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太田述正コラム#4695(2011.4.19)
<再び日本の戦間期について(その8)>(2011.7.10公開)
「<この時期の>イギリスの関心のもうひとつの要素はインド問題であった。1905年、日英同盟締結の背後にあった要素のひとつがインドであったことはもちろんである。というのは、イギリスはインド辺境をロシアから防衛するため、日本の助けを必要としたからである。1920〜30年代においては、インド問題のこのような側面は、既に歴史の底辺に埋没してしまっていた・・・。モンターギュ・チェルムスフォード改革(Montagu-Chelmsford reforms)、英印円卓会議、1931年のウェストミンスター条令で決着をみた自治領提議をめぐる闘争、1935年のインド政府法党、これらはすべて英帝国内の独立に向う動きであり、その背後には英帝国主義は・・・少なくとも根本的に変化しつつある、という認識が存在した。中国問題に対するイギリスの態度は、A・チェンバレンやサイモン、さらには後のハリファックス(Lord Halifax)らの見解に見られるように、インドに対する変化しつつある態度によって左右された。端的にいうならば1925年以降、イギリスと日本は中国をめぐって、次第に離れていったのであり、中国こそが両国間の最も深刻な対決の場<とな>ったのである。」(76)
→ここは、どうして英国が、戦間期において伝統的な対ロシア/赤露安全保障感覚が鈍磨してしまっていたかの一つの説明である、と我々は受け止めることができるでしょう。
すなわち、インド亜大陸は早晩手放さなければならない、との認識の下、平時と有事において極東において日本の対ロシア/赤露安全保障に期待したり、有事において日本にインド亜大陸防衛に協力してもらうことを期待したりする英国にとっての必要性が減少した、と。
そして、そうなると、せめて、支那における英国の権益を、支那の有力勢力に取り入りつつ、日本の支那における影響力増大に抵抗することによって守らなければならない、ということになるし、豪州やニュージーランドに対する日本の脅威に前方で備えるために、英領マレー植民地、就中シンガポールは死守しなければならない、ということになるわけです。(太田)
「日英対立のもうひとつの場は、英帝国圏貿易であった。大不況以後日本は、中国市場を拡大できず、貿易対象を中国以外の地域に転じようとしていた。日本にとっては、アメリカ、中国に次ぐ交易相手はインドであったが、1933年、インドは1903年の日印通商協定<(条約)(コラム#4671)>の廃棄を要求した。他の英帝国圏も、関税を設定して日本からの輸入を制限しようとした。英連邦諸国のこのような動きは、恐らくひとつにはオタワ会議<(注24)>の結果によるものであったろう。」(76〜77)
(注24)Ottawa Conference(正式名称は大英帝国経済会議(British Empire Economic Conference))。1932年7月21日から8月20日にかけてオタワで実施され、大恐慌について審議した。そして、(チャーチルが蔵相時に実施した金解禁政策の失敗を踏まえた)金本位制の廃止を確認するとともに、(当時無冠となっていたチャーチルが反対したところの、)域内での低関税地域の設置と帝国外に対する高関税化を決定した。
http://en.wikipedia.org/wiki/British_Empire_Economic_Conference
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill
→そのくせ、もともとは米国のせいで起こった大恐慌のせいだとはいえ、英本国の目先の経済的利益のために、英帝国圏の市場への諸外国の輸出を困難にすることによって、インド市場をめぐって、日本の反感を買うことになったわけです。
ヴィクトリア時代至上主義者という意味での頑固な保守主義者であったチャーチルは、一、金解禁(金本位制への復帰)、二、大英帝国経済ブロック化反対、そして、三、大英帝国の維持(インド独立阻止)を唱えていたところ、一の旗を降ろしつつも、二と三については旗を降ろさなかった
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill 上掲
のですから、彼が親日政策をとっても決して不思議ではなかったというのに、彼が先の大戦にめがけて反日政策をとったことは、彼のためにも残念で仕方ありません。
このような論理的一貫性を欠く政策をチャーチルがとったために、彼は大英帝国を過早に瓦解させることになった、ということになります。(太田)
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<参考>
外務省情報部長を務めていた1934年4月に、欧米諸国によって「東亜モンロー主義」宣言と解釈されたところの非公式談話「天羽声明」を発出し、1941〜43年に外務次官、1945年からは内閣情報局総裁を務めた天羽英二
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%BE%BD%E8%8B%B1%E4%BA%8C
は、外務次官時代の1941年に「次のように発言している。「・・・巴里の会議に於て人種平等の案を提出すれば英帝国代表の反対あり、満州事変により生存権を要求せんとせば英国の反対あり、日本人が海外に出んとするや英国植民地は門戸を閉鎖し更に数年前には日本商品に対し英国は高率の関税を課し「クオータ」制を設け、之を閉め出せり 此の如く日本人が人に依り又商品に依り自然に伸びんとするに際し常に英国の反対あり。換言すれば日本の自然的発展には英国の妨害ありとの事実は日英当局に於て深甚なる考慮を費すべき点なりと考ふ、端的に云へば我々は英国人が若し日本人の立場に在りとすれば如何に考ふるであらうと云ふことを常に念頭に置かれ度ものなり」」(156)
これは、この間英国に比してより反日的であった米国、及び、日本の対赤露安全保障政策への英国の無理解、への言及がない点でいかにも日本の外務省キャリアらしい発言ではあるものの、当時の日本人の抱いていた反英感情のゆえんを素直に述べたものと言えよう。
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4 ヘンリー・プロバート「イギリスの戦略と極東戦争」
「シンガポール海軍基地を建設することは決定されたが、・・・海・陸軍両省ともに、将来における航空へ威力の可能性についてはほとんど耳を傾けず、同基地は海上からの攻撃に耐えるよう設計された固定砲台によって充分に防衛できる、と楽観していた。・・・
<ところが、>ドビー将軍(General Dobbie)<(注25)>・・・は1937年に<正しくも>こう予測していたのである。シンガポールに対する日本軍の攻撃には、タイ南部およびマレー半島北東部への上陸経由の方法・・・の可能性が最も大きい、と。<しかし、態勢の変更はなされなかった。>」(116)
(注25)Lieutenant-General Sir William George Shedden Dobbie。1879〜1964年。英領マレー軍司令官:1935〜39年。最終的に英陸軍中将。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Dobbie
→冷静かつ常識的な判断が尊重されない、という良い事例ですね。(太田)
「<以上のような誤った態勢のままであったことに加え、1940〜41年においては、英国政府には、>ヨーロッパの戦争で間接的役割しか演じないアメリカ合衆国は、日本と開戦の暁には直接的役割を担うのが当然とする信念があった。そして、即時待機の状態にある米太平洋艦隊や在フィリピン米軍の存在を高く氷解して、イギリスがマレーに限られた戦力しか持っていなくても、日本軍の進攻は阻止されるだろうと楽観し、また日本軍の戦力をいたって過小評価していたのである。」(118)
→日本が対英のみ開戦を行った場合には米国の参戦は保証されていないことを無視した考えである点がそもそも問題です。(太田)
「<結局シンガポールは陥落する。>過去におけるインドの軍事組織は、インド北西部からの脅威に対応すべく編制されていた。東方からの攻撃の可能性はそれまで全く考慮されていなかったので、全面的再編制が必要となった。」(120)
→東方からは地勢的に攻められにくい、ということもありますが、要は、英領インドに対するそれまでの唯一最大の脅威はロシア/赤露の脅威であり、それは北西からのものであったということです。(太田)
(続く)
<再び日本の戦間期について(その8)>(2011.7.10公開)
「<この時期の>イギリスの関心のもうひとつの要素はインド問題であった。1905年、日英同盟締結の背後にあった要素のひとつがインドであったことはもちろんである。というのは、イギリスはインド辺境をロシアから防衛するため、日本の助けを必要としたからである。1920〜30年代においては、インド問題のこのような側面は、既に歴史の底辺に埋没してしまっていた・・・。モンターギュ・チェルムスフォード改革(Montagu-Chelmsford reforms)、英印円卓会議、1931年のウェストミンスター条令で決着をみた自治領提議をめぐる闘争、1935年のインド政府法党、これらはすべて英帝国内の独立に向う動きであり、その背後には英帝国主義は・・・少なくとも根本的に変化しつつある、という認識が存在した。中国問題に対するイギリスの態度は、A・チェンバレンやサイモン、さらには後のハリファックス(Lord Halifax)らの見解に見られるように、インドに対する変化しつつある態度によって左右された。端的にいうならば1925年以降、イギリスと日本は中国をめぐって、次第に離れていったのであり、中国こそが両国間の最も深刻な対決の場<とな>ったのである。」(76)
→ここは、どうして英国が、戦間期において伝統的な対ロシア/赤露安全保障感覚が鈍磨してしまっていたかの一つの説明である、と我々は受け止めることができるでしょう。
すなわち、インド亜大陸は早晩手放さなければならない、との認識の下、平時と有事において極東において日本の対ロシア/赤露安全保障に期待したり、有事において日本にインド亜大陸防衛に協力してもらうことを期待したりする英国にとっての必要性が減少した、と。
そして、そうなると、せめて、支那における英国の権益を、支那の有力勢力に取り入りつつ、日本の支那における影響力増大に抵抗することによって守らなければならない、ということになるし、豪州やニュージーランドに対する日本の脅威に前方で備えるために、英領マレー植民地、就中シンガポールは死守しなければならない、ということになるわけです。(太田)
「日英対立のもうひとつの場は、英帝国圏貿易であった。大不況以後日本は、中国市場を拡大できず、貿易対象を中国以外の地域に転じようとしていた。日本にとっては、アメリカ、中国に次ぐ交易相手はインドであったが、1933年、インドは1903年の日印通商協定<(条約)(コラム#4671)>の廃棄を要求した。他の英帝国圏も、関税を設定して日本からの輸入を制限しようとした。英連邦諸国のこのような動きは、恐らくひとつにはオタワ会議<(注24)>の結果によるものであったろう。」(76〜77)
(注24)Ottawa Conference(正式名称は大英帝国経済会議(British Empire Economic Conference))。1932年7月21日から8月20日にかけてオタワで実施され、大恐慌について審議した。そして、(チャーチルが蔵相時に実施した金解禁政策の失敗を踏まえた)金本位制の廃止を確認するとともに、(当時無冠となっていたチャーチルが反対したところの、)域内での低関税地域の設置と帝国外に対する高関税化を決定した。
http://en.wikipedia.org/wiki/British_Empire_Economic_Conference
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill
→そのくせ、もともとは米国のせいで起こった大恐慌のせいだとはいえ、英本国の目先の経済的利益のために、英帝国圏の市場への諸外国の輸出を困難にすることによって、インド市場をめぐって、日本の反感を買うことになったわけです。
ヴィクトリア時代至上主義者という意味での頑固な保守主義者であったチャーチルは、一、金解禁(金本位制への復帰)、二、大英帝国経済ブロック化反対、そして、三、大英帝国の維持(インド独立阻止)を唱えていたところ、一の旗を降ろしつつも、二と三については旗を降ろさなかった
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill 上掲
のですから、彼が親日政策をとっても決して不思議ではなかったというのに、彼が先の大戦にめがけて反日政策をとったことは、彼のためにも残念で仕方ありません。
このような論理的一貫性を欠く政策をチャーチルがとったために、彼は大英帝国を過早に瓦解させることになった、ということになります。(太田)
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<参考>
外務省情報部長を務めていた1934年4月に、欧米諸国によって「東亜モンロー主義」宣言と解釈されたところの非公式談話「天羽声明」を発出し、1941〜43年に外務次官、1945年からは内閣情報局総裁を務めた天羽英二
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%BE%BD%E8%8B%B1%E4%BA%8C
は、外務次官時代の1941年に「次のように発言している。「・・・巴里の会議に於て人種平等の案を提出すれば英帝国代表の反対あり、満州事変により生存権を要求せんとせば英国の反対あり、日本人が海外に出んとするや英国植民地は門戸を閉鎖し更に数年前には日本商品に対し英国は高率の関税を課し「クオータ」制を設け、之を閉め出せり 此の如く日本人が人に依り又商品に依り自然に伸びんとするに際し常に英国の反対あり。換言すれば日本の自然的発展には英国の妨害ありとの事実は日英当局に於て深甚なる考慮を費すべき点なりと考ふ、端的に云へば我々は英国人が若し日本人の立場に在りとすれば如何に考ふるであらうと云ふことを常に念頭に置かれ度ものなり」」(156)
これは、この間英国に比してより反日的であった米国、及び、日本の対赤露安全保障政策への英国の無理解、への言及がない点でいかにも日本の外務省キャリアらしい発言ではあるものの、当時の日本人の抱いていた反英感情のゆえんを素直に述べたものと言えよう。
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4 ヘンリー・プロバート「イギリスの戦略と極東戦争」
「シンガポール海軍基地を建設することは決定されたが、・・・海・陸軍両省ともに、将来における航空へ威力の可能性についてはほとんど耳を傾けず、同基地は海上からの攻撃に耐えるよう設計された固定砲台によって充分に防衛できる、と楽観していた。・・・
<ところが、>ドビー将軍(General Dobbie)<(注25)>・・・は1937年に<正しくも>こう予測していたのである。シンガポールに対する日本軍の攻撃には、タイ南部およびマレー半島北東部への上陸経由の方法・・・の可能性が最も大きい、と。<しかし、態勢の変更はなされなかった。>」(116)
(注25)Lieutenant-General Sir William George Shedden Dobbie。1879〜1964年。英領マレー軍司令官:1935〜39年。最終的に英陸軍中将。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Dobbie
→冷静かつ常識的な判断が尊重されない、という良い事例ですね。(太田)
「<以上のような誤った態勢のままであったことに加え、1940〜41年においては、英国政府には、>ヨーロッパの戦争で間接的役割しか演じないアメリカ合衆国は、日本と開戦の暁には直接的役割を担うのが当然とする信念があった。そして、即時待機の状態にある米太平洋艦隊や在フィリピン米軍の存在を高く氷解して、イギリスがマレーに限られた戦力しか持っていなくても、日本軍の進攻は阻止されるだろうと楽観し、また日本軍の戦力をいたって過小評価していたのである。」(118)
→日本が対英のみ開戦を行った場合には米国の参戦は保証されていないことを無視した考えである点がそもそも問題です。(太田)
「<結局シンガポールは陥落する。>過去におけるインドの軍事組織は、インド北西部からの脅威に対応すべく編制されていた。東方からの攻撃の可能性はそれまで全く考慮されていなかったので、全面的再編制が必要となった。」(120)
→東方からは地勢的に攻められにくい、ということもありますが、要は、英領インドに対するそれまでの唯一最大の脅威はロシア/赤露の脅威であり、それは北西からのものであったということです。(太田)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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