・・・政治的右派<、例えば、>・・・ウィンストン・チャーチル・・・は、34年2月、・・・「日本の外交政策がわが帝国を脅かす」とは考えられないと語り、満州国は「結構なもの」だとも述べ<てい>た・・・」(31)
→チャーチルは親日的であったというより、日本を見くびっていて、日本が英国を脅かすような大きな脅威になるはずがない、と思っていただけではないでしょうか。(太田)
「<しかし、それ以外の人々の間では>日本の軍事的冒険と輸出ドライブ<に対する>批判<が高まったこと>に・・・多くの日本人は、・・・一方では日本の帝国拡大を非難しておきながら、同時に自らの公式・非公式の帝国領を作出して閉じられた経済ブロックを築こうとする、西欧民主主義国の偽善のあらわれとみなした。英国の行動が人種主義で簡単に説明できると考えた日本人もいた。それは、日本が英米と等しい海軍力をもつことを拒絶する政策や、米豪の移民制限政策にすでにはっきりとあらわれていると考えられたのである。
その結果、1933年以降、日本政府の目的は東アジアでの持久的ブロック形成に置かれることになった。そのための大胆な新政策は、21〜22年のワシントン会議で作り上げられた現状を否定する含意をもち、日本はいまや、自国こそが東アジアの安全保障に責任をもつと主張し始めた。・・・
ただし、・・・日本外務省が・・・東アジア<からの>・・・英国の完全な駆逐をめざしていたわけではない。英国が日中の間を裂こうとしない限り、金融面・商業面で東アジアに英国勢力が存在することは役に立つと考えられていた。ここでの問題は明らかに、英国がいかに自国の役割の減退を受け入れ、この地域での日本の優位を認めるかということであった。・・・
日本外務省は、ネヴィル・チェンバレン蔵相を中心とする、英国政府内の親日派とみられた人びとへの働きかけを試みた。このグループは、サー・サミュエル・ホア<(コラム#4687)>やサー・ジョン・サイモン<(コラム#4691)>のような著名な政治家や、官界での支持者であった大蔵次官サー・ウォレン・フィッシャー<(フィシャー)(コラム#4685、4687、4693)>、政府主席産業顧問サー・ホラス<(ホレス)>・ウィルソン<(コラム#4687)>などの官僚たち・・・などから成り、・・・とりわけ重要な人物が・・・『モーニング・ポスト』(最も保守的な新聞)・・・の編集長H・A・グウィン<(注1)(コラム#4685)>である。彼はチェンバレンに近く、「満州国」のロンドン代表役アーサー・エドワーズ<(注2)(コラム#4685、4687)>の友人であることを利用して日本大使館とのパイプ役を演じていた。」(32〜33)
(注1)Howell Arthur Keir Gwynne。1865〜1950年。1911〜37年、London Morning Post の編集長。
http://en.wikipedia.org/wiki/Howell_Arthur_Gwynne
(注2)A.H.F. Edwards。中国海関の長(Inspector General of the Chinese Maritime Customs)を経て満州国国際連盟代表顧問(Adviser to the Maichukin delegation at Geneva)、という経歴の人物
http://newspapers.nl.sg/Digitised/Issue/straitstimes19321230.aspx
を、日本の外務省は、その後、駐英日本大使館の顧問(コラム#4685)にした、ということか。
→当時の日本の対英スタンスが手際よく説明されている箇所を選んでみました。(太田)
「第一点<として、>・・・国内とヨーロッパ諸国からの圧力のもと、英国政府が日本に対して行動しうる範囲が限られていたことを考慮に入れることである。しばしば見逃されがちであるが、満州事変での日本の行動の結果、労働党、<そして>・・・31年に成立した挙国政府に加わらず野党の立場に立った自由党員たち・・・、<更には>保守党内の国際連盟支持者たちなどの英国政界の重要な部分は、中国の主権を侵すことになるような日本との妥協に反対の姿勢をとるようになっていたのである。33年と37年の間における中国での日本の行動、日本での軍国主義の台頭とそれに伴う政治的暴力の拡大、防共協定によるドイツとの結びつきの強化という事態は、こうした反日感情を強めた。36年11月27日、日独防共協定締結の2日後に、かつては中国での日本の野望を擁護したこともあるウィンストン・チャーチル<(上出)>は、『イーヴニング・スタンダード』紙への寄稿のなかで、ヨーロッパで戦争が起これば「日本がすぐに極東で第二の戦争に火をつけることは確かである」と書いた。さらに、・・・次のように述べた。
この国では、軍国主義的心性が何よりも尊ばれている。(中略)抑制を説く声は死によって沈黙させられ、政治的な対立相手の殺害が何年も前から当たり前の行為になっている。そこでは、信を置かれている司令官でさえ、そのやり方を生ぬるいと思う支持者によって殺されてしまうのだ。<と。>
日本はこうして、狂信的な軍国主義国家であり、賤民国家として扱われるべき国であるとみなされたのである。
日本の対外政策の「不道徳性」に反対したこのような人びとに加え、日本からの輸出品による競争の増大に直面していた産業ロビーも、日本批判の声をあげた。・・・
このような雰囲気のもとでは、野党側、政府陣営双方に政治的波紋が及ぶことを避けるために、政府が日本と交渉して結ぶ取り決めが日本側の大幅な譲歩を含むものでなくてはならないことは、はっきりしていた。」(35〜37)
→既に累次(コラム#4693、4697、4702で)指摘しているように、この時点までに英国指導層が、押しなべて日本を脅威と認識した上で、日本と宥和するか敵対するかで見解が分かれていただけ、という状況になっていたことこそが問題であるわけです。
それにしても、チャーチルの日本観、無知丸出しという感じですね。彼は、BBC放送(コラム#4728)を聴くという程度の勉強さえ、日本についてしていなかったということでしょうか。(太田)
「<第二点として、>日本との接近がそれ以外の英国の外交政策を錯綜させる可能性を明らかにもっていたことである。たとえば、英国が日本に対してあまりに妥協的な態度をみせると、米国世論の反発を招き、第一次世界大戦時に英国に死活的な意味をもった米国の軍需産業や金融市場をそれ以後利用し難くなる可能性があった。さらにアジアとヨーロッパにまたがる強国であったソ連の立場も、いま一つの問題であった。英国が日本と妥協すれば、それは対ソ神経戦強化の方向に日本を誘う働きをもち、それが次には二正面戦争回避の方策としてスターリンをドイツもしくはフランスに接近させ、ヨーロッパでの危機が緩和するどころか激化するおそれが存在したのである。それに加え、日本との取引が中国世論の英国からの疎隔を招き、英商品のボイコットにつながって、日本の譲歩がもたらすはずの利益をだいなしにしてしまうことも懸念された。
<第三点として、>1919年から、英国の情報機関は日本外務省の電報傍受に成功し・・・ていた。<この方法によって>30年代中葉にもたらされた情報は日本に対する警戒が必要であることを示していた。」(37〜38)
→このように、当時の英国が、欧州における強国出現の脅威を赤露の脅威よりも重視していた、ということも大きな問題でした。
そして何よりも、「英国が・・・自国の役割の減退を受け入れ、<東アジア>地域での日本の優位を認める」ことができず、支那における自国の権益の維持にこだわった点に最大の問題があったのです。(太田)
(続く)
<戦間期の日英経済関係史(その1)>(2011.7.27公開)
1 始めに
今度は、XXXXさん提供の細谷千博 イアン・ニッシュ監修 木畑洋一 イアン・ニッシュ 細谷千博 田中孝彦編『日英交流史 2 政治・外交II』(?年?月)からの抜粋から適宜ピックアップして、戦間期の日英経済関係史を考察しましょう。
事柄の性格上、過去のコラムと重なる部分が多々あることをお断りしておきます。
2 アントニー・ベスト「対決への道--1931〜1941年の日英関係」
「英国<の>・・・政治的右派<、例えば、>・・・ウィンストン・チャーチル・・・は、34年2月、・・・「日本の外交政策がわが帝国を脅かす」とは考えられないと語り、満州国は「結構なもの」だとも述べ<てい>た・・・」(31)
→チャーチルは親日的であったというより、日本を見くびっていて、日本が英国を脅かすような大きな脅威になるはずがない、と思っていただけではないでしょうか。(太田)
「<しかし、それ以外の人々の間では>日本の軍事的冒険と輸出ドライブ<に対する>批判<が高まったこと>に・・・多くの日本人は、・・・一方では日本の帝国拡大を非難しておきながら、同時に自らの公式・非公式の帝国領を作出して閉じられた経済ブロックを築こうとする、西欧民主主義国の偽善のあらわれとみなした。英国の行動が人種主義で簡単に説明できると考えた日本人もいた。それは、日本が英米と等しい海軍力をもつことを拒絶する政策や、米豪の移民制限政策にすでにはっきりとあらわれていると考えられたのである。
その結果、1933年以降、日本政府の目的は東アジアでの持久的ブロック形成に置かれることになった。そのための大胆な新政策は、21〜22年のワシントン会議で作り上げられた現状を否定する含意をもち、日本はいまや、自国こそが東アジアの安全保障に責任をもつと主張し始めた。・・・
ただし、・・・日本外務省が・・・東アジア<からの>・・・英国の完全な駆逐をめざしていたわけではない。英国が日中の間を裂こうとしない限り、金融面・商業面で東アジアに英国勢力が存在することは役に立つと考えられていた。ここでの問題は明らかに、英国がいかに自国の役割の減退を受け入れ、この地域での日本の優位を認めるかということであった。・・・
日本外務省は、ネヴィル・チェンバレン蔵相を中心とする、英国政府内の親日派とみられた人びとへの働きかけを試みた。このグループは、サー・サミュエル・ホア<(コラム#4687)>やサー・ジョン・サイモン<(コラム#4691)>のような著名な政治家や、官界での支持者であった大蔵次官サー・ウォレン・フィッシャー<(フィシャー)(コラム#4685、4687、4693)>、政府主席産業顧問サー・ホラス<(ホレス)>・ウィルソン<(コラム#4687)>などの官僚たち・・・などから成り、・・・とりわけ重要な人物が・・・『モーニング・ポスト』(最も保守的な新聞)・・・の編集長H・A・グウィン<(注1)(コラム#4685)>である。彼はチェンバレンに近く、「満州国」のロンドン代表役アーサー・エドワーズ<(注2)(コラム#4685、4687)>の友人であることを利用して日本大使館とのパイプ役を演じていた。」(32〜33)
(注1)Howell Arthur Keir Gwynne。1865〜1950年。1911〜37年、London Morning Post の編集長。
http://en.wikipedia.org/wiki/Howell_Arthur_Gwynne
(注2)A.H.F. Edwards。中国海関の長(Inspector General of the Chinese Maritime Customs)を経て満州国国際連盟代表顧問(Adviser to the Maichukin delegation at Geneva)、という経歴の人物
http://newspapers.nl.sg/Digitised/Issue/straitstimes19321230.aspx
を、日本の外務省は、その後、駐英日本大使館の顧問(コラム#4685)にした、ということか。
→当時の日本の対英スタンスが手際よく説明されている箇所を選んでみました。(太田)
「第一点<として、>・・・国内とヨーロッパ諸国からの圧力のもと、英国政府が日本に対して行動しうる範囲が限られていたことを考慮に入れることである。しばしば見逃されがちであるが、満州事変での日本の行動の結果、労働党、<そして>・・・31年に成立した挙国政府に加わらず野党の立場に立った自由党員たち・・・、<更には>保守党内の国際連盟支持者たちなどの英国政界の重要な部分は、中国の主権を侵すことになるような日本との妥協に反対の姿勢をとるようになっていたのである。33年と37年の間における中国での日本の行動、日本での軍国主義の台頭とそれに伴う政治的暴力の拡大、防共協定によるドイツとの結びつきの強化という事態は、こうした反日感情を強めた。36年11月27日、日独防共協定締結の2日後に、かつては中国での日本の野望を擁護したこともあるウィンストン・チャーチル<(上出)>は、『イーヴニング・スタンダード』紙への寄稿のなかで、ヨーロッパで戦争が起これば「日本がすぐに極東で第二の戦争に火をつけることは確かである」と書いた。さらに、・・・次のように述べた。
この国では、軍国主義的心性が何よりも尊ばれている。(中略)抑制を説く声は死によって沈黙させられ、政治的な対立相手の殺害が何年も前から当たり前の行為になっている。そこでは、信を置かれている司令官でさえ、そのやり方を生ぬるいと思う支持者によって殺されてしまうのだ。<と。>
日本はこうして、狂信的な軍国主義国家であり、賤民国家として扱われるべき国であるとみなされたのである。
日本の対外政策の「不道徳性」に反対したこのような人びとに加え、日本からの輸出品による競争の増大に直面していた産業ロビーも、日本批判の声をあげた。・・・
このような雰囲気のもとでは、野党側、政府陣営双方に政治的波紋が及ぶことを避けるために、政府が日本と交渉して結ぶ取り決めが日本側の大幅な譲歩を含むものでなくてはならないことは、はっきりしていた。」(35〜37)
→既に累次(コラム#4693、4697、4702で)指摘しているように、この時点までに英国指導層が、押しなべて日本を脅威と認識した上で、日本と宥和するか敵対するかで見解が分かれていただけ、という状況になっていたことこそが問題であるわけです。
それにしても、チャーチルの日本観、無知丸出しという感じですね。彼は、BBC放送(コラム#4728)を聴くという程度の勉強さえ、日本についてしていなかったということでしょうか。(太田)
「<第二点として、>日本との接近がそれ以外の英国の外交政策を錯綜させる可能性を明らかにもっていたことである。たとえば、英国が日本に対してあまりに妥協的な態度をみせると、米国世論の反発を招き、第一次世界大戦時に英国に死活的な意味をもった米国の軍需産業や金融市場をそれ以後利用し難くなる可能性があった。さらにアジアとヨーロッパにまたがる強国であったソ連の立場も、いま一つの問題であった。英国が日本と妥協すれば、それは対ソ神経戦強化の方向に日本を誘う働きをもち、それが次には二正面戦争回避の方策としてスターリンをドイツもしくはフランスに接近させ、ヨーロッパでの危機が緩和するどころか激化するおそれが存在したのである。それに加え、日本との取引が中国世論の英国からの疎隔を招き、英商品のボイコットにつながって、日本の譲歩がもたらすはずの利益をだいなしにしてしまうことも懸念された。
<第三点として、>1919年から、英国の情報機関は日本外務省の電報傍受に成功し・・・ていた。<この方法によって>30年代中葉にもたらされた情報は日本に対する警戒が必要であることを示していた。」(37〜38)
→このように、当時の英国が、欧州における強国出現の脅威を赤露の脅威よりも重視していた、ということも大きな問題でした。
そして何よりも、「英国が・・・自国の役割の減退を受け入れ、<東アジア>地域での日本の優位を認める」ことができず、支那における自国の権益の維持にこだわった点に最大の問題があったのです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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