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太田述正コラム#4705(2011.4.24)
<先の大戦直前の日本の右翼(その3)>(2011.7.15公開)

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<補注>

 --戦前における支那ナショナリズムのいかがわしさについて--

 ここで、ごく簡単に表記に触れておこう。
 中国国民党は、その英語表記がChinese Nationalist Partyである
http://en.wikipedia.org/wiki/Kuomintang
ことが示すように、文字通り、当時の支那ナショナリズムを体現していることを標榜する組織であった。
 しかし、その前身は、孫文(Sun Yat-sen)の私党たる1914年の中国革命党(Chinese Revolutionary Party)だったし、これを再建して1919年に発足した中国国民党は、容共全体主義政党だった。
 ちなみに、中国革命党/中国国民党は、台湾時代はともかくとして、一度も選挙の洗礼を受けていない。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Kuomintang

 その中国国民党は果たして支那の民のことに思いをいたしていただろうか。

 例えば下掲から、到底そうは思えない。↓

 「欧米は、有名な米国人ジャーナリストのセドア・ホワイト(Theodore White)が、湖南省(Hunan province)の人々は餓死しかかっていて、生き残るために樹皮や葉っぱを食べているというのに、蒋介石の軍隊の倉庫に穀物が溢れている、と報じるまで、国民党の残虐行為について知らなかった。」
http://factsanddetails.com/china.php?itemid=60&catid=2&subcatid=5

 また、以下は1937年の上海事変(第二次上海事変)の時の話だが、事実だとすれば、国民党政府は、単に大きな軍閥に過ぎなかったと見るほかあるまい。
 残念なのは、典拠が日本の新聞ばかりであり、日本の新聞には、毎日新聞の前身によるところの、当時の百人切り競争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89
の記事のように、日本人だけの証言に基づき、十分ウラを取らずに書かれた記事もあることであり、支那紙や欧米紙の記事の典拠が一つくらいは欲しかったところだ。↓

 「日中戦争において中国側国民革命軍<(中国国民党の軍隊)>は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された[18]。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが[19]、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている[20]。中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた[21]。上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた[22]。

18.^ 『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊 2面
19.^ 『読売新聞』 1937年8月29日付第二夕刊 1面
20.^ 『東京朝日新聞』 1937年11月14日付夕刊 2面
21.^ 『東京朝日新聞』 1937年11月10日付夕刊 1面
22.^ 『東京朝日新聞』 1937年11月11日付夕刊 1面」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

 他方、中国共産党については、富農等についてはともかく、貧民をないがしろにしたり貧民から掠奪したりした話は聞かないないが、その代わり、同党は、赤露の手先であり、あえて言えばオウム真理教的狂信者の集団であり、かかる意味では、支那の人々にとっては、中国国民党よりも一層おぞましい存在だった。
 ただ、そのことに日本人は気づいていたけれど、当時の支那の人々は全く気付いていなかったわけだ。

 (ところで、上述のように、中国国民党軍には掠奪がつきものであったほか、中国国民党軍と中国共産党軍との戦いでは、互いに相手・・と思いたい・・の負傷者は捕虜とすることなく殺害していたようだ。
(MacKinnon, Stephen R., and Oris Friesen China Reporting: An Oral History of American Journalism in the 1930s and 1940s. Berkeley: University of California Press, c1987を典拠とする下掲↓による。)
http://publishing.cdlib.org/ucpressebooks/view?docId=ft1s2004h3;chunk.id=d0e3508;doc.view=print

 帝国陸軍による日支戦争における支那での掠奪や、先の大戦におけるマレー/シンガポールの戦いの際の英帝国軍傷病兵の殺害は、帝国陸軍が、支那での中小軍閥、国民党軍、中共軍との戦いを通じて汚染された、という部分もかなりあるのではないだろうか。)

 以上を踏まえれば、当時、支那のナショナリズム、より正確には漢人ナショナリズムは確かに存在していたであろうけれど、それを利用して権力を追求する者や組織こそあったものの、それを体現して漢人のために尽力する者も組織も当時の支那の漢人の間には存在しなかった、と言ってよかろう。
 いや、全く存在しなかったわけではない。
 日本との連携を追求した親日の漢人達である。

 このように見てくると、石原莞爾が提起したと永井が指摘するところの、前出の「中国ナショナリズムを如何にすれば「軍国日本」<(・・「軍国」は余計である(太田)・・)>の「味方」に転化させることができ、もって戦争を終結に導くことが可能となるのか、という難問」なるものは、合理論的に頭の中だけででっちあげられたもの、と言いたくなってくる。
 帝国陸軍主流が、経験論的に中国国民党軍(と中共軍)の撃破を通じて蒋介石政権を打倒し、親日政権を樹立しようとしたことは、極めて論理的かつ合理的であった、ということだ。
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(続く)

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