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太田述正コラム#4394(2010.11.23)
<戦前の日英関係の軌跡(その5)>(2011.3.5公開)

 「しかしながらクレイギーの1941年の諸事件への対応が、それ以前の彼の本国への忠告同様、確実な判断に基いたものであったかどうかは論議を呼ぶところである。」(355頁)

→ベストはこう記していますが、以下見て行くように、彼自身が「確実な判断に基づいたもので」なかったことを証明できていません。(太田)

 「クレイギーの<対日>経済制裁拡大への支持は、1941年の春にはまだ条件付であった。その当時彼は、カナダ産の小麦、北ボルネオからのココ椰子のような食料品にまで及ぶ制限は、日本を抑制する代わりに逆に更なる侵略へと追い立てる恐れのあることを危惧したのである。・・・
 しかしながら・・・クレイギーは、日本軍の南部仏印進駐後の1941年7月後半の、より包括的な英米蘭の経済制裁の導入については何の反対もしなかった。・・・
 しかしながら、クレイギーは、その9月に、・・・疑念を初めて表明した。ワシントンにおいて、妥協しようという気持ちが明らかに欠けていることに関して、クレイギーの意見は東京駐在の米国大使ジョゼフ・グルー(Joseph Grew)と同じであったが、この政策は戦争阻止のために作用することなく、結果として、戦争を仕向けることになるという意見であった。・・・
 彼は最終報告書の中で、最大の批判を受けなければならないのは、ワシントンでの会談に影響を及ぼそうとした英国政府の失態であると書いている。クレイギーは、英国がもし第二の宣戦[対日戦]に直面することになると、ヨーロッパ戦争が世界戦争に拡大し、英国の限られた補給線を過度に延伸して致命的な結果をもたらすと考え、自分の任務はこれを回避することであると常に確信していたのである・・・」(356〜357頁)

→これはクレイギーの認識とその認識に基づく判断の的確な紹介です。(太田)

 「クレイギーが把握しえなかったもの、それは英国の優先順位が今や変更された事であった。この段階で英国は・・・依然としてヨーロッパにおけるドイツ支配に対して挑戦することができず、又1941年秋後半、東ヨーロッパではソ連が敗北寸前であったかに見えた。結果としてロンドンにおいてますます明らかになってきた事は、米国が連合戦繊維経済力を供与えするのみならず、完全に戦闘に加わらなければ戦争には勝てないという事であった。

→クレイギーの情勢認識とは真っ向から食い違っていますが、クレイギーの報告書の記述(コラム#3956に事前的情勢認識、#3966に事後的情勢認識が記されている)を読む限り、クレイギーに軍配をあげたくなります。(太田)

 米国が英国と一緒になって戦ってくれる事は、チャーチル(Einston Churchill)と彼の顧問団にとっては、重要不可欠なことであったので、起こる可能性のある日本参戦のもたらすいかなるリスクをも凌駕するものであったと考えられていた。しかしながら、もちろん、米国参戦の効果と日本参戦のリスクの総体的価値の判断は、日本の軍事力を過小評価したことによるものであった。・・・

→チャーチル政権の情勢認識は、「日本の軍事力<の>・・・評価」に関して致命的なまでに誤っていた、と断定していいでしょう。(太田)

 それ故、クレイギーの米国の政策に対する批判、つまりより柔軟性のある政策をとっていれば戦争を回避し得たかもしれないという批判は、恐らくは妥当であったと言ってよいが、チャーチル内閣に対する彼の攻撃は、その当時チャーチルが勝利への展望をもたらすと思われる唯一の政策、即ち米国との一致協力を追求していたので、妥当であったとは言い難い。

→これでは、ベストは、あたかも、本国の政権の情勢認識がたとえ間違っていようと、出先の大使は、それに異議を申し立ててはならない、と言っているかのようです。
 政治史学者としてのベストが、最後のあたりになって、急にダッチロールを始めたとしか思えません。
 それがどうしてか、諸処で記してきたので、ここでは繰り返しません。(太田)

 英国が明らかに不本意であったが開戦の方向に同意したことは、結果論ではあるが、マレーシアとビルマの支配権の喪失、シンガポールでの屈辱的敗北によって、英国に大きな損失をもたらしたと考えられる。

→ベストは、「損失」を余りにも矮小化しています。ここに出てくる出来事に加えて、インパール作戦の実施等がインド(とパキスタン)の戦後直後の独立をもたらし、そしてそれに強い影響を受けたことによって、大英帝国全体が急速、かつ過早に瓦解してしまうわけですが、その全体を、太平洋戦争の帰結ととらえるべきでしょう。(太田)

 しかしこのような分析はクレイギーの最終報告書に対し述べられたチャーチルの次のようなコメントによって辻つまを合わせることが可能である。
 「…日本が米国を攻撃し、その結果米国が参戦したのは天の恩寵であった。英帝国にとってこれ以上の幸運は滅多にない。日本の対米攻撃は誰が我々の味方であり、誰が敵であるかを明確に露呈した…」

→政治家は結果責任を問われるのであって、チャーチルが、途中経過においてどんな発言をしようと関係ありません。
 クレイギーの情勢認識の妥当性は、あくまでも上記のような太平洋戦争の最終的帰結に照らして判断されなければなりません。
 なお、チャーチルは、このような意味での結果責任を痛切に自覚しつつ、その生涯を終えた、と私は考えています。(コラム#4212参照)(太田)

 どういう政策が英国の包括的利益のために役立つかということについて、それまでのクレイギーの本来の判断能力が、1941年になって失われたと結論づけないわけにはいかない。このことは、クレイギーが戦争の表舞台から数百マイルも離れていた事、1937年の最初の日本赴任以来、本国へ帰国する機会のなかった点を考えると、ある意味で、さして驚くに値しない。孤立した環境にあって、彼は万難を排して日本を戦争回避させるという当初の本国よりの命令に固執していたのであった。」(357〜358頁)

→よって、ベストが「クレイギーの本来の判断能力が・・・失われた」などと言うのは、言いがかり以外の何物でもありません。
 「戦争の表舞台」というような、欧州中心的な物の見方をチャーチル政権がしていたからこそ、同政権の情勢認識が全球的に物を見ていたクレイギー(やピゴット)のそれに比べてはるかに遜色があった、ということです。
 万難を排して日本を戦争回避させるというクレイギーの判断は、それが当初の本国の命令であったからではなく、彼自身の不断の情勢認識から導き出されたものであり、彼は、正しくも、最後の最後までこの判断を変更する必要性を認めなかったわけです。(太田)

 「クレイギーの最終報告書・・・の草案は、1942年の夏本国に帰還後、10月23日に外務省に提出されたが、英国政府の政策に不同意を表明した過激な表現が幾つかあった為削除を命じられて、翌43年2月に修正草案が提出された。」(363頁)

→修正された報告書があれだけ過激な内容であったのですから、草案段階での過激さがどれほどのものであったのか、読めるものなら読んでみたいものです。
 恐らくは、「穏健派」と「急進派」に分ける見方の完全な排斥、及び日本の赤露に対する安全保障政策への言及、並びにそれへの高い評価が含まれていたのではないでしょうか。(太田)
 
6 終わりに

 以上見てきたように、戦前の日本は、英国から、心底からの親日家となって、英国の国益を踏まえつつも、日本のために尽力してくれる外交官ばかりを迎えたと言っても過言ではないわけですが、英国の対日政策が加速度的に不条理なものになっていった1930年代後期から開戦直前まで駐日大使を勤めたクレイギーの場合、果たしてそれが本当に日本のためになったかどうかは疑問なしとしません。
 というのは、日本の当時の外務省幹部達がおしなべて抱いていたところの、英国、就中チャーチル政権についての甘い認識が、クレイギーという親日的な駐英大使が存在していたことによってついに矯正されず、英国との宥和が可能であるとの幻想を日本政府全体が最後まで払拭できなかったため、日本は最適な戦機を逸し、その挙げ句、日本帝国は瓦解するに至ってしまったからです。
 最も端的な例をあげれば、日本は、早期に英国を見限って、1940年中にも対英(だけ)開戦を決行して英国を叩き、英国を完全に中立化させ、援蒋ルートを絶った上で、蒋介石政権との戦いに専心すべきだったのですが、この千載一遇の機会を逸したわけです。
 この点だけとらえても、本人にそのつもりはなかったとはいえ日本をたぶらかし、英チャーチル政権にとっての最大の危機を回避した大功績のあるクレイギーに、彼の帰国後、チャーチル政権は、もっと感謝し、厚遇してしかるべきだったのではないでしょうか。

(完)

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