太田述正コラム#4022(2010.5.21)
<米人種主義的帝国主義と米西戦争(その3)>(2010.9.27公開)

3 米西戦争

 「<キューバの対スペイン叛乱の>イデオロギー上の指導者であったのは、痩身のエミグレであったホセ・マルティ(Jose Marti<。1853〜95年>)(注3)だった・・・」(PP101)

 (注3)ハバナ生まれ。フロリダを中心とするキューバのエミグレ達をまとめたことがキューバの独立に大きな影響を及ぼした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Mart%C3%AD (太田)

 「<しかし、彼にとっての>最初の戦いにおいて、1895年5月<19日>、ホセ・マルティは白馬にまたがって彼の舞台の戦闘に乗りだし、すぐに撃たれて死んでしまった。
 マルティの殉教によって、新しく叛乱者達の司令官になったのは、・・・マヒモ・ゴメス(Maximo Gomez<。1836〜1905年>)(注4)だった。」(PP102)

 (注4)ドミニカ共和国に生まれる。スペイン軍の将校となり、スペインによる(結局失敗に帰した)ドミニカ共和国併合戦争に従軍、1868年からキューバにおける対スペイン叛乱に参加。
http://en.wikipedia.org/wiki/M%C3%A1ximo_G%C3%B3mez (太田)

 「ゴメスとその他の<キューバの>革命指導者達は、助けを得ようと一生懸命だった。
 それは、同情を買うことによって、北方の眠れる巨人を目覚めさせることを意味し、それはまた、米国の諸新聞に<キューバでの叛乱について>書かせることを意味した。」(PP103)

 「1896年1月、ベネズエラがらみの<英国との>戦争騒ぎが沈静化するに至っていたので、<ハースト系の新聞は>新しい戦争を探しており、ハースト(Hearst)<(コラム#3972)>は、自然と<キューバの>叛乱革命の大義を抱懐するに至った。・・・
 <ハースト系新聞がキューバの話を書き立てたことを受け、>米上院外交委員会はキューバの叛乱者達を正当な交戦者と認める決議案を通した。」(PP105、107)

 「<しかし、米下院議長の>リード(Reed)<(コラム#3976)>は、下院がキューバの叛乱者達を交戦者と認める決議案を採決に付することを差し止めてしまった。」(PP109)

 「リードの鋭い鼻は、キューバをスペインから救おうと欲していた<米国の>戦闘的愛国者達の次第に高まる叫びに偽善性の臭いを嗅いでいた。
 言いたいことを伝えるため、彼は、ハースト<系新聞>その他の新聞の見出しで怒りを掻きたてられていたある南部の下院議員をやすで突くことにした。
 たまたま、南カロライナ州で群衆が黒人の郵便局長を殺害するという事件が起こっていた。
 リードはこの話を読んで新聞からその記事を切り取った。
 それから彼は、吏員にこの南カロライナ州でのリンチの話の<記事の>上に同じ新聞からのキューバの見出しを貼り付けるように命じた。

 キューバでのもう一つの非道(outrage)
 愛国者の身体が弾丸でアナだらけにされ
 捨てられた
 彼の自宅の燃えるたる木

 自分の丸顔で完璧なまでにまじめ顔をつくって、リードは、この記事クリップをキューバへの介入を求めていた南カロライナ州の下院議員に手渡した。
 その男は、このけばけばしい見出しを見てから熱心に話を読み始め、それから読むのを止めてきょとんとしたような顔つきをした。
 彼はリードに、「何で?これ、キューバじゃないじゃん」と言った。
 リードは、「確かにそうじゃないさ」と、メイン州風のがさがさした声でコメントをしてからきびすを返して去って行った。」(PP121)

 「<1896年>2月28日、64対6で米上院は、キューバの叛乱者達を正当な交戦者と認める決議を採択した。
 4月には米下院も同調し、合同決議を採択した。
 「皇帝」リード<議長>が<今回は>これを差し止めなかったのは、そうする必要がないことを知っていたからだ。
 キューバに関する戦争を欲していなかったクリーブランド大統領は、この決議に署名するつもりはなかったのだ。」(PP133)

→リードのような、人種主義的帝国主義を良しとしない政治家が世紀末の米国にいたことは忘れないようにしたいものです。
 しかし、そういう人々は、余りにも少なかったわけです。(太田)

(続く)

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