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太田述正コラム#4320(2010.10.17)
<クリミア戦争(その3)>(2011.2.9公開)
(4)総括
「・・・<ロシアの>皇帝体制の核心に、皇帝は正教の庇護者にしてビザンツ帝国の継承者である、という聖なるロシアなる観念があった。
ニコライ1世は、軍事かぶれで毎夜兵舎で就寝し、トルコ人の手からコンスタンティノープルを回収し、聖ソフィア寺院(Hagia Sophia)でミサを執り行うという燦然と輝く夢を見ていた。
「聖なる信仰の殉教者として名誉のうちに戦い、勝利し、死ぬこと以外には私には何も残されていない」と彼は1854年に説明した。
「こう私が言う時、私はロシアの名前においてそう宣言するのだ」と。
ニコライの敵達は、どちらかと言うとこれほど神秘的ではなかったが、同じくらい派手ばでしかった(colourful)。
フランスのナポレオン3世は、途方もない口ひげをはやしたちっこい男であり、自分の体制を正当化するために軍事的成功を希っていた。
英国では、世論の圧力が鍵となる要素だった。
<英国の>新聞は、どれも正教の<ロシア>皇帝を「半異端」のいじめっ子と見なし、また、イスラム教の<オスマントルコの>スルタンについては、いささか信じがたいことに「宗教的寛容」の旗手(champion)と見なした
このムードに最もうまくつけ込んだのがパーマーストン子爵(<Henry John Temple, 3rd Viscount >Palmerston<。1784〜1865年。首相:1855〜58年、59〜65年。保守党→自由党
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston (太田)
>)だった。
彼は冷笑的なホイッグのポピュリストであり、ヴィクトリア時代の盲目的愛国主義(jingoism)の体現者となった。
パーマーストンがその言い分を通しておれば、連合軍はモスクワまで攻め上っていたことだろう。
彼の最終目標は、彼が同僚達に語ったところによれば、英国のアジアにおける恒久的な支配的地位を確保するためにロシア帝国を永久にたたきつぶすことだった。・・・」(B)
「・・・この本の真の独創性は、クリミア戦争の宗教的起源を明るみに出したところにある。・・・
フィゲスのこの本の副題が示唆しているように、<この戦争の>全ての主要なプレヤー達は十字軍を戦っていると信じていたのだ。
特に、皇帝ニコライの正教の大義への救世主的コミットメントは、伝統的な皇帝主義者の政策であるところの、トルコの1000万人の正教の臣民達をそそのかせてオスマン帝国に対して立ち上がらせるという政策、に<ロシアを>復帰させることにあいなったのだ。
疑いようもなく、英国は、最もこの戦争を欲しており、それは、欧州全体に吹き荒れていた恐露主義(Russophobia)の痛烈な緊張によって掻きたてられていた(fed)。
英国が、ロシアが黒海と地中海との間の枢要な水路をコントロールすることを恐れる理由は十分あった。
しかし、負け犬のトルコを、その暴虐なる圧制者たるロシアから守る、自由主義、文明、そして自由貿易の守護者たる英国、という観念は堪えられなかった。
この観念は英国の世論に影響を与え、1914年と1939年に再度こだまを響かせるところの、英国外交の示導動機(leitmotiv)を<英国に>提供することとなったのだ。・・・」(A)
「・・・<しかし、文字通りの十字軍だったと言えるのがロシアのこの戦争への関わり方であって、>ロシアのナショナリズムの宗教的性格<は明らかだ。>
ニコライ1世にとっては、2正面の神聖なる使命があった。
欧州から、そしてウラル以遠の地域からすら、イスラム教を駆逐することと、新しい正教、すなわち、ラテン的かつカトリック的影響を東欧から排除するであろうところの、ロシア・ギリシャ的ビザンツ帝国<構築>なるビジョンだ。・・・」(G)
「・・・フィゲスは、「その野性的ふるまいがほとんどキリスト教徒的には見えない」ところのロシアに対する欧米<諸国>の侮蔑が、この巨大な東方の帝国に対する<これら欧米諸国の>指導よろしきを得ない諸政策をもたらしたことを示す。
ロシアはロシアで、欧米の諸大国は他国を自由勝手に侵略できるというのに、サンクトペテルブルグが「隣国といさかいを起こすのに欧州の許可を求める」必要がどうしてあるのだといきまいた。
「我々は、欧米から盲目的な憎しみと悪意しか期待することはできない。連中は<我々のことを>理解していないし理解しようとも思ってはいない」と、まるで2008年のロシア・グルジア戦争の時にクレムリンの顧問の口から出ても不思議ではないような言葉が、皇帝ニコライのある顧問から発せられた。
この戦争が始まった1853年、英国の僧侶達は<教会の>会衆を戦争狂へと煽り立て、ある者は、「我々は、神よ、あなたに感謝する。我々がもう一つの国のようではないことを。<その国は、>不正義で、強欲で、圧政的で狂っている」と言った。
読者の中には、これらの言葉が、対イラク戦の起こる前の頃に米国の説教師の口から出ても不思議はないとも思ったのではないか。
オスマントルコの導師(imam)達も、同じ頃、侵略者ロシアに対する聖戦の必要性を学生達に説いていた。・・・」(C)
「・・・<もとより、>かかる火のような宗教的修辞にもかかわらず、全ての政治家達は・・ロシア皇帝ですら・・地政学的計算をしていた。
<キリスト>生誕教会の鍵を誰が保管するかよりも、ボスフォラス海峡、ドナウ河、あるいは黒海、を誰がコントロールするかの方が重要だったのだ。・・・」(E)
「・・・<それにしてもロシアはおかしな国だった。>簡素な生活を旨とする皇帝ニコライは、<英国の>ウィンザー城訪問中も<ベッドでではなく、>藁を注文してそこで寝たし、メンシコフ(<Aleksandr Sergeyevich >Menshikov)親王(Prince)(注5)は、セヴァストポールのご婦人方をアルマ(Alma)の戦いをその近くの丘の上から観戦するために招いたときている。
(注5)1787〜1869年。フィンンランド系ロシア人。親王号はフィンランド人としてのもの。クリミア戦争において、海軍大臣のままロシア軍総司令官に任命される、しかし、無能であったため1855年に両ポストから馘首される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Sergeyevich_Menshikov (太田)
その時、このメンシコフの馬車が捕まったのだが、傑作なことに、その中から、カネの山、皇帝からの(複数の)手紙のほか、(複数の)フランスのエロ小説、それに若干のご婦人方の下着が発見された。・・・」(D)
3 終わりに
このように、安全保障的(=地政学的)観点から、英国は、自由民主主義的文明の世界の旗手として、神がかり(=イデオロギー的)でいかれたロシアと、ユーラシア大陸をかけた(広義の)グレートゲームの一環としてクリミア戦争を戦ったわけです。
こうして、約1世紀にわたって、ユーラシア大陸生誕の欧州からロシアの脅威を拭い去ることに成功したイギリスは、ユーラシア大陸東端の東アジアからロシアの脅威を拭い去るべく、開国して自由民主主義的文明のアジアの旗手となった日本・・横井小楠コンセンサス下の日本・・と提携することになります。
ところが、英国は、やがて欧州におけるドイツの勃興に目を奪われ、第一次世界大戦と第二次世界大戦の2度にわたって、ロシアと組んでドイツを叩くことに精力を尽くした結果、日本帝国を瓦解させただけでなく、大英帝国を過早に崩壊させてしまい、ロシアないしはロシアが、正教の代替物として捏造したという側面もあるところの、ロシア製の民主主義独裁の特異な形態の欧州のみならず、東アジアにもおける席巻を許してしまうことになるのです。
(完)
<クリミア戦争(その3)>(2011.2.9公開)
(4)総括
「・・・<ロシアの>皇帝体制の核心に、皇帝は正教の庇護者にしてビザンツ帝国の継承者である、という聖なるロシアなる観念があった。
ニコライ1世は、軍事かぶれで毎夜兵舎で就寝し、トルコ人の手からコンスタンティノープルを回収し、聖ソフィア寺院(Hagia Sophia)でミサを執り行うという燦然と輝く夢を見ていた。
「聖なる信仰の殉教者として名誉のうちに戦い、勝利し、死ぬこと以外には私には何も残されていない」と彼は1854年に説明した。
「こう私が言う時、私はロシアの名前においてそう宣言するのだ」と。
ニコライの敵達は、どちらかと言うとこれほど神秘的ではなかったが、同じくらい派手ばでしかった(colourful)。
フランスのナポレオン3世は、途方もない口ひげをはやしたちっこい男であり、自分の体制を正当化するために軍事的成功を希っていた。
英国では、世論の圧力が鍵となる要素だった。
<英国の>新聞は、どれも正教の<ロシア>皇帝を「半異端」のいじめっ子と見なし、また、イスラム教の<オスマントルコの>スルタンについては、いささか信じがたいことに「宗教的寛容」の旗手(champion)と見なした
このムードに最もうまくつけ込んだのがパーマーストン子爵(<Henry John Temple, 3rd Viscount >Palmerston<。1784〜1865年。首相:1855〜58年、59〜65年。保守党→自由党
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston (太田)
>)だった。
彼は冷笑的なホイッグのポピュリストであり、ヴィクトリア時代の盲目的愛国主義(jingoism)の体現者となった。
パーマーストンがその言い分を通しておれば、連合軍はモスクワまで攻め上っていたことだろう。
彼の最終目標は、彼が同僚達に語ったところによれば、英国のアジアにおける恒久的な支配的地位を確保するためにロシア帝国を永久にたたきつぶすことだった。・・・」(B)
「・・・この本の真の独創性は、クリミア戦争の宗教的起源を明るみに出したところにある。・・・
フィゲスのこの本の副題が示唆しているように、<この戦争の>全ての主要なプレヤー達は十字軍を戦っていると信じていたのだ。
特に、皇帝ニコライの正教の大義への救世主的コミットメントは、伝統的な皇帝主義者の政策であるところの、トルコの1000万人の正教の臣民達をそそのかせてオスマン帝国に対して立ち上がらせるという政策、に<ロシアを>復帰させることにあいなったのだ。
疑いようもなく、英国は、最もこの戦争を欲しており、それは、欧州全体に吹き荒れていた恐露主義(Russophobia)の痛烈な緊張によって掻きたてられていた(fed)。
英国が、ロシアが黒海と地中海との間の枢要な水路をコントロールすることを恐れる理由は十分あった。
しかし、負け犬のトルコを、その暴虐なる圧制者たるロシアから守る、自由主義、文明、そして自由貿易の守護者たる英国、という観念は堪えられなかった。
この観念は英国の世論に影響を与え、1914年と1939年に再度こだまを響かせるところの、英国外交の示導動機(leitmotiv)を<英国に>提供することとなったのだ。・・・」(A)
「・・・<しかし、文字通りの十字軍だったと言えるのがロシアのこの戦争への関わり方であって、>ロシアのナショナリズムの宗教的性格<は明らかだ。>
ニコライ1世にとっては、2正面の神聖なる使命があった。
欧州から、そしてウラル以遠の地域からすら、イスラム教を駆逐することと、新しい正教、すなわち、ラテン的かつカトリック的影響を東欧から排除するであろうところの、ロシア・ギリシャ的ビザンツ帝国<構築>なるビジョンだ。・・・」(G)
「・・・フィゲスは、「その野性的ふるまいがほとんどキリスト教徒的には見えない」ところのロシアに対する欧米<諸国>の侮蔑が、この巨大な東方の帝国に対する<これら欧米諸国の>指導よろしきを得ない諸政策をもたらしたことを示す。
ロシアはロシアで、欧米の諸大国は他国を自由勝手に侵略できるというのに、サンクトペテルブルグが「隣国といさかいを起こすのに欧州の許可を求める」必要がどうしてあるのだといきまいた。
「我々は、欧米から盲目的な憎しみと悪意しか期待することはできない。連中は<我々のことを>理解していないし理解しようとも思ってはいない」と、まるで2008年のロシア・グルジア戦争の時にクレムリンの顧問の口から出ても不思議ではないような言葉が、皇帝ニコライのある顧問から発せられた。
この戦争が始まった1853年、英国の僧侶達は<教会の>会衆を戦争狂へと煽り立て、ある者は、「我々は、神よ、あなたに感謝する。我々がもう一つの国のようではないことを。<その国は、>不正義で、強欲で、圧政的で狂っている」と言った。
読者の中には、これらの言葉が、対イラク戦の起こる前の頃に米国の説教師の口から出ても不思議はないとも思ったのではないか。
オスマントルコの導師(imam)達も、同じ頃、侵略者ロシアに対する聖戦の必要性を学生達に説いていた。・・・」(C)
「・・・<もとより、>かかる火のような宗教的修辞にもかかわらず、全ての政治家達は・・ロシア皇帝ですら・・地政学的計算をしていた。
<キリスト>生誕教会の鍵を誰が保管するかよりも、ボスフォラス海峡、ドナウ河、あるいは黒海、を誰がコントロールするかの方が重要だったのだ。・・・」(E)
「・・・<それにしてもロシアはおかしな国だった。>簡素な生活を旨とする皇帝ニコライは、<英国の>ウィンザー城訪問中も<ベッドでではなく、>藁を注文してそこで寝たし、メンシコフ(<Aleksandr Sergeyevich >Menshikov)親王(Prince)(注5)は、セヴァストポールのご婦人方をアルマ(Alma)の戦いをその近くの丘の上から観戦するために招いたときている。
(注5)1787〜1869年。フィンンランド系ロシア人。親王号はフィンランド人としてのもの。クリミア戦争において、海軍大臣のままロシア軍総司令官に任命される、しかし、無能であったため1855年に両ポストから馘首される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Sergeyevich_Menshikov (太田)
その時、このメンシコフの馬車が捕まったのだが、傑作なことに、その中から、カネの山、皇帝からの(複数の)手紙のほか、(複数の)フランスのエロ小説、それに若干のご婦人方の下着が発見された。・・・」(D)
3 終わりに
このように、安全保障的(=地政学的)観点から、英国は、自由民主主義的文明の世界の旗手として、神がかり(=イデオロギー的)でいかれたロシアと、ユーラシア大陸をかけた(広義の)グレートゲームの一環としてクリミア戦争を戦ったわけです。
こうして、約1世紀にわたって、ユーラシア大陸生誕の欧州からロシアの脅威を拭い去ることに成功したイギリスは、ユーラシア大陸東端の東アジアからロシアの脅威を拭い去るべく、開国して自由民主主義的文明のアジアの旗手となった日本・・横井小楠コンセンサス下の日本・・と提携することになります。
ところが、英国は、やがて欧州におけるドイツの勃興に目を奪われ、第一次世界大戦と第二次世界大戦の2度にわたって、ロシアと組んでドイツを叩くことに精力を尽くした結果、日本帝国を瓦解させただけでなく、大英帝国を過早に崩壊させてしまい、ロシアないしはロシアが、正教の代替物として捏造したという側面もあるところの、ロシア製の民主主義独裁の特異な形態の欧州のみならず、東アジアにもおける席巻を許してしまうことになるのです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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