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太田述正コラム#4016(2010.5.18)
<豊かな社会(アングロサクソン論2)(続)(その2)>(2010.9.24公開)
(2)アングロサクソン時代末期
「<当時の>イギリスの繁栄の背後には、地理的幸運以上に、5つの要素があった。
それは、王室の力、投資、(恐らくはその大部分が羊毛であったところの)外国貿易、経済成長のために好都合であるところの様々な要素の相互作用、そして恐らくは魚だ。
経済に対する王室の最大の貢献は、スカンディナビアからの侵攻者との戦争のことを横に置けば、平和<の確保>だった。・・・
・・・欧州一帯の大部分の地域とは違って<、イギリスで>国内での争いごと(civil strife)の記録が極めて少なかったことは銘記されるべきだろう。
<それは、>末期のアングロサクソン政府においては、<泥棒が場合によっては死刑に処せられるといった>暴虐なる秩序感覚が制度化されていたように見受けられる<ところ、そのおかげかもしれない>。
貨幣の質が良かったことと豊富であったことも繁栄をもたらした力として無視できない。
イギリスの繁栄の二番目の鍵は、投資、就中農業への投資だ。
その一つの様相は、・・・6000を超える・・・水車<の存在>だ。
<更に、実に>65万頭を超える農耕用の牛(Plough oxen)<の存在だ。>
<1977年に出版された本によると、西アフリカの>ダホメ(Dahomey)(注1)では、1964年まで動物による牽引はほとんど知られておらず、その10年後でも、まだ3,600頭の農耕用の牛しかいなかった<ことと比較してみよ>。
(注1)17世紀から1894年まで西アフリカにダホメ王国があった。仏領となり、1960年に独立してから1975年までダホメ共和国、その後、ベニン(Benin)共和国となって現在に至る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dahomey
1972年から91年まで共産党独裁体制。面積11万平方キロ、現在の人口は850万人。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benin (太田)
もう一つの種類の田舎での投資は、<魂の>救済に係るものだった。
大量の数の教区教会がこの時期に建てられたが、これは・・・農業面の富が集積していたことを反映している。
三番目の要素として、外国貿易の重要性<がある。>
1140年頃、年代記作者のハンティンドンのヘンリー(Henry of Huntingdon<。1080?〜1160年。リンカーン司教管区の大助祭(Archdeacon in the Diocese of Lincoln)。『イギリス史(Historia Anglorum)』の著者
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_of_Huntingdon (太田)
>)・・・は、・・・大量の銀がドイツから「高価な羊毛」と引き替えに持ち込まれており、ドイツよりもイギリスの方が銀が大量に出回っていると記している。
<この年代記作者は、塩漬け>魚の輸出にも言及している。
(淡水魚と海水魚の双方の)魚は、中世においては、現在よりも重要だった。
海上漁業・・・<特に>鰊漁・・・の重要性がアングロサクソン時代末期に増したことを示唆する証拠がある。
<イギリスは、この時点で、既にウォルト・ロストウ(Walt Rostow)(注2)言うところの経済的離陸(take-off)を果たしていたと言えそうだし、アダム・スミス(Adam Smith)言うところの、経済発展の必要条件たる分業と交易の成立、及び、それを支える高い人口密度と貨幣の全域的流通、が確保されていたとも言えそうだ。>
(注2)1916〜2003年。ユダヤ系。経済学者にして、ケネディ大統領の安全保障次席補佐官、ジョンソン大統領の安全保障補佐官を歴任。The Stages of Economic Growth: A non-communist manifesto (1960年)の著者として有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walt_Whitman_Rostow (太田)
<もとより、イギリスの経済的繁栄は、地理的意味での欧州の中で突出していたと断定することまではできず、>狭い海を渡った、例えばフランダース地方が、イギリスとそれほど違わない経済を有していた可能性はある。」(PP28〜31)
3 終わりに
ローマ時代より前のイギリスとローマ時代のイギリスはもとより、アングロサクソン時代のイギリスも、住民の「人種的」構成がほとんど同じであったことを我々は知るに至っています。
彼等が住んでいたイギリスの環境も、この間変化はありません。
とすれば、ローマ時代のイギリスとアングロサクソン時代のイギリスが、どちらも地理的意味での欧州の中で、いや、恐らくは世界の中で突出して豊かであったとしても、もともとの「豊かな社会(アングロサクソン論2)」シリーズを読んでおられた読者にとっては、少しも驚くべきことではありますまい。
「イギリスは不変であり歴史を持たない」とつい最近も(コラム#4015で)申し上げたことを思い出して下さい。
イギリスって本当に面白いって思われませんか?
(完)
<豊かな社会(アングロサクソン論2)(続)(その2)>(2010.9.24公開)
(2)アングロサクソン時代末期
「<当時の>イギリスの繁栄の背後には、地理的幸運以上に、5つの要素があった。
それは、王室の力、投資、(恐らくはその大部分が羊毛であったところの)外国貿易、経済成長のために好都合であるところの様々な要素の相互作用、そして恐らくは魚だ。
経済に対する王室の最大の貢献は、スカンディナビアからの侵攻者との戦争のことを横に置けば、平和<の確保>だった。・・・
・・・欧州一帯の大部分の地域とは違って<、イギリスで>国内での争いごと(civil strife)の記録が極めて少なかったことは銘記されるべきだろう。
<それは、>末期のアングロサクソン政府においては、<泥棒が場合によっては死刑に処せられるといった>暴虐なる秩序感覚が制度化されていたように見受けられる<ところ、そのおかげかもしれない>。
貨幣の質が良かったことと豊富であったことも繁栄をもたらした力として無視できない。
イギリスの繁栄の二番目の鍵は、投資、就中農業への投資だ。
その一つの様相は、・・・6000を超える・・・水車<の存在>だ。
<更に、実に>65万頭を超える農耕用の牛(Plough oxen)<の存在だ。>
<1977年に出版された本によると、西アフリカの>ダホメ(Dahomey)(注1)では、1964年まで動物による牽引はほとんど知られておらず、その10年後でも、まだ3,600頭の農耕用の牛しかいなかった<ことと比較してみよ>。
(注1)17世紀から1894年まで西アフリカにダホメ王国があった。仏領となり、1960年に独立してから1975年までダホメ共和国、その後、ベニン(Benin)共和国となって現在に至る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dahomey
1972年から91年まで共産党独裁体制。面積11万平方キロ、現在の人口は850万人。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benin (太田)
もう一つの種類の田舎での投資は、<魂の>救済に係るものだった。
大量の数の教区教会がこの時期に建てられたが、これは・・・農業面の富が集積していたことを反映している。
三番目の要素として、外国貿易の重要性<がある。>
1140年頃、年代記作者のハンティンドンのヘンリー(Henry of Huntingdon<。1080?〜1160年。リンカーン司教管区の大助祭(Archdeacon in the Diocese of Lincoln)。『イギリス史(Historia Anglorum)』の著者
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_of_Huntingdon (太田)
>)・・・は、・・・大量の銀がドイツから「高価な羊毛」と引き替えに持ち込まれており、ドイツよりもイギリスの方が銀が大量に出回っていると記している。
<この年代記作者は、塩漬け>魚の輸出にも言及している。
(淡水魚と海水魚の双方の)魚は、中世においては、現在よりも重要だった。
海上漁業・・・<特に>鰊漁・・・の重要性がアングロサクソン時代末期に増したことを示唆する証拠がある。
<イギリスは、この時点で、既にウォルト・ロストウ(Walt Rostow)(注2)言うところの経済的離陸(take-off)を果たしていたと言えそうだし、アダム・スミス(Adam Smith)言うところの、経済発展の必要条件たる分業と交易の成立、及び、それを支える高い人口密度と貨幣の全域的流通、が確保されていたとも言えそうだ。>
(注2)1916〜2003年。ユダヤ系。経済学者にして、ケネディ大統領の安全保障次席補佐官、ジョンソン大統領の安全保障補佐官を歴任。The Stages of Economic Growth: A non-communist manifesto (1960年)の著者として有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walt_Whitman_Rostow (太田)
<もとより、イギリスの経済的繁栄は、地理的意味での欧州の中で突出していたと断定することまではできず、>狭い海を渡った、例えばフランダース地方が、イギリスとそれほど違わない経済を有していた可能性はある。」(PP28〜31)
3 終わりに
ローマ時代より前のイギリスとローマ時代のイギリスはもとより、アングロサクソン時代のイギリスも、住民の「人種的」構成がほとんど同じであったことを我々は知るに至っています。
彼等が住んでいたイギリスの環境も、この間変化はありません。
とすれば、ローマ時代のイギリスとアングロサクソン時代のイギリスが、どちらも地理的意味での欧州の中で、いや、恐らくは世界の中で突出して豊かであったとしても、もともとの「豊かな社会(アングロサクソン論2)」シリーズを読んでおられた読者にとっては、少しも驚くべきことではありますまい。
「イギリスは不変であり歴史を持たない」とつい最近も(コラム#4015で)申し上げたことを思い出して下さい。
イギリスって本当に面白いって思われませんか?
(完)
太田述正ブログは移転しました 。
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