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太田述正コラム#4458(2010.12.25)
<パーマーストン(その2)>(2011.3.30公開)

 (2)未成年時代・陸相時代

 「・・・7歳の時にパーマーストンは欧州旅行に連れて行かれ、すぐにフランス語とイタリア語に流暢になった。
 彼はハロー校では勤勉だった。
 ここで銘記しておく価値があるのは、イートン校に比べると生み出した首相の数は少なく、ピール、パーマーストン、ボールドウィンとチャーチルだが、それはすべて最上級の首相であったことだ。・・・」(C)

→チャーチルについては、断じてノーと言わなければなりません。
 英国人の、しかも歴史家の多くが、この重要な点で現実から目を背けていることは、英国が零落してしまったことが、いかに英国人のインテリにとってトラウマになっているかを示して余りあるものがあります。(太田)

 「・・・小ウィリアム・ピットの初期からの支持者として、彼はすぐに議会に入り、間もなく陸相のポストを与えられ、5人の首相の下で陸相を続けた。
 彼は間違いなく嘱望されている男だったが、ブラウンはパーマーストンのリヴァプール(<Charles Jenkinson, 1st earl of >Liverpool<。1727〜1808年。政界の黒幕的下院議員
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/344662/Charles-Jenkinson-1st-Earl-of-Liverpool-Baron-Hawkesbury-of-Hawkesbury (太田)
>)やウェリントン(Wellington<。1769〜1852年。首相:1828〜30年、1834年>)<(コラム#128、729、2138、2974、3561、3757)>といった強力な人物達との接し方において自信なげな部分があることを見出す。
 後に喧嘩好きとして有名で、そのことで非難された男にしては、これは奇妙な気後れぶりだった。
 初期の頃には、彼は低姿勢を貫き、閣議においても、彼の省の管轄に関わるもの以外については避けて通った。・・・」(D)

 「・・・外相になる前に、パーマーストンは陸相を20年間勤め、陸軍の財政を担当した。
 陸軍省でも外務省でも、彼は吏員達をこき使い、喫煙を禁じ、公文書を書き換えさせた・・彼は悪筆を生涯批判し続けた・・ことで、彼らから憎まれた。
 彼自身の仕事量は大変なものだった。
 彼は、しばしば自分自身について「ガレー船の奴隷」という言葉を使った。
 一日に余りにも多くのものを詰め込もうとして、人々を彼の控えの間に待たせつつ、彼はいつまでも遅くまで残業をした。
 おかげで、<この控えの間で、>ネルソン(Nelson)<(コラム#3055)>はウェリントンとただ一度きりの邂逅を果たしたものだ。・・・」(C)

 (3)外相時代・首相時代

 「・・・パーマーストンは1830年から1855年の間の多くを<外相として>英国の外交を執り行うことに費やした。
 そして、1855年から在職のまま亡くなった1865年10月18日まで、首相として、同じことに大部分を費やした。・・・
 彼が人々の記憶を鼓吹したとすれば、それは、戦闘的な「自由主義的介入主義者」としてだった。
 彼は、当時、恐らく地上最大の大国であった英国をして、そのなすべきことは、英国以外の世界を英国が適切であると見たような形に、かつ英国の国益に合致するような形に、秩序付けることを確保することである、と決定させた男なのだ。
 これは、当時は議論のあるところだった。
 今ではこれを不快に思う人もいるが、第3代ソールベリ侯爵(<Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil,> 3rd Marquess of Salisbury<。保守党。上院議員として首相を勤めた最後の人物。1830〜1903年。首相:1885〜86年、86〜92年、95〜1902年
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Gascoyne-Cecil,_3rd_Marquess_of_Salisbury (太田)
>)が、外相、そして首相として、19世紀の最後の4分の1において追求したところの、「名誉ある孤立(splendid isolation)」なる、<パーマーストン亡き>後の政策は、<このパーマーストンが決定させたものが>刺激を与えた結果もたらされたものなのだ。・・・
 外相時代のパーマーストンは、「いじめっ子にして悪人にして臆病者」である、とみなされていた。
 これは、彼が著しく長い時間仕事をし、「<役所でゆったりとした>紳士の時間<を過ごすの>」を当然視していた彼の役人達に同じことを求めたからかもしれない。
 彼は、そのいじめっ子流儀を、外国の大国に対応する際に取り入れ、英国臣民を害すものを脅すとともに、行く先々で「私はローマ市民である(civis Romanus sum)」とローマ人が言えたように、英国の人々が遍く敬意を抱かれるという原則を打ち立てようとした。・・・」(B)

 「・・・彼の大原則の1つは、文明化された諸国家は、憲法を制定しなければならず、その統治者達はその憲法を遵守しなければならない、というものだった。

→その英国は成文憲法を持っていなかった、というより憲法を持っていなかったのですから、これほど、英国以外の世界を小バカにした「大原則」もないでしょうね。(太田)

 彼は、この大原則に、半世紀を超える間、絶対的な一貫性をもって従った。
 彼は、砲艦外交を、憲法などというものを関知しないところの、ギリシャ(注)と支那(注)に対してのみ実施した。

→支那とは、言うまでもなく、アヘン戦争(1840〜42年)を指していますが、「大原則」が非人道的かつ理不尽な英国の利益を押し通すために援用されたことになります。(太田)

 (注)1847年に、ギリシャ在住の英領ジブラルタル出身のユダヤ人ドン・パシフィコ(Don Pacifico)の家がギリシャ人群衆によって襲撃された時に、英国の軍艦数隻を首都アテネの外港に派遣し、ギリシャ政府に要求を飲ませた事件を指す。
http://www.historyhome.co.uk/polspeech/foreign.htm

 彼は、おおむね、平和のために尽くし、それに成功した。
 彼は、政界に初めて入った時から、<差別されていた英国の>カトリック教徒の解放に心を寄せた。
 <また、>彼は、常に奴隷制に反対し、奴隷貿易の廃絶に全力を傾けた。
 <恐らく彼の娘であったところの、>ミニーがアシュレイ(Ashley、後にシャフツベリー(Shaftesbury))卿と結婚すると、パーマーストンは、工場諸法、児童労働、そして労働時間といった多くの社会問題について、彼の助言に従った。
 内相の時は、彼は下水道改革、喫煙抑制、そして貧者のための住宅の改善に指導性を発揮した。・・・」(C)

 「・・・パーマーストンは晩成型だった。
 彼は、70歳になるまで首相にならなかった。
 そして、政治において極端を嫌う真の自由主義者として立ち現れた。
 彼にとっては、安定性が何よりも重要となった。
 そしてブラウンは、パーマーストンが1860年に行った演説を好意的に引用する。
 その中で、彼は、世論の支持を得ずして大きな変化を行うことはできない、と主張した。・・・」(D)

3 終わりに

 パーマーストンは、若い頃から、女誑しとしてさんざん危ない目に遭う経験を重ね、恐らくは「七十にして心の欲する所に従って、矩を超えず」(論語)
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~nicksoku/tsuredure/rongo1.htm
の境地に達した時に、満を持したかのように宰相となり、憲法などなくとも、「心の欲する所に従って、矩を超え」ぬ国で基本的に一貫してあり続けて来ていたところの、英国を率いたことになります。
 我々も、そして我々の日本国も、パーマーストンや当時の英国を目標としたいものです。
 とはいえ、さほど肩に力を入れることではありません。
 現に、首相時代のパーマーストンや、従って当時の英国だって、アヘン戦争等、矩を超える悪行を時に犯したのですからね。
 おおむね矩を超えなければよし、と割り切ればよいのですよ。

(完) 

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