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太田述正コラム#4314(2010.10.14)
<メアリー・チューダー(その2)>(2011.1.29公開)
(3)すんでのところでカトリック教国に完全復帰するところだったイギリス
「・・・メアリー女王は、イギリスを再カトリック化し、300人近い異端者達を火刑に処し、彼女が敬慕していたけれど彼女をフランスとの破滅的戦争へと導いたところのスペインのフィリップ2世を夫に選んだ。・・・
メアリー・チューダーと彼女の王族たる従兄弟のレジナルド・ポール(Reginald Pole<。1500〜58年。カトリックとしての最後のカンタベリー大司教。滞在していた欧州からヘンリー8世を批判したため、彼の母親や兄が処刑されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reginald_Pole (太田)
>)は、カトリックの宗教教育を改善し、司祭たり得る資格要件を高め、神学校の水準を引き揚げた。
これら及びその他のメアリーによる<カトリックの>革新は、イタリア、フランス、スペインその他の欧州大陸のカトリックによる反宗教改革においてしっかりと根を下ろした。・・・」(D)
「・・・彼女の宗教的信条に関しては、それが揺るぐことはなかった。
ホワイトロックが示すように、それが個人的なものであれ政治的なものであれ、彼女のキャリアの中で、宗教との関連なしに理解できるものは皆無だ。・・・
イギリス人貴族たる神学者で枢機卿のレジナルド・ポールは、法王庁からイギリスにおける<カトリックへの>再改宗を監督するために<イギリスに>派遣された。
ポールは、若い頃に、「人文主義者的」関心を持ち、ルター派もどきの諸信条さえ持った、アバンギャルドの知識人的であったことから、彼が新しいカトリックの信仰(convictions)を抱く勇気を欠くに至り古いカトリック的慣行(practice)に先祖返りしてしまったものとして、彼のキャリアの最後の頃はしばしば描かれてきた。・・・
・・・<ホワイトロックは、このように、メアリーの宗教政策に理解を示すが、>・・・イーモン・ダフィー(Eamon Duffy)が 'FIRES OF FAITH: CATHOLIC ENGLAND UNDER MARY TUDOR' ・・・の中で、ポールが完全に承認していたと教えてくれているところの、)火刑についてはどうなのか?
苦悶を増すためにタールやピッチを頭に載せられて生きながら焼かれた女性達や10代の男の子達や、ガーンシー(Guernsey)で妊娠した女性が焼かれて死ぬ途中で出産した(その赤ん坊が観衆の一人によって助けられたが執政長官(sheriff)によって炎の中に投げ返された)話を読んで、時代の標準がそうであったからといって、果たして我々は本当にそんなことが正当化できるだろうか。・・・
外国の大使達の諸報告書は、ホワイトロックの引用によれば、この政策は一般の人々からからは嫌われていたことを示唆している。
カトリック神学は、頑固な異端に対する処刑を正当化していたかもしれないが、メアリーは公開処刑を彼女が呼んだところの「例示と恐怖」のために欲したのだ。
そんなことをしても、人々に対して、本当に改宗するというよりは、改宗したとウソをつくようにさせるだけだったはずだ。・・・
16世紀の国の中には、異なった宗派(confession)の「平和的共存」を認める例がたくさんあった。
ポーランド、リトワニア、トランシルヴァニア、スイスの一部(アッペンツェル(Appenzell)とグリソン(Grisons))、フランスのユグノーの町々、そして、(ウルム(Ulm)とアウグスブルグ(Augsburg)等の)神聖ローマ帝国の諸都市がそうだ。・・・」(E)
「・・・ホワイトロックは、エピローグの中で、「メアリーは女性としては失敗したが女王としては勝利した」としぶしぶ認める。
彼女は、自分で選んだ夫、彼女の従兄弟の神聖ローマ皇帝のカール5世の息子であるフェリペを狂おしいほど愛していた。
しかし、この二人の間に子供はできず、彼女の異母妹のエリザベスは、メアリーがローマとの統合を果たしたというのに、それを反故にしてしまった。
フェリペの方にしてみれば、彼は、彼女と純粋に政治的ないくつかの理由のために結婚したのであって、メアリー女王が死の床にあった時に彼女を訪問しようとさえしなかった。・・・」(C)
「・・・ダッフィー<(上掲)>・・・の本は、<ホワイトロックのこの本>とは違って、メアリー女王の宗教と彼女のイギリスを再カトリック化しようとした努力に焦点をあてているが、ダッフィーは、メアリーがもう20年長く生きていたならば、この試みは成功していたはずだと主張する。」(C)
3 終わりに
残念ながら、いくらホワイトロックが頑張ったところで、メアリーは、逆立ちしても、異母妹のエリザベスはもとより、自分の母親のキャサリンにもかなわないでしょう。
キャサリン(1485〜1536年)は、聡明この上ない女性であり、最初の結婚相手のイギリス皇太子、アーサーの死とアーサーの弟のヘンリー(8世)との再婚の間の1507年に、彼女は、自分の父親によって駐英スペイン大使に任命されています。
これは、地理的意味での欧州における最初の女性大使でした。
また、キャサリンは、世界一の美女と称された人物でもあります。
彼女の肖像画↓をご覧になれば、なるほどな、と思われることでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Michel_Sittow_002.jpg
だからでしょう、キャサリンの伝記は多く、今年1冊出ていますし、来年にも1冊出る予定です。
(以上、特に断っていない限り、
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Aragon
による。)
いつか、キャサリンもこのコラムでとりあげたいものです。
(完)
<メアリー・チューダー(その2)>(2011.1.29公開)
(3)すんでのところでカトリック教国に完全復帰するところだったイギリス
「・・・メアリー女王は、イギリスを再カトリック化し、300人近い異端者達を火刑に処し、彼女が敬慕していたけれど彼女をフランスとの破滅的戦争へと導いたところのスペインのフィリップ2世を夫に選んだ。・・・
メアリー・チューダーと彼女の王族たる従兄弟のレジナルド・ポール(Reginald Pole<。1500〜58年。カトリックとしての最後のカンタベリー大司教。滞在していた欧州からヘンリー8世を批判したため、彼の母親や兄が処刑されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reginald_Pole (太田)
>)は、カトリックの宗教教育を改善し、司祭たり得る資格要件を高め、神学校の水準を引き揚げた。
これら及びその他のメアリーによる<カトリックの>革新は、イタリア、フランス、スペインその他の欧州大陸のカトリックによる反宗教改革においてしっかりと根を下ろした。・・・」(D)
「・・・彼女の宗教的信条に関しては、それが揺るぐことはなかった。
ホワイトロックが示すように、それが個人的なものであれ政治的なものであれ、彼女のキャリアの中で、宗教との関連なしに理解できるものは皆無だ。・・・
イギリス人貴族たる神学者で枢機卿のレジナルド・ポールは、法王庁からイギリスにおける<カトリックへの>再改宗を監督するために<イギリスに>派遣された。
ポールは、若い頃に、「人文主義者的」関心を持ち、ルター派もどきの諸信条さえ持った、アバンギャルドの知識人的であったことから、彼が新しいカトリックの信仰(convictions)を抱く勇気を欠くに至り古いカトリック的慣行(practice)に先祖返りしてしまったものとして、彼のキャリアの最後の頃はしばしば描かれてきた。・・・
・・・<ホワイトロックは、このように、メアリーの宗教政策に理解を示すが、>・・・イーモン・ダフィー(Eamon Duffy)が 'FIRES OF FAITH: CATHOLIC ENGLAND UNDER MARY TUDOR' ・・・の中で、ポールが完全に承認していたと教えてくれているところの、)火刑についてはどうなのか?
苦悶を増すためにタールやピッチを頭に載せられて生きながら焼かれた女性達や10代の男の子達や、ガーンシー(Guernsey)で妊娠した女性が焼かれて死ぬ途中で出産した(その赤ん坊が観衆の一人によって助けられたが執政長官(sheriff)によって炎の中に投げ返された)話を読んで、時代の標準がそうであったからといって、果たして我々は本当にそんなことが正当化できるだろうか。・・・
外国の大使達の諸報告書は、ホワイトロックの引用によれば、この政策は一般の人々からからは嫌われていたことを示唆している。
カトリック神学は、頑固な異端に対する処刑を正当化していたかもしれないが、メアリーは公開処刑を彼女が呼んだところの「例示と恐怖」のために欲したのだ。
そんなことをしても、人々に対して、本当に改宗するというよりは、改宗したとウソをつくようにさせるだけだったはずだ。・・・
16世紀の国の中には、異なった宗派(confession)の「平和的共存」を認める例がたくさんあった。
ポーランド、リトワニア、トランシルヴァニア、スイスの一部(アッペンツェル(Appenzell)とグリソン(Grisons))、フランスのユグノーの町々、そして、(ウルム(Ulm)とアウグスブルグ(Augsburg)等の)神聖ローマ帝国の諸都市がそうだ。・・・」(E)
「・・・ホワイトロックは、エピローグの中で、「メアリーは女性としては失敗したが女王としては勝利した」としぶしぶ認める。
彼女は、自分で選んだ夫、彼女の従兄弟の神聖ローマ皇帝のカール5世の息子であるフェリペを狂おしいほど愛していた。
しかし、この二人の間に子供はできず、彼女の異母妹のエリザベスは、メアリーがローマとの統合を果たしたというのに、それを反故にしてしまった。
フェリペの方にしてみれば、彼は、彼女と純粋に政治的ないくつかの理由のために結婚したのであって、メアリー女王が死の床にあった時に彼女を訪問しようとさえしなかった。・・・」(C)
「・・・ダッフィー<(上掲)>・・・の本は、<ホワイトロックのこの本>とは違って、メアリー女王の宗教と彼女のイギリスを再カトリック化しようとした努力に焦点をあてているが、ダッフィーは、メアリーがもう20年長く生きていたならば、この試みは成功していたはずだと主張する。」(C)
3 終わりに
残念ながら、いくらホワイトロックが頑張ったところで、メアリーは、逆立ちしても、異母妹のエリザベスはもとより、自分の母親のキャサリンにもかなわないでしょう。
キャサリン(1485〜1536年)は、聡明この上ない女性であり、最初の結婚相手のイギリス皇太子、アーサーの死とアーサーの弟のヘンリー(8世)との再婚の間の1507年に、彼女は、自分の父親によって駐英スペイン大使に任命されています。
これは、地理的意味での欧州における最初の女性大使でした。
また、キャサリンは、世界一の美女と称された人物でもあります。
彼女の肖像画↓をご覧になれば、なるほどな、と思われることでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Michel_Sittow_002.jpg
だからでしょう、キャサリンの伝記は多く、今年1冊出ていますし、来年にも1冊出る予定です。
(以上、特に断っていない限り、
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Aragon
による。)
いつか、キャサリンもこのコラムでとりあげたいものです。
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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