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太田述正コラム#4456(2010.12.24)
<パーマーストン(その1)>(2011.3.29公開)
1 始めに
デーヴィッド・ブラウン(David Brown)が、19世紀の英国の大政治家であるパーマーストンの伝記、 'Palmerston: A Biography' を上梓したので、書評類をもとに、そのさわりをご紹介しましょう。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/1a852136-07cf-11e0-8138-00144feabdc0.html#axzz18Qib9ocy
(12月18日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8176388/Palmerston-A-Biography-by-David-Brown-review.html
(12月20日アクセス。以下同じ)
C:http://www.spectator.co.uk/print/books/6343653/a-race-against-time.thtml
D:http://www.scottishreviewofbooks.org/index.php?option=com_content&view=article&id=382:reviews&catid=37:volume-6-issue-4-2010&Itemid=86
(以上が書評)
E:http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston
なお、ブラウンは、英国のストラスクライド(Strathclyde)大学の上級講師であり、グラスゴー在住です。
http://yalepress.yale.edu/yupbooks/book.asp?isbn=9780300118988
2 パーマーストン
(1)概観
「より良くはパーマーストン(Palmerston<。1784〜1865年>)卿として知られているところの、ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple)は19世紀の前半<の英国>を支配した。
陸相を19年、外相を全部で15年、内相を3年、そして首相を2回、合計9年勤めたパーマーストンは、英国史中の巨人であり続けている。
彼は、<当時の>英国人の意識を余りにも支配したので、正しい称号で言及されることはほとんどなかった。
好色な若い成人であった彼は、広くキューピッド(Cupid)卿として知られていた。
彼が恋愛沙汰で自ら招いた累次の難儀は、とりわけ、ヴィクトリア女王の侍女のブランド(Brand)夫人が、彼がウィンザー城で彼女の寝室に出現した際に拒んだということがあった後、伝説的かつ悪名高いものとなった。
後に、喧嘩っ早いナショナリストで好戦的(gun-powder)外交家として、彼は軽石(Pumicestone)卿としてより知られるようになった。・・・
最終的に、老年期において、彼は、政界(Westminster)のほとんど最も愛すべき貴顕(grandee)として、「パム(Pam)」と<呼ばれるように>なった。
長い間の情婦であったカウパー(Cowper)夫人<(1834年と1835〜41年の英首相メルボルン卿
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lamb,_2nd_Viscount_Melbourne (太田)
の妹。1787〜1869年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Emily_Lamb_(Lady_Cowper) (太田)
>と結婚<(それぞれ、55歳、52歳で(ウィキペディア上掲))>した時、パーマーストンのとんがった部分は滑らかにされ、自分の反対者達を冷笑するのに代えて彼は自分の魅力で相手を誑し込むようになった。
彼は、「民衆の愛しい人」として、英国の偉大さの象徴となったのだ。・・・
「自由主義的、憲法的な国々は、いつもパーマーストンによって好まれた」とブラウンは記す。
それは、第一にこれらの国々が自分のホイッグ的選好にぴったりだったからだし、第二に、これらの国々が、通常、「安定した外交上のパートナー」であったからだ。・・・」(A)
「・・・彼の長い一生は、絶え間なき政治活動によって輻輳した。
彼は、1807年に、議会に議席をまだ持っていなかったのに、23歳で海軍省理事会(Board of Admiralty)の一員になった。
<その後、>彼は、1〜2度の短い中断はあったものの、死ぬまで、合計59年間にわたって下院議員を勤め、うち50年を閣僚として、すなわち、外相として17年、内相として3年、首相として10年勤め、彼のもともとの良き指導者であったピット(Pitt<。1759〜1806年。首相:1783〜1801年、1804〜06年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt_the_Younger (太田)
>)<(コラム#459、594、2138、3561、4293)>とキャニング(<George> Canning<。1770〜1827年。首相:1827年
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Canning (太田)
>)のように、首相在職のまま死去した。・・・
しかし、彼の政界と行政府(Whitehall)の外での中心的活動はセックスだった。
彼より若い同時代人たるヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)と同じく、彼は、それに成功した場合、日記に韜晦的言及を記した。
彼の符丁は気候であり、例えば、「晴れた日だ。L.」といった具合だ。
彼には嫡出子はいなかったが、カウパー夫人の娘のミニー(Minnie)は恐らく彼の子供だったのだろう。
彼は、彼女を溺愛し、「私の太陽の光」と呼んだ。
亭主のカウパーが亡くなると、彼は寡婦となった夫人のエミリーと結婚し、それからずっと幸せに暮らした。
ブラウンは、もっと多くの頁を彼女に割くべきだった。
彼女は、見えないところで重要な役割を果たした。
彼女は、パーマーストンに素晴らしい助言をしたし、彼女のケンブリッジ屋敷でのパーティーは、招待されていようがいまいが、見苦しくさえなければ、出席自由であった若い男性達の間で人気があった。・・・
<ちなみに、>パーマーストンは、イスラム教は「悪心(evil spirit)によってキリスト教をパロディー化したもの」と思っていた。
彼は、イスラム教徒は、「この世で犯罪的暴力沙汰を犯して、かつあの世での悪徳的放縦の享受という報酬が約束される」と語っている。・・・」(C)
(続く)
<パーマーストン(その1)>(2011.3.29公開)
1 始めに
デーヴィッド・ブラウン(David Brown)が、19世紀の英国の大政治家であるパーマーストンの伝記、 'Palmerston: A Biography' を上梓したので、書評類をもとに、そのさわりをご紹介しましょう。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/1a852136-07cf-11e0-8138-00144feabdc0.html#axzz18Qib9ocy
(12月18日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8176388/Palmerston-A-Biography-by-David-Brown-review.html
(12月20日アクセス。以下同じ)
C:http://www.spectator.co.uk/print/books/6343653/a-race-against-time.thtml
D:http://www.scottishreviewofbooks.org/index.php?option=com_content&view=article&id=382:reviews&catid=37:volume-6-issue-4-2010&Itemid=86
(以上が書評)
E:http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston
なお、ブラウンは、英国のストラスクライド(Strathclyde)大学の上級講師であり、グラスゴー在住です。
http://yalepress.yale.edu/yupbooks/book.asp?isbn=9780300118988
2 パーマーストン
(1)概観
「より良くはパーマーストン(Palmerston<。1784〜1865年>)卿として知られているところの、ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple)は19世紀の前半<の英国>を支配した。
陸相を19年、外相を全部で15年、内相を3年、そして首相を2回、合計9年勤めたパーマーストンは、英国史中の巨人であり続けている。
彼は、<当時の>英国人の意識を余りにも支配したので、正しい称号で言及されることはほとんどなかった。
好色な若い成人であった彼は、広くキューピッド(Cupid)卿として知られていた。
彼が恋愛沙汰で自ら招いた累次の難儀は、とりわけ、ヴィクトリア女王の侍女のブランド(Brand)夫人が、彼がウィンザー城で彼女の寝室に出現した際に拒んだということがあった後、伝説的かつ悪名高いものとなった。
後に、喧嘩っ早いナショナリストで好戦的(gun-powder)外交家として、彼は軽石(Pumicestone)卿としてより知られるようになった。・・・
最終的に、老年期において、彼は、政界(Westminster)のほとんど最も愛すべき貴顕(grandee)として、「パム(Pam)」と<呼ばれるように>なった。
長い間の情婦であったカウパー(Cowper)夫人<(1834年と1835〜41年の英首相メルボルン卿
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lamb,_2nd_Viscount_Melbourne (太田)
の妹。1787〜1869年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Emily_Lamb_(Lady_Cowper) (太田)
>と結婚<(それぞれ、55歳、52歳で(ウィキペディア上掲))>した時、パーマーストンのとんがった部分は滑らかにされ、自分の反対者達を冷笑するのに代えて彼は自分の魅力で相手を誑し込むようになった。
彼は、「民衆の愛しい人」として、英国の偉大さの象徴となったのだ。・・・
「自由主義的、憲法的な国々は、いつもパーマーストンによって好まれた」とブラウンは記す。
それは、第一にこれらの国々が自分のホイッグ的選好にぴったりだったからだし、第二に、これらの国々が、通常、「安定した外交上のパートナー」であったからだ。・・・」(A)
「・・・彼の長い一生は、絶え間なき政治活動によって輻輳した。
彼は、1807年に、議会に議席をまだ持っていなかったのに、23歳で海軍省理事会(Board of Admiralty)の一員になった。
<その後、>彼は、1〜2度の短い中断はあったものの、死ぬまで、合計59年間にわたって下院議員を勤め、うち50年を閣僚として、すなわち、外相として17年、内相として3年、首相として10年勤め、彼のもともとの良き指導者であったピット(Pitt<。1759〜1806年。首相:1783〜1801年、1804〜06年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Pitt_the_Younger (太田)
>)<(コラム#459、594、2138、3561、4293)>とキャニング(<George> Canning<。1770〜1827年。首相:1827年
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Canning (太田)
>)のように、首相在職のまま死去した。・・・
しかし、彼の政界と行政府(Whitehall)の外での中心的活動はセックスだった。
彼より若い同時代人たるヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)と同じく、彼は、それに成功した場合、日記に韜晦的言及を記した。
彼の符丁は気候であり、例えば、「晴れた日だ。L.」といった具合だ。
彼には嫡出子はいなかったが、カウパー夫人の娘のミニー(Minnie)は恐らく彼の子供だったのだろう。
彼は、彼女を溺愛し、「私の太陽の光」と呼んだ。
亭主のカウパーが亡くなると、彼は寡婦となった夫人のエミリーと結婚し、それからずっと幸せに暮らした。
ブラウンは、もっと多くの頁を彼女に割くべきだった。
彼女は、見えないところで重要な役割を果たした。
彼女は、パーマーストンに素晴らしい助言をしたし、彼女のケンブリッジ屋敷でのパーティーは、招待されていようがいまいが、見苦しくさえなければ、出席自由であった若い男性達の間で人気があった。・・・
<ちなみに、>パーマーストンは、イスラム教は「悪心(evil spirit)によってキリスト教をパロディー化したもの」と思っていた。
彼は、イスラム教徒は、「この世で犯罪的暴力沙汰を犯して、かつあの世での悪徳的放縦の享受という報酬が約束される」と語っている。・・・」(C)
(続く)
太田述正ブログは移転しました 。
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