太田述正コラム#4026(2010.5.23)
<米人種主義的帝国主義と米西戦争(その5)>(2010.9.29公開)

 「マッキンレーは、ローズベルトに、自分はスペインと日本との紛争を回避したいと思っていると伝えた。」(PP177)
 
 「1897年8月、キューバをめぐっての戦争の可能性はうすれつつあるように見えた。
 「常に忠実であった島」にどんな犠牲を払ってもしがみつく決意であった、スペインの保守的な首相が、あるアナーキストによって暗殺され、<その後に成立した>新しい自由主義的な政府は、キューバでの叛乱熱を冷ますために諸改革を行うことを約束したからだ。」(PP179)

 「<ところが、>ハイチ駐留米大使が、ドイツの戦艦群がカリブ海に入ったと報告してきた。
 <そこで、>ドイツ皇帝は、キューバを熟して落ちた果実のように奪い去ろうとしているのではないか<、という疑心暗鬼が米国政府に生じた。>
 <1898年>1月24日、ついに<マッキンレー>大統領は、ドイツの海軍プレゼンスを横目でにらみつつ、・・・装甲巡洋艦メイン(Maine)をハバナに派遣せよとの命令を下した。
 スペインに対しては、これは単なる親善訪問であると安心させた。(注6)

 (注6)駐米スペイン公使のドム・エンリケ・デュプイ・デ・ローム(Dom Enrique Dupuy de Lome。1851〜1904年)は、米国務長官からこの件を聞かされ、了承した。
http://www.loc.gov/rr/hispanic/1898/dupuy.html (太田)

 同じ頃、プロテスタントの説教師達・・・とカトリック教徒達が、マッキンレーにキューバを救えという手紙を携え、ホワイトハウスに溢れた。」(PP200)

→先の大戦前も、支那の米国人宣教師達が、支那を日本から救えという声を上げ、この声にフランクリン・ローズベルト政権が大いに動かされたことが二重写しに思い起こされますね。(太田)

 「<1897年>12月、・・・ローム<公使>は、ハバナを訪問中の彼の友人、マドリードの新聞の編集者、に手紙を書き、その中でマッキンレー<大統領>は、「弱々しく下層階級に迎合するところの、何よりも志の低い(low)政治屋だ」と指摘した。
 この大統領は、二兎を追っており、戦闘的愛国者達に賛同するポーズをとりながら、平和派に迎合しようとしている、と彼は記した。
 この手紙は、スペイン自身がとっているキューバへの懐柔策は冷笑的かつごまかしであることも示唆していた。
 間違いなく、デュプイ・デ・ロームは、キューバに独立を与えるべきであるとは考えていなかったわけだ。
 <この手紙を、この編集者のホテルの部屋に忍び入った、革命一派の秘密工作員が入手し、その上でこの手紙は米国に運ばれ、ハーストの手に渡された。>
 <1898年>2月9日付・・<のハースト系新聞にこの手紙の写真が掲載され、>「米国への史上最悪の侮辱」<という大見出しが踊った。
 <この新聞は、>ただちに「ローム、ゴーホーム」キャンペーンを打ち始めた。
 他の諸新聞もこの叫びに追随した。
 これらの新聞は、この大使が、かくも男性性を気にかける時代においてはひどい侮辱であるというのに、マッキンレーの男性性に真っ向から挑んだことを強調した。
 自分がもはや有用ではないことを悟ったこの大使は、マドリード宛、辞表を電信で送った。」(PP202) 

 「1898年2月15日の夜、<メイン号は、ハバナ港で爆沈した。>・・・
 355名の士官及び水夫のうち250名以上が<死亡した。・・・>
 <この事件をスクープして翌16日の朝、新聞に載せたのは、ハーストの競争相手のピューリッツァー<系の>新聞であり、ハーストは歯がみして悔しがった。>
 しかし、その更に翌日の朝、遅れてしまったスタートを取り戻して抜き返したのが<ハースト系の新聞>であり、「戦艦メイン号の破壊は敵の仕業だった」という一面大見出しがでかでかと載ったのだ。
 その下には、完全に想像上の絵が描かれていた。
 それは、メイン号が不吉な楕円形のもの・・岸辺のスペインの要塞につなげられた巨大な「潜水機雷ないしは固定された魚雷」・・の上に停泊している絵だった。
 その後の版は、「戦艦メイン号は敵の秘密の悪魔のような機械によって真っ二つにされた」と叫んだ。」(PP205〜207、209)

(続く)

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