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太田述正コラム#4649(2011.3.27)
<ロシア革命と日本(その9)>(2011.6.17公開)
「11月3日の山県との会談において、<原敬>は語っていた。
「人民は何時とはなく国外の空気に感染し居れば、煽動者あれば何時も起るの内情なれば、之が煽動者を相当に取扱ふの他なく、又内閣として可成人民と接触して彼等の暴挙を未然に止むるの外なし」
ここには西方の革命のもたらす日本の国内政治状況へのインパクトを、ようやく憂慮しはじめた政治指導者の心理を見ることができるであろう。・・・
原敬が政治指導の最高の責任を負ったのは、・・・米騒動、労働争議と、一般大衆が支配層に対して挑戦の行動をしめしはじめた・・・状況のもとにおいてであった。・・・<彼が、>それらの一連の事件の上にロシア革命の影響を見はじめたとしても不思議はなかったのである。それとともに、このような国内情勢の展開は、原首相をして、<前内閣の>シベリア出兵政策の再評価に、また・・・<英仏流の>「反過激派」の擁立工作への関心増大へと、導いていったのではなかろうか?」(110〜111)
→ここは細谷の推量に完全に同意です。(太田)
「9月8日から23日まで、ウファ<(注10)>会議<が>開催<され、>・・・5人の頭領から成る全露臨時政府の成立を見た・・・。・・・
国防相の椅子に・・・は、・・・コルチャクがこれにつくことには比較的問題が少なかった<が、>・・・エス・エル派<(注11)と>・・・ツァーリズムの復活<を標榜していた>・・・旧帝政将校を中心とする反動派の>・・・権力闘争ははげしかった。・・・
チャーチル W.S. Churchill 英陸相からとくに反革命軍組織の任務を授けられて、10月オムスクに到着したノックス W.F. Knox 将軍は、・・・コルチャクを最高指導者とする軍事的独裁政権の構想の実現につとめ・・た・・・。
11月8日、コサックの将校をリーダーとするオムスク駐屯軍の一部は、・・・エス・エル派の要人逮捕に踏みきり、それとともに、全露臨時・・・政府は・・・コルチャクに最高権力の行使を一任し、彼に「最高統帥者」の称号をあたえることを決定したのである。」(116〜120)
(注10)現在は、「ロシア連邦中央部に位置するバシコルトスタン共和国(バシキリア)の首都。・・・アジアとヨーロッパの境界線となるウラル山脈の分水嶺へは東へ100キロメートル。モスクワから1567キロメートル。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%95%E3%82%A1
(注11)社会革命党の略称。「ナロードニキの流れを組む革命政党として、・・・1901年に結成。・・・セルゲイ大公等の要人を暗殺した。・・・社会革命党左派(左翼社会革命党、左翼エスエル)は、ボリシェヴィキと共にロシア十月革命後の革命政権の主要な一翼を担うが、1918年にブレスト=リトフスク条約締結に反対・・・その後ボリシェヴィキの専制的体質に対し、・・・抵抗運動を続けるが、その後、武装蜂起し、弾圧されたため多くが逮捕・処刑されるか海外に亡命した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A
→英国が反ボリシェヴィキ勢力を糾合してコルチャク政権を擁立した、ということです。(太田)
「<原の日本>政府<は、>コルチャク政権支持という新政策を<採択し、これを>実行するにあたり、・・・海軍提督として、旧体制の支配層に属し、性格的には高潔ではあるが雅量に乏しいコルチャクと、シベリアの田舎育ちで、粗野で武勇自慢の若年のセミョーノフ・・・一方はイギリスの好意をたのんでツェーリズムの再興に忠誠心をかけており、他方は日本・・・<就中>参謀本部・・・の後ろ盾によって、ひそかに東シベリアから蒙古にかけてジンギスカン王国の再興を夢みていた<ところの>両者・・・<の>勢力の対立・・・<に>まず直面した・・・。」(120〜121)
→日本は、ボルシェヴィキ政権であろうと反ボルシェヴィキ政権であろうと、統一ロシアの専制的性格は変わらないとの判断の下、シベリアに日本の息のかかった緩衝国家を樹立することで、日本の対露安全保障を遺漏なからしめようと考えていたわけですが、原新政権は、翻意し大化けして大政治家となった原首相や既に大政治家の片鱗を現していた田中義一陸相(後に首相)のリーダーシップの下、この前政権の方針を改め、英国に同調して、次善の策たる反ボルシェヴィキ統一ロシア政権樹立に向けて舵を切ったということです。(太田)
「<そこで。原内閣は、>田中陸相<を通じて、>セミョーノフの行動を抑制するとともに、政府の<ボリシェヴィズムとの対抗/対ソ干渉戦争という>新政策に抵抗する現地陸軍の動きを封殺せん<とした。>・・・
<1920年>5月16日の閣議決定によって、前年の11月以来、ボリシェヴィズムとの対抗の路線を重視し、統一された反革命政権のシベリアにおける出現を望みはじめた原内閣のシベリア政策は、その転換運動を一応完了する。・・・
<ところが、米国にはもちろん、英国にさえ、>原内閣によって・・・新しいシベリア政策<が>・・・進められようとしたことについて・・・<ついに十分>理解<されることはなかった。>・・・
<とまれ、>コルチャク政権の<列国による>共同承認について、日本政府はイニシァティブをとることを決定した。・・・
この<日本政府の提案>が、<ヴェルサイユ会議参加中のパリの>米英仏伊の四大国首脳から構成される四人会議 Council of Four でとり上げられたのは5月23日である・・・。」(124〜125、136〜137)
→しかし、原内閣の新方針は、そのようなものとして、十分米英等には認識してもらえなかったわけですが、これもやはり、日本の外務省の怠慢のせいであるということになるのではないでしょうか。
それはともかく、コルチャック政権承認提案を行った原は、形の上では、全球的な大政治家としてのイニシアティブを発揮したことになります。(太田)
「イギリス軍部のコルチャク政権にかけた期待は大きかった。イギリス外務省も、コルチャク政権支持には当初から熱意をもっていた。たとえば、1919年・・・4月には、・・・オムスク駐在の高等弁務官エリオット Sir Charles Eliot は、・・・コルチャク政権承認の勧告を政府に行っ・・・た・・・。
<しかし、>ロイド・ジョージ首相は、チャーチルらと対ボリシェヴィキ方策を異にしており、革命、反革命両派代表の話し合いによるロシア問題解決策の発見・・・<を追求し続けた。>」(139)
「<また、米>国務省から<コルチャク政権>承認勧告をうけたウィルスン大統領<も>、・・・革命、反革命両派の話し合い・・・による、民主的政府樹立<という>ヴィジョン<を>描いていたと見ることができて、この点からボリシェヴィキ政府にしても、コルチャク政権にしても、いずれもその独裁的性格のゆえに、全露政府についての彼の理想と背馳するものとみ<てい>たのである。・・・
<それでも、パリの>ウィルスンは、・・・国務省の方針に、・・・コルチャク政権側の≪民主化≫の保障<が得られれば>・・・同意の態度をとった・・・。」(140〜141)
→しかし、遺憾ながら、原に匹敵するような見識を持った最高首脳を、当時の英国も米国も擁しておらず、荏苒時間を空費してしまうのです。(太田)
「<しかし、>コルチャク軍が驚異的速度で西方に進撃しているとの報から、北ロシアの反革命軍との連絡、またモスコー攻略すら近いとする観測<が>、5月の四人会議で受け入れられていた<ところ、>・・・5月に入ると、ウラル戦線の実況は、連合国指導者の描く影像とは余程様相を異にしていた。すでに局面は転換をはじめ、戦線の主導権を奪還したボリシェヴィキ軍は守勢から攻勢に移っていたのである。・・・ヴェルサイフ会議の指導者たち<は>・・・6月に入って・・・事態についての・・・虚像を修正しはじめる<のである>・・・。」(143)
→そんな折、コルチャック政権は窮状に陥ってしまい、赤露の脅威を蕾の内に切除するという千載一遇の機会を自由民主主義陣営は逸してしまうのです。(太田)
(続く)
<ロシア革命と日本(その9)>(2011.6.17公開)
「11月3日の山県との会談において、<原敬>は語っていた。
「人民は何時とはなく国外の空気に感染し居れば、煽動者あれば何時も起るの内情なれば、之が煽動者を相当に取扱ふの他なく、又内閣として可成人民と接触して彼等の暴挙を未然に止むるの外なし」
ここには西方の革命のもたらす日本の国内政治状況へのインパクトを、ようやく憂慮しはじめた政治指導者の心理を見ることができるであろう。・・・
原敬が政治指導の最高の責任を負ったのは、・・・米騒動、労働争議と、一般大衆が支配層に対して挑戦の行動をしめしはじめた・・・状況のもとにおいてであった。・・・<彼が、>それらの一連の事件の上にロシア革命の影響を見はじめたとしても不思議はなかったのである。それとともに、このような国内情勢の展開は、原首相をして、<前内閣の>シベリア出兵政策の再評価に、また・・・<英仏流の>「反過激派」の擁立工作への関心増大へと、導いていったのではなかろうか?」(110〜111)
→ここは細谷の推量に完全に同意です。(太田)
「9月8日から23日まで、ウファ<(注10)>会議<が>開催<され、>・・・5人の頭領から成る全露臨時政府の成立を見た・・・。・・・
国防相の椅子に・・・は、・・・コルチャクがこれにつくことには比較的問題が少なかった<が、>・・・エス・エル派<(注11)と>・・・ツァーリズムの復活<を標榜していた>・・・旧帝政将校を中心とする反動派の>・・・権力闘争ははげしかった。・・・
チャーチル W.S. Churchill 英陸相からとくに反革命軍組織の任務を授けられて、10月オムスクに到着したノックス W.F. Knox 将軍は、・・・コルチャクを最高指導者とする軍事的独裁政権の構想の実現につとめ・・た・・・。
11月8日、コサックの将校をリーダーとするオムスク駐屯軍の一部は、・・・エス・エル派の要人逮捕に踏みきり、それとともに、全露臨時・・・政府は・・・コルチャクに最高権力の行使を一任し、彼に「最高統帥者」の称号をあたえることを決定したのである。」(116〜120)
(注10)現在は、「ロシア連邦中央部に位置するバシコルトスタン共和国(バシキリア)の首都。・・・アジアとヨーロッパの境界線となるウラル山脈の分水嶺へは東へ100キロメートル。モスクワから1567キロメートル。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%95%E3%82%A1
(注11)社会革命党の略称。「ナロードニキの流れを組む革命政党として、・・・1901年に結成。・・・セルゲイ大公等の要人を暗殺した。・・・社会革命党左派(左翼社会革命党、左翼エスエル)は、ボリシェヴィキと共にロシア十月革命後の革命政権の主要な一翼を担うが、1918年にブレスト=リトフスク条約締結に反対・・・その後ボリシェヴィキの専制的体質に対し、・・・抵抗運動を続けるが、その後、武装蜂起し、弾圧されたため多くが逮捕・処刑されるか海外に亡命した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A
→英国が反ボリシェヴィキ勢力を糾合してコルチャク政権を擁立した、ということです。(太田)
「<原の日本>政府<は、>コルチャク政権支持という新政策を<採択し、これを>実行するにあたり、・・・海軍提督として、旧体制の支配層に属し、性格的には高潔ではあるが雅量に乏しいコルチャクと、シベリアの田舎育ちで、粗野で武勇自慢の若年のセミョーノフ・・・一方はイギリスの好意をたのんでツェーリズムの再興に忠誠心をかけており、他方は日本・・・<就中>参謀本部・・・の後ろ盾によって、ひそかに東シベリアから蒙古にかけてジンギスカン王国の再興を夢みていた<ところの>両者・・・<の>勢力の対立・・・<に>まず直面した・・・。」(120〜121)
→日本は、ボルシェヴィキ政権であろうと反ボルシェヴィキ政権であろうと、統一ロシアの専制的性格は変わらないとの判断の下、シベリアに日本の息のかかった緩衝国家を樹立することで、日本の対露安全保障を遺漏なからしめようと考えていたわけですが、原新政権は、翻意し大化けして大政治家となった原首相や既に大政治家の片鱗を現していた田中義一陸相(後に首相)のリーダーシップの下、この前政権の方針を改め、英国に同調して、次善の策たる反ボルシェヴィキ統一ロシア政権樹立に向けて舵を切ったということです。(太田)
「<そこで。原内閣は、>田中陸相<を通じて、>セミョーノフの行動を抑制するとともに、政府の<ボリシェヴィズムとの対抗/対ソ干渉戦争という>新政策に抵抗する現地陸軍の動きを封殺せん<とした。>・・・
<1920年>5月16日の閣議決定によって、前年の11月以来、ボリシェヴィズムとの対抗の路線を重視し、統一された反革命政権のシベリアにおける出現を望みはじめた原内閣のシベリア政策は、その転換運動を一応完了する。・・・
<ところが、米国にはもちろん、英国にさえ、>原内閣によって・・・新しいシベリア政策<が>・・・進められようとしたことについて・・・<ついに十分>理解<されることはなかった。>・・・
<とまれ、>コルチャク政権の<列国による>共同承認について、日本政府はイニシァティブをとることを決定した。・・・
この<日本政府の提案>が、<ヴェルサイユ会議参加中のパリの>米英仏伊の四大国首脳から構成される四人会議 Council of Four でとり上げられたのは5月23日である・・・。」(124〜125、136〜137)
→しかし、原内閣の新方針は、そのようなものとして、十分米英等には認識してもらえなかったわけですが、これもやはり、日本の外務省の怠慢のせいであるということになるのではないでしょうか。
それはともかく、コルチャック政権承認提案を行った原は、形の上では、全球的な大政治家としてのイニシアティブを発揮したことになります。(太田)
「イギリス軍部のコルチャク政権にかけた期待は大きかった。イギリス外務省も、コルチャク政権支持には当初から熱意をもっていた。たとえば、1919年・・・4月には、・・・オムスク駐在の高等弁務官エリオット Sir Charles Eliot は、・・・コルチャク政権承認の勧告を政府に行っ・・・た・・・。
<しかし、>ロイド・ジョージ首相は、チャーチルらと対ボリシェヴィキ方策を異にしており、革命、反革命両派代表の話し合いによるロシア問題解決策の発見・・・<を追求し続けた。>」(139)
「<また、米>国務省から<コルチャク政権>承認勧告をうけたウィルスン大統領<も>、・・・革命、反革命両派の話し合い・・・による、民主的政府樹立<という>ヴィジョン<を>描いていたと見ることができて、この点からボリシェヴィキ政府にしても、コルチャク政権にしても、いずれもその独裁的性格のゆえに、全露政府についての彼の理想と背馳するものとみ<てい>たのである。・・・
<それでも、パリの>ウィルスンは、・・・国務省の方針に、・・・コルチャク政権側の≪民主化≫の保障<が得られれば>・・・同意の態度をとった・・・。」(140〜141)
→しかし、遺憾ながら、原に匹敵するような見識を持った最高首脳を、当時の英国も米国も擁しておらず、荏苒時間を空費してしまうのです。(太田)
「<しかし、>コルチャク軍が驚異的速度で西方に進撃しているとの報から、北ロシアの反革命軍との連絡、またモスコー攻略すら近いとする観測<が>、5月の四人会議で受け入れられていた<ところ、>・・・5月に入ると、ウラル戦線の実況は、連合国指導者の描く影像とは余程様相を異にしていた。すでに局面は転換をはじめ、戦線の主導権を奪還したボリシェヴィキ軍は守勢から攻勢に移っていたのである。・・・ヴェルサイフ会議の指導者たち<は>・・・6月に入って・・・事態についての・・・虚像を修正しはじめる<のである>・・・。」(143)
→そんな折、コルチャック政権は窮状に陥ってしまい、赤露の脅威を蕾の内に切除するという千載一遇の機会を自由民主主義陣営は逸してしまうのです。(太田)
(続く)
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