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太田述正コラム#4513(2011.1.22)
<私の選挙と民主党(その1)/皆さんとディスカッション(続x1083)>

1 始めに

 私が、10年前の52歳の時に、東北地方の防衛施設行政を所管する地方局長を依願退職して2001年の参院選に立候補した背景には、三つのことがありました。

 それは、

 第一に、かなり以前から、防衛庁/自衛隊の中にいたまま、日本の安全保障政策をまともなものにしようとしても、そんなことは不可能であることを痛感させられていたので、評論活動等を通じて外からそれをやる機会をうかがっていたこと。
 第二に、それまでに既に防衛庁キャリアの堕落に業を煮やしていたところ、東北地方において、自民党系政治家の腐敗ぶりを目の当たりにするとともに、米軍と防衛庁、ひいては日本政府との関係が更に悪化していることを痛感したことが、私にもはや一刻の猶予もならないという焦燥感に近い思いを抱かせたこと。
 第三に、私は天下りをしない、と以前から心に決めていました。当時、ひょっとすると次のポストが最終ポストかもしれない、そうだとすると、次のポストに就いた時には、天下り先のお膳立てもなされている可能性がある、よってそろそろ防衛庁を飛び出す潮時だな、と思っていたこと。

の三つです。

2 無謀な試み

 最終的に立候補につながったところの、私の最初のアクションは、2000年7月24日、スタンフォード時代の顔の広い友人Fに、その目的は言わずに、鳩山由紀夫民主党代表(当時)に会わせてくれる人を紹介してくれ、と頼んだことです。
 その時点では、会ったら、民主党の安全保障政策がさっぱり見えてこないが、自分に何らかの形でその形成に協力させてもらえないか、そのために現在の職を辞することも厭わない、という一般的な申し出をするつもりでした。
 ところが、その後、Fが気を回して、スタンフォードに我々より後で留学し、彼と面識のあった浅尾慶一郎参議院議員・・当時36歳で民主党の人材発掘担当だった・・に対し、太田は民主党から選挙に出ることを希望している可能性がある、と私のことを話し、3人で会う手はずを整えてくれたのです。
 しかし、そのことを彼が私に伝えてきたのは、4ヶ月後の11月29日であり、もう私が忘れかけていた頃でした。
 その時、Fを通じて浅尾君・・彼、大学学部と留学先の大学院の双方での後輩なので君づけにさせていただく・・に、参院比例区が拘束名簿式でなくなってしまっているので、選挙に出るという大きなリスクは負えないが、防衛庁を何とかしたいと思っており、そのため、民主党に対して色んな形での貢献をしたい旨を伝えて貰いました。
 しかし、Fいわく、浅尾君は、あなたを選挙に出すつもりだ、と。
 12月23日、浅尾君と会ったところ、今度の参院選で、本来出身の三重県から出て貰うべきところ、既に民主党候補が擁立されているので、(リスクはあるが)比例区から出て貰えないか、というお誘いがありました。
 そして、総合雑誌で私の持論をぶちあげ、本もできれば出版し、話題を呼び、名前を売った上で、ホームページ中心の選挙運動を展開する。そのための支援は惜しまない、落選したとしても、次に衆議院総選挙があるではないか、生活保障も考える、とにかく民主党幹部に引き合わせたいとたたみかけてきました。
 私は、「総合雑誌で私の持論をぶちあげ、本もできれば出版・・・そのための支援は<民主党として>惜しまない」というくだりに心を動かされましたが、とりあえずは、考えて見ましょう、とだけ言って別れました。

 年が改まった2001年1月12日、浅尾君に私の友人達による情勢分析であるとして、以下を伝えました。

一、今次参議院選挙の比例区においては、ホームページ戦略は候補者みんながとるので、効果は相殺されてしまう。60-70万人に名前を書いてもらう必要があるとすると、やはり基礎組織票の多寡が決定的な要素。(比例区で民主党からスーパースターが出て当選ラインが下がれば話は少しは変わってくるが、そんな可能性はあるまい。)
二、比例区における民主党の力の入れ方は、当然、一、の理由から、当選可能性が高い既存の労組関係候補が中心となろう。ホームページ中心の戦略をとると民主党が言っているとすれば、それは太田の位置づけの低さを物語るもの。
三、また、自衛隊員や自衛隊OBの間では、民主党は、旧社会党系の人々を抱え込んだうさんくさい党として極めてイメージが悪い。しかも、彼らは上からの「指示」、「しめつけ」に弱く、大部分は自民党ないし自民党候補に投票するだろう。そうでない少数の人々も、親近感のある制服出身候補である自由党の田村氏に投票するだろう。太田がかかる状況を打開できるかどうか疑問。つまりは自衛隊関係者の票に期待はできない。
四、よって、太田の当選する可能性は皆無と断言できる。(民主党にはそれでも損はない。自民党を含め、各政党は、比例区選挙の余りの候補者難に頭を抱えている。トータルの票数を少しでも増やすため、使い捨て候補を一人でも多く確保したいと血眼になっている。)
五、しかも、いざ選挙となれば、欲が出、頭に血がのぼり、どうしても更に自分のカネをつぎ込みたくなるもの。落選した上、借金の山を抱えるのが関の山。
六、それだけではない。ただでさえ、選挙に出れば色がついてしまい、評論家業も含め、その後の進路がせばめられるところへもってきて、昨今の政治家不信はすさまじく、落選者には誰も見向きをしないだろう。
 (そもそも、民主党から出れば、太田の主張内容いかんにかかわらず、落選後、防衛庁関係の企業等への再就職は絶望的。)
七、落選後、民主党が生活の面倒を見ると言ったり、総選挙の時具体的にこれこれの処遇をすると現時点で言ったところで、現在の民主党に責任ある政治組織としての実態があるのかどうかすら疑わしく、「約束」など守られるわけがないと認識すべき。政治家個人の「約束」など、なおさら信用すべきではない。役所を辞め、落選し、ただの人になったら、急速に鮮度は落ち、民主党にとっての利用価値はなくなる。
八、ちなみに、防衛庁関係者に対しては、かねてより民主党からも種々のアプローチがあり、これらの人々が今度の選挙に出るかどうかはともかく、民主党が太田に対し、「唯一」の「貴重」な(防衛庁出身)防衛問題専門家としての処遇を今後してくれるはずもない。
九、よって、今次参議院選挙比例区には絶対出馬すべきではない。(ただ、民主党に風が吹いていることは事実であり、どうしても出たいのであれば、せめて次の総選挙まで待って、地方区から出るべき。)

 私が、自分が立候補するとすれば、それがいかに無謀な試みであるかを十分自覚していたことがお分かりいただけると思います。
 翌日届いた浅尾君の答えは、次のとおり。

 「・・・一点を除き非常に客観的な意見だと思います。
 それは、メディアに対するしかけをどう考えるかということです。
 能動的に仕掛けたものと、ただ皆がやるから行うからネット戦略と違うものがだせるかと思っております。(その比重・インパクトが小さければ、出馬しても仕方がないということになります)
 その為に<熊谷幹事長代理に会っていただく>26日の前にメディア(宣伝・CMのプロ)にお会い頂き、可能性を探って頂こうと考えた次第です。
 そこで、25日午後4時から6時位でそのCM作成のプロと会うのは如何でしょうか?・・・」

 というわけで、1月25日夕刻、参議院議員会館の浅尾君の部屋で「広報戦略専門家」・・ストラテジストって奴ですな。政治家候補者にマーケティング戦略を授けることを生業にしている人が日本にもいるんですねえ・・のM氏、及び「週間文春」記者のT氏(リライター)を紹介されました。
 浅尾君がとにかく何か書いてみてくれと言っていたので、防衛庁の現状を憂いた原稿を書いたところ、この原稿がT氏を通じて既に「文藝春秋」編集担当者にわたっており、目標は5月号への掲載だが、中身はあるのだから、間違いなく載るのではないか、とT氏は言うのです。
 浅尾君は浅尾君で、民主党は、次の参院選では、比例で14名当選と踏んでいるが、9名の労組出身者以外の5名に入りうる人々の知名度は(ツルネン・マルティン以外は)いずれも高くないので、充分太田さんが当選できる、と景気の良い話をします。
 私は、選挙の話は半信半疑だったけれど、「文藝春秋」に拙稿が載る、という話の方はある程度信じて、大いに勇気づけられました。
 同誌に載れば、評論家としての目が出てくるかも知れないと思ったからです。
 (しかし、後でまた言及しますが、最後の瞬間になってこの話、ドタキャンになったということを前にコラム#2167で書きました。)

 こうして、昂揚した気持ちで、1月26日(金)、東京の全日空ホテル三階「hg」で、熊谷弘衆議院議員(幹事長代理。総合選対事務総長)、佐藤敬夫両衆議院議員(選挙対策委員長)、そして浅尾君と朝食を共にしました。
 いささか品のない箇所も出てきますが、ここは、当日の日記から、ほぼそのまま転載しましょう。
 随所に私のコメントを付す、という太田コラム方式で進めます。

 熊谷議員の話は、
一、自民党から独立している企業へのあなたの再就職を検討中。その企業から返事が来るまで、数日かかる。(これは、落選後、総選挙までのつなぎ。)これを受け、・・・その上で鳩山代表らに会ってもらうことになる。

→私は、民主党による民間企業への再就職も一種の天下りであるという認識であり、そんな話を受ける気はなかったけれど、こういう発言は、彼にとっては定番なのでしょう。
 当日の夜、浅尾君に「落選時に民間企業にというお話は、初めてうかがった。ありがたいことではあるが、私の安全保障に係る知識・経験を民主党として活用したいとのかねてからのお話と矛盾するのではないか。(議員に当選しない限りは、活用するつもりはないということか。)」というメールを送っています。*
 結局、数日どころか、いつまで経っても企業名が熊谷さんの口からは出ることはありませんでした。
 私は、この話、民主党の誠意を試すつもりであえてその時謝絶しなかっただけであり、その後、ほとんど忘れてしまっていたのですが、これ、考えて見れば、典型的な詐欺師のやり口ですよね。(太田)

二、総選挙では、関東地区からの出馬となる。

→私は、衆議院議員になれば、常に選挙のことを考えていなければならず、腰を据えて安全保障問題に取り組めないので、総選挙に出るつもりはありませんでしたが、この時点では、あえて口をつぐみました
 浅尾君への上記メールでは、「このお話は、私に対して、衆議院総選挙に出ることを義務づけるものなのか。換言すれば、総選挙までのつなぎ以外の何物でもないのか。(ご支援の結果、名前の「売り出し」にある程度成功したが、落選した場合、評論家として活動を続ける(努力をする)オプションが閉ざされる恐れがある。)」と記しています。*
 この浅尾君宛メール*には、調べたところ、返信はなかったようです。彼も答えようがなかったのでしょうね。(太田)

三、防衛庁OBを訪問したりすることは余り勧められない。そもそも、防衛庁関係者の票に余り期待してはいけない。

→ここは、さすが政治のプロ、的確な読みだな、と一番感心した部分です。
 他方、落選したら私を総選挙に出そうと思っているのであれば、参院選で余りにみっともない形で私を落選させるわけにはいかないだろうから、私が立候補を受諾したら、私に対して相当梃子入れをしてくれるのだろうな、と思いました。(太田)

四、「国家理性」の問題は、経済・財政問題の目処(民主党は、弱者の立場に立って対処する所存)がついてからの話。鳩山代表の集団的自衛権等に関する発言は、中曽根にそそのかされたもので、民主党つぶしの謀略にひっかかってしまった。公共事業削減の話と言い、鳩山には、全く政治的センスがない。60億も財産のあるやつだから、そんなアホなことが言えるのだ。

→前段は、まだ、民主党は安全保障政策を打ち出す時期ではないという趣旨ですが、それは必ずしも安全保障の勉強をしない、ということではなかろう、と自分に都合良く受け止めました。
 後段の鳩山批判にはいささか呆れましたね。
 熊谷幹事長代理のようなことを言ってたら、いつまで経っても、やらなければいけないことが先送りになってしまうではありませんか。
 まさに、そんな意味での政治的センスなんて糞喰らえの「宇宙人」たる鳩山由起夫を代表に戴いていたからこそ、民主党のために一肌脱ごうと思っていた私だけに、なおさらです。
 しかし、今、考えてみると、鳩山代表は、そういった思いつき的キャッチフレーズを口にしていただけで、それを裏付ける理念も、それを肉付けしたアクション・プランも、なーんにも持ち合わせていなかったんですね。
 だけど、恐らくは、熊谷さんだって、そこまでは鳩山代表のこと、分かっていなかったんじゃないかと思いますよ。(太田) 

五、労組票など、全くあてにならない。あなたには、若干の宗教団体票を割り当てる。もっとも、「お見合い」をして、それぞれの団体に気に入られなければならない。この団体回りは、相当のハードスケジュールになる。ポスターは、これらの団体の人々が無償で貼ってくれる。ただ、紹介はしたがよいが、その後で立候補をしなかった奴がいる。紹介するのは、あなたが立候補を決めてからにしたい。

→私への梃子入れはこういう形でやってくれるんだな、と思いました。
 (なお、後で、労組票など云々、というのは単に、労組票をその労組出身者以外に割り当てることなどできない、という意味だと気付きました。)
 そして、私が立候補を受けた時点で、ただちに宗教団体に紹介してくれる、と受け止めた次第です。ところが、そうは問屋が卸しませんでした。(太田)

六、いずれにせよ、「国家理性」関係については、民主党は人材不足。これを解消するために、検事出身者等にも声をかけている。

→ここは、実は、その後の展開の不吉な伏線を、熊谷さん、明かしちゃってたんですね。(太田)

七、鈴木正孝は、静岡市長選挙に落ちてから、新進党候補として参議院静岡地方区で出て当選するまで、自分自身が大変な支援をし、借金も全部払ってやった。それなのに、一言の挨拶もなく、自民党に移ってしまった。今度の選挙では絶対に落としてやる。彼に比べ、田村氏ははるかにましだ。

→鈴木正孝さんは、静岡市出身で、私より8歳年上、中大法卒、防衛庁の5期先輩です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E5%AD%9D
 彼についてのウィペディア↑には、静岡市長選に出馬して落選した話も、参議院議員選挙で当選してから5年目の防衛政務次官になった以降の話も出てきませんが、熊谷さん(選挙区が静岡県)ご託宣通り、私の出た2001年の参院選で落選し、現在に至っています。 田村秀昭さん(コラム#2169、2174、2202)は、東京都出身で、私より16歳年上、防大1期生、1957年に航空自衛官になってから1964年に京大・・現在もそうではないかと思いますが、東大は自衛官を受け入れていませんでした・・で工学博士号取得、空将で退官後、1989年に参院選で比例区で当選、2007年まで参院議員を勤め、その間、自民党→新生党→新進党→自由党→民主党→国民新党と常に小沢の意向に沿って渡り歩いた人物です。
 政界を引退した秋に山田洋行事件が発覚した際、山田洋行に役員待遇の顧問として採用するよう迫っていたことや同社の丸抱えで選挙資金の支援を受けていたことが判明し、秋の叙勲(旭日重光章)受章を辞退し、翌年1月早々、胃癌のため逝去しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E7%A7%80%E6%98%AD
 熊谷さんは、ここでは、鈴木、田村両名の政党の渡り歩き方のマナーについて語っているのであり、田村さんの不祥事疑惑を予見してこういう発言をしたわけではないのでしょうが、面白いですね。(太田)

八、江本は、前回の参議院議員選挙で順位が低いとふてくされ、全く選挙運動をやらなかった。けしからん。

→江本孟紀については、説明する必要がないでしょうが、私より1歳年上で、1992年から2004年まで比例区で2期参院議員を勤めていて、スポーツ平和党から始まり、最後に所属していたのが民主党です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9C%AC%E5%AD%9F%E7%B4%80
 熊谷さんが言っているのは、1998年の選挙の時の話でしょう。(太田)

九、自由党が集団的自衛権を事実上否定した?(知らなかった。)

→これは、私の話を受けての言ですが、熊谷さん、国家理性とか言うわりには、安全保障問題になど、さして関心を持っていないことがバレバレです。(太田)

十、トヨタの会長らが予算編成に発言権を持つようになった、今回の制度改正は、とんでもない話だ。特定の会社の利益に沿った財政政策がとられるということ。

→これは、自民党の話であり、説明は止めときます。(太田)

 一方、私からは、
一、まず、国民一般が関心を持っている経済問題等に取り組んだ後、「国家理性」の問題に取り組むということは、戦後一貫してやってきたことだが、その結果が現在の閉塞状況なのではないか。
二、私は女性問題にも強い関心を持っているが、民主党の女性政策も見えてこない。熊谷さんも役所に勤めていたことがあるからお分かりだと思うが、働く女性に対する構造的差別がある。(氏の目が点になった。トホホ!この人は、社会の実態を知らない。)他方、女性一般は、未だに専業主婦指向が強い。「解放」されたがっていない。よって、女性政策と言っても、現在の女性世論を踏まえるのか、一歩先にターゲットをあてるのかという点にむつかしさがある。・・・
三、私は、広く世界を見過ぎてしまったせいか、あらゆることに腹を立てている。申し上げたいことは、私の「国家理性」的な物の考え方と、(女性問題等に対する)先鋭的主張とは、イクイヴァレント<(equivalent)>だということだ。

→とまあ、後に私が選挙用に自分のホームページを立ち上げたときに掲げた「主張」
http://www.ohtan.net/opinion/opinion1_text.html
の骨子のようなアオーい話をしたんですね。

 さて、ここまででお気づきでしょうか。
 まだ、この時点では私は立候補を決めていないわけですが、私を選挙に勧誘したキーマンたる熊谷さんにせよ、浅尾君にせよ、どちらも後に民主党を離党していることに・・。
 お二人の紹介を兼ねて、その話を先にしときましょう。

 熊谷さんの方から行くと、1940年6月生まれで、1964年一橋大社会学部卒、通産省入省、その後、自民党から立候補して参院議員、衆院議員、小沢一郎と行動を共にします。そして、新生党でもって、細川内閣の通産大臣。内藤正久産業政策局長を更迭したのは有名ですよね。次いで羽田内閣の官房長官。今度は、小沢と袂を分かち、民主党に合流し、幹事長代理時代に私と接点ができたわけです。
 そして、2002年、犬猿の仲の菅直人が代表になると、二階俊博と保守新党を結成して、その代表になるのです。
 2003年の総選挙では、小沢が合流した民主党が躍進し、保守新党は惨敗し、何と友党の自民党からも城内実という刺客、そして民主党からも刺客を送られるという挟撃を受け、熊谷さん自身も落選してしまい、政界からの引退を余儀なくされて現在に至っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%BC%98

 次に浅尾君です。お父さんは外務省で北米局長、イタリア大使をやった浅尾新一郎氏ですが、1964年2月生まれで1987年東大法卒、興銀に入り、同行からスタンフォード大学留学、MBA取得。1996年、衆院選に立候補するも落選。1998年参院選で民主党公認で神奈川県選挙区から立候補して当選。この任期中に私と接点ができたわけです。
 次の内閣の外務大臣、官房副長官、防衛大臣を歴任。2009年に、二期目の参院議員を辞めて衆院選にみんなの党から立候補し落選するも比例で復活当選し、現在同党の政策調査会長をしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B0%BE%E6%85%B6%E4%B8%80%E9%83%8E 
 (浅尾君については、コラム#2167、2178、2188,2211、2219、2299、2414、2598、3287、3414、3437、3478、3486、3494に言及があります。彼とのフカーい縁(えにし)を感じますね。特に#2219参照。)
 
 7党を渡り歩いた挙げ句、悲惨な形で政治生命を絶たれた熊谷さんに比べると、危ない橋を渡って衆院議員への鞍替えを果たした浅尾君はまだ見所があるのかもしれませんが、それぞれ、民主党が政権をとる少し前、そして民主党が政権をとる直前に民主党を離れ、自民党恒久政権の打倒に逆行する行動をとったことは誉められたことではありません。
 こんな、民主党に対する思い入れに乏しい2人に誘われた私は、巡り合わせとはいえ、ついていなかった、というべきでしょうね。

 そうそう、忘れないうちに申し上げておきますが、この二人からはもちろん、民主党事務局の人達から、一度も私に民主党員になって欲しいという話が出ず、結局、私は、民主党員になることなく、選挙を終えることになります。
 当時は、何も奇異に感じなかったのですが、この話をコラムに書いた(#73、751)ところ、確か一度2ちゃんで問題視されたんじゃなかったかと思います。
 みんなが単に手続きを私にさせるのを忘れていただけだったのかもしれませんが、仮にそうだとしても、(民主党がウン千万のカネを私のために支出したことを勘案するまでもなく、)民主党は全く党の体をなしていない、と言われても仕方ないでしょうね。
 現在の民主党は少しは体をなしてきている、と信じたいところです。

 話を戻しますが、結局、1月30日、浅尾君を通じて、熊谷さんに立候補受諾の連絡をしました。

 2月13日、浅尾君の斡旋で一人目の秘書(名大法4年で卒業目前。男性。以前から民主党と関わりあり)が内定します。
 ちなみに、二人目の秘書(奈良女子大卒。女性。30台前半。たまたま再就職待ちの状況だった)・・メインの秘書です・・が友人の斡旋で内定したのは3月23日と遅れます。
 これは、浅尾君が斡旋した50台半ばの元商社マンを、面接後お断りした、ということがあったからです。
 この2人、本当によくやってくれました。
 二人とも、全く初めての仕事なのに、やる気と機転がハンパじゃないんですね。

 そして、17日、かねてよりの浅尾君の示唆に従い、浄土真宗大谷派の推薦を受ける目的で、母親と父親の葬儀の際に読経をしてもらった寺の住職と面会し、18日、今度は、新党政治連盟の推薦を受ける目的で浅尾君の秘書の案内で鶴岡八幡宮の関係者とも接触しました。
 こういう話、日本じゃ、常に、下から上に話をあげていかなきゃならないんですね。
 しかし、これらが、熊谷さんの言っていた宗教団体であるはずがありません。そもそも、私が推薦が受けられるのかどうかさえ分からないのですからね。
 (結局、どちらも推薦を受けることはできませんでした。お断りの理由ですが、前者は比例区だと特定の政党を推薦することになるというものであった一方、後者は想像はできるけれど、具体的に教えてはくれませんでした。)
 2月19日、民主党本部で熊谷さんと懇談したところ、彼、参院選では民主党が大勝するだろうと、いかにも私にも当選可能性があるような景気の良い話をしていましたね。
 この時点では、さすがに、宗教団体の話はまだか、とは言い出せませんでした。

 2月26日、三重県志摩の地方名望家である叔父が協力を申し出てくれました。
 叔父は、もともと、自民党の藤波孝生衆議院議員
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AD%9D%E7%94%9F
の有力支持者で、藤波議員の不祥事が露見した時、自ら彼とは縁を切り、その後、政治とはご無沙汰だったけれど、私が出馬することを知って血が騒いだようです。
 この叔父、住んでいた三重県の伊勢志摩では民主党の山村健衆議院議員
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E5%81%A5
の事務所、そして彼の生まれた、同じ三重県の四日市・・私の生まれた場所でもある・・においては民主党政調会長(当時)の岡田克也衆議院議員・・彼が初立候補するにあたって、四日市の票をとりまとめたことがあると言っていました・・の事務所に話をつけ、更には全国にいた彼の友人にも呼びかけて、まことに絶大なる支援活動をしてくれました。

 3月1日、選挙担当の民主党事務局員C氏と面談したところ、熊谷さんや浅尾君の景気の良い話とはエライ違いで、「新興宗教票は、公明党が連立から離脱すれば、自民党に戻ってしまう。<そのココロは、宗教団体をつける話が実現しない可能性もある。>あなたの立候補は民主党にとっては利益があるが、あなたにとっては?<そのココロは、当選することなど覚束ないのにどうして立候補なんかするのよ>」と言われてしまいます。
 民主党事務局には私の高校時代の同級生のHもいたのですが、彼も、以前から浮かぬ顔をしているので、事務方がそう瀬踏みしている以上は、やはり私の当選する可能性は少ないのだな、と自覚させられました。

 そのH、私の本の出版をとの浅尾君の意向もあり、同じく高校の同級生のKが日本評論社勤務なので、私の本を出版する手はずを整えてくれていました。民主党が私に渡す政治資金で出版経費を賄う・・その見返りに出版された本を私が大量にもらってこれを事前運動に使う・・ことになったのです。
 そこで、この頃、私は忙しい間をぬって、過去の文章を集めて手を入れたり、新しく文章を書いたりし続けていました。
 こうしてできたのが『防衛庁再生宣言』です。
 タイトルをつけたのはKです。
 この時、私がもらい受けた分、まだ部数が残ってます。
 欲しい方にはお譲りしますよ。

 3月13日、防衛庁を退職しましたが、何の感慨もありませんでした。

3 事前運動

 3月14日、毎日と読売に私が民主党から出る旨の記事が載りました。 
 3月16日、新聞辞令が出てからなので、順序が逆になってしまいましたが、党本部の外で民主党の集まりが行われていた日、浅尾君付き添いの下、民主党組織委員長川端達夫衆議院議員にまず挨拶。次は特別代表羽田孜衆議院議員(元首相)、更に党代表鳩山由起夫衆議院議員と幹事長菅直人衆議院議員が一緒にいる部屋で彼らに挨拶しました。鳩山代表いわく、「浅尾君がうまくだまして引っ張ったな。それにしても、当選していただけるのか。」。菅さんは一言も発しませんでした。
 外に出ると、伊藤惇夫・民主党事務局長・・現在、TV等で政治評論家として活躍している人です・・とすれ違い、挨拶しました。

 そして、忘れもしない3月17日、ホテル・ニューオータニのスイート・ルームで「文藝春秋」の編集部員2名からインタビューを受け、カメラマンによる写真撮影も行われました。
 4月発売の同誌5月号に拙稿が掲載されるのは間違いない、と思いましたね。
 しばらくして、このインタビュー部分が織り込まれた形で、しかも、拙稿に相当筆が入れられた形のゲラが私の所にFAXで届きました。
 ところが、その翌日に、編集長の鶴の一声で掲載中止になったという連絡が入るのです。
 いまだに、急に何でそんなことになったか、理由が全く分かりません。
 私は、これで、私の当選の目は完全になくなったと覚悟しました。
 しかし、気を取り直して、当時、雑誌「選択」の編集長をしていた、やはり高校同級生の阿部重夫・・現在、自分で立ち上げた雑誌「ファクタ」を発行しています・・
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%A4%C9%F4%BD%C5%C9%D7
に話をし、同誌に、この文藝春秋用原稿を大幅に圧縮した拙稿を載せてもらうことにしました。

 3月23日、民主党本部で幹事長代理室で熊谷さん、浅尾君、そして私の3名が、宗教評論家Sから、宗教団体と政治についての話を聞きました。
 「神道政治連盟は、明治神宮(宮司は自民党べったり)と鶴岡八幡宮が中心。政治に積極的に関わっているのは、飛騨を本部とする「信敬真光の会(しんぎょうまひかり)」だ。もし本当に動いてくれるのなら、西本願寺が最有力。しかし、これまでは、どちらかというと部落解放運動とのつながりから社会党との関係が深かった。」といった話でした。
 ここで、初めて「真光」の話が出るのですが、この時点では、名前が出ただけにとどまりました。

 3月28日、浅尾君の議員会館の部屋に赴くと、前出の広報戦略専門家M氏とともに、同氏ご推奨のヘアメイク、その奥さんでスタイリスト(私は西武の百貨店の人だと勘違いしてました)、更には念の入ったことに、西武百貨店渋谷店の外商の人、という4人が待っていました。
 私の外見の一切をコーディネートする、というわけです。
 その日、すぐにこのヘアメイク氏の青山の店でヘアカットをしてもらいました。背中を反らせて洗髪する方式です。9000円弱かかりましたね。
 しばらく経ってからのこと、これは私の秘書2人とも意見が一致したのですが、いつまで経っても私のポスターやチラシ用の写真撮影の段取りが決まらないので、M氏はものの役に立たないと判断し、彼の「子分」のヘアメイクとスタイリストとともに彼との関係を断つことにしました。
 (その際、スタイリストから、浅尾君を巻き込んで、大枚の謝金の請求があり、支払ったのですが、秘書がその後も何度請求しても領収書はもらえませんでした。)
 つくづく思ったのは、議員になると、大勢の怪しげな人物がヨイショしながら出入りするようになるんだな、ということと、やたらカネがかかる生活をするようになるんだな、ということです。
 よほど心していても、議員を長くやっておれば、スポイルされてしまうでしょうね。
 2世政治家なんて、もっとスポイルされていると思った方がいいでしょう。

 4月9日、防衛庁というか自衛官OB達の政治団体である、政治連盟「防衛を支える会」から推薦状を受領しました。防衛庁OBで選挙に立候補した人には原則、推薦状を出す慣例であり、もらったからと言っても、ほとんど足しにはなりません。
 4月10日、冒頭に登場したFの家族ぐるみの多大なる支援を得て、私の選挙用ホームページが立ち上がりました。
 落選後もこのホームページを閉鎖せず、11月からこのホームページのメルマガ機能を使ってコラムを書き始めたのが、皆さんがお読みになっている太田コラムのなれそめです。
 結果的には、それが、このホームページを作成した、唯一、最大の成果であった、と言えるかもしれません。

 4月11日、前出の叔父から、四日市の岡田事務所には既に話をつけてあるが、岡田克也本人に挨拶してくれと言われたので、アポイントをとって衆議院議員会館で岡田政調会長と面談しました。
 その時、「私は、政調会長という立場から、労組との関係もあり、比例の候補者の支援はできない」ととりつく島もない返事をされて唖然としました。
 だが、その後の叔父の話では、四日市の岡田事務所は実によく協力してくれたとのことですから、これは、岡田君・・大学の学部、及び官僚の5年後輩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%85%8B%E4%B9%9F
なのでそう呼ばせてもらいます・・が、自分の現地事務所のことさえロクに把握できていない殿様なのか、そうでなくて、把握はしているけどあえて四角四面なタテマエ論を吐いたのか、判然としませんが、いずれにせよ、彼、よくまあ政治家ができてるもんだ、と呆れましたね。
 だから、現地事務所・・かなり後ですが、私は叔父と一緒に訪問しています・・にはお世話になったけれど、岡田君に世話になったという気には全くなりませんでした。
 落選後、幹事長代理になっていた彼と、もう一度面談する機会があったのですが、その時、私が再び唖然とさせられた話はまた後で・・。

 4月16日、もうこの頃には自民党総裁戦で小泉旋風
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%97%8B%E9%A2%A8
が吹き始めていたのではなかったでしょうか。Hが真顔で「今からでも立候補を取りやめたら」と言い出しました。Cさんが私の選挙事務所に顔を出すようになっていたのですが、Cさんは、もともと私が当選するとは全く思っていないところ、このままでは、選挙の形にさえならず、民主党が(ひっぱっておいて何だという非難を受けて)ダメージを受けてしまうという危機意識を持ったために、自発的に私の選挙事務所に顔を出している、と言うのです。
 しかし、今更引き返すわけにはいきません。
 4月26日、小泉純一郎内閣が発足します。民主党にとっては大変な逆風に変わってしまっていました。
 これは落選どころではない悲惨な選挙結果に終わるかもしれない、という不安がそれから私につきまといました。
 この頃から、いつまで経っても熊谷さんから、彼が請け合った宗教団体への紹介がなされないことに腹を立て、私は約束の履行を迫り始めました。

 4月17日、浅尾君と一緒に参議院議員会館一階の第二会議室へ。たまたま、外の廊下を通りかかった民主党衆議院議員川内博史(九州比例区)、同近藤昭一(愛知三区)両名に紹介されました。そして、第一回「民主党21世紀の防衛を考える会」と銘打って、衆議院議員松原仁(東京3区)政策担当秘書矢島光弘、衆議院議員伴野豊(東海比例区=愛知8区)、同山村健(東海比例=三重5区)の皆さんと懇談しました。

 4月19日、熊谷さんの指示に従い、浅尾君と一緒に衆議院内の第一控室(民主党特別代表室)で羽田さんに面会しました。「<太田さんのための>宗教団体の一つが固まった。信敬真光の会だ。真光は従来、村上<正邦(生長の家職員を経て自民党参議院議員(比例区):1980〜2001年。労相を勤める。KSD事件で受託収賄罪容疑で逮捕され、有罪判決
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A3%E9%82%A6
)>、小山<孝雄<(生長の家職員を経て村上の元秘書。自民党参議院議員(比例区):1995〜2001年。KSD事件で受託収賄罪容疑で逮捕され、有罪判決
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%AD%9D%E9%9B%84
)>を推していたが、羽田さんの友人の作曲家の三枝<成彰(しげあき)>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9D%E6%88%90%E5%BD%B0
氏を通じて話をし、こちらを向かせることに成功した。」という熊谷さんの触れ込みでした。
 しかし、羽田さんは、「京都の綾部で、隊友会員が、太田さんを応援していますと言っていた。」といった話から始まり、「真光の教祖から、羽田さんから話があれば、その人を<選挙で>支援すると言われたことがある。しかし、この宗教の音楽を作曲した三枝さんを通じて話をした方がいいだろう。三枝さんは民主党とつき合っているとして、自民党ににらまれ、多くの仕事を棒に振った。」と頼りない限りであり、がっかりして辞去しました。 
 羽田さん、一応元首相だけど、全く風圧を感じませんでしたね。

 4月26日、第二回「民主党21世紀の防衛を考える会」が参議院議員会館で開催され、熊谷幹事長代理が冒頭に挨拶をして退去した後、浅尾君、木俣佳丈参議院議員(愛知)、海野徹参議院議員(静岡)、福山哲郎参議院議員(京都)、佐藤雄平参議院議員(福島)、伴野豊衆議院議員(東海比例)、松原仁衆議院議員(東京3区)、松野頼久衆議院議員(熊本1区)、松本剛明衆議院議員(兵庫11区)、鈴木康友衆議院議員(静岡8区)と懇談しました。
 伴野議員が、私の話もパンフレット案もまるでダメ、自立を口にするなら自分たちに頼るな、と挑発的な言辞を口にしたほか、防衛庁まで批判しているのでは身内の票がとれるわけがないだろう、という声もあがりました。
 「防衛を考える会」に出席した議員の中で、その後、私のために実際何かやってくれたのは、熊谷、浅尾両議員を別にすると、(既に叔父が手を回していた)山村健と私の自宅がその選挙区である松原仁の両議員だけでしたね。
 また、出席した議員ではありませんが、桜井充参議院議員(宮城)も多大な協力をしてくれました。(選挙が終わってからも具体的な支援をしてくれたのは彼だけでした。)

 この頃、私のイライラ感は最高潮に達しつつありました。

(次回の「講演」に続く)
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      --皆さんとディスカッション(続x1083)--

<ΤΤδδ>(「たった一人の反乱」より)

 BBC、二重被爆者を「世界一運が悪い男」と笑いの種に 日本大使館が抗議
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110121/erp11012108200034-n1.htm

<太田>

 こんな話で大使館が抗議するくらいなら、原爆投下は必要だったということを誰かが言ったり書いたりした時に抗議しろってんだよ。
 やったことないはずだぜ。


 それでは、記事の紹介です。

 吉田茂にせよ、高坂正堯にせよ、それぞれ、現役の時、元気な時に吉田ドクトリンを否定しなきゃいけなかったのに、と怒りを覚えるね。↓

 「・・・高坂正堯教授(国際政治学者)・・・はがんで亡くなる直前、教え子の前原<誠司>氏への話で、日本が今後、考えなければならない問題として(1)集団的自衛権の解釈(2)公共事業見直し(3)米国の重要性−を強調したという。・・・」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110122/kor11012202540009-n1.htm

 韓国海軍、ソマリアの海賊を粉砕!↓

 South Korean navy commandos have stormed a cargo ship which had been seized by pirates in the Arabian Sea.
All 21 crew members of the South Korean-owned Samho Jewelry were rescued, said Lt Gen Lee Sung-ho of the Joint Chiefs of Staff.
The navy said eight of the pirates had been killed and five captured.・・・
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-12248096

 これは、北朝鮮に対して示威効果があるって分析がなされてる。
 このところ北にやられっぱなしという汚名を、少しでも晴らせてよかったね、韓国軍。↓
http://www.csmonitor.com/World/Asia-Pacific/2011/0121/South-Korea-delivers-setback-to-Somali-pirates-and-a-warning-to-North-Korea

 重犯罪を抑止するためには、もっと一般市民に自由に銃を保持させるべきだとする議論に対する反論データだ。↓

 ・・・those with guns were four times more likely to be shot when confronted by an armed assailant than those without guns. The unarmed person, in other words, is safer.・・・
 Hawaii, where only 9.7 percent of residents own guns, has the lowest gun death rate in the country, while Louisiana, where 45 percent of the public is armed, has the highest. ・・・
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/01/20/myth-of-the-hero-gunslinger/?pagemode=print

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 一人題名のない音楽会です。
 ワーグナー特集の最終回です。

[ジークフリート牧歌(Siegfried Idyll)](1870年)
指揮:Georg Solti ウィーン・フィル
http://www.youtube.com/watch?v=oFtpLhfKJ_0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=N9mSlVYpsuM&feature=fvw
上記のグレン・グールド編曲 ピアノ:Vestard Shimkus
http://www.youtube.com/watch?v=I3WC4avQt50
http://www.youtube.com/watch?v=7z3PXRWZtBE&feature=related

 (注3)ワーグナーは、この作品を、彼の2番目の妻(で長らく不倫関係にあったところ)のコジマ(Cosima Francesca Gaetana Wagner。1837〜1930年。リストが某伯爵夫人との不倫でもうけた子供)・・彼女は、この年、指揮者ハンス・フォン・ビューローとの離婚が成立したばかりだった・・に、自宅で、彼女の33歳の誕生日プレゼントとしてオケ演奏付で捧げた。
 当時、二人の間に3番目の子供(長男)が生まれたばかりであり、楽劇「ニーベルングの指環」(コラム#4499)4部作中の第3部である「ジークフリート」の完成間近だった。この長男に、ワーグナーはジークフリートと名付けている。
http://www.first-born-son.com/first-son/wagner-siegfried-idyll-12-solti
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E6%8C%87%E7%92%B0

[パルジファル(Parsifal)](1882年)
前奏曲(第一幕)指揮:バレンボイム
http://www.youtube.com/watch?v=7w17MamPY7A&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=LnG8HDDrY4w&feature=related
アヴェマリア 映画『ファンタジア』で使用されたもの
http://www.youtube.com/watch?v=mPn3JV3GHRE&feature=related

(完)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/