太田述正コラム#4168(2010.8.2)
<『憲法と歴史学』を読んで(その1)>(2010.9.2公開)

1 始めに

 読者の宮里立士さんから、今度は、小路田泰直・奥村弘・小林啓治編『憲法と歴史学--憲法改正論争の始まりに際して--』(ゆまに書房2004年6月)を贈呈され、しばらく前に読み終えました。
 いや、白状すると斜め読みの斜め読みという感じでかろうじて最後まで頁を繰ったといったところです。
 それくらい面白くなかったということです。
 前回の、広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い--古代観の大転換--』(コラム#4136〜)が面白かっただけに、同じ出版社からのシリーズもので、しかも、小路田泰直奈良女子大学教授がこの2冊両方の編集に中心メンバーとして携わっている・・2冊とも序文は彼が書いている・・というのに、これは一体どうしてなのでしょうか。
 私なら、第一に、明治憲法や現行憲法に果たして規範性があると言えるのか、第二に、第9条の政府解釈が必然的に日本を米国の属国たらしめ、その結果日本のガバナンスが失われているのではないか、という2つの問題意識(注1)をひっさげて、このような本を編集することになるであろうところ、小路田ら編者の問題意識がいかなるものであるかが必ずしも明確ではないこと、仮に彼等に一定の問題意識があったとしても、私にはそれが抽象的な・・あえて申し上げれば、明治憲法や現行憲法を取り巻く国内外の政治状況に具体的に根ざさない・・問題意識であるように見受けられること、が原因のような気がします。

 (注1)この本の中で、日本学術振興会特別研究員の頴原善徳は、「帝国憲法では内閣に関する規定は存在していなかった。議院内閣制を説いた美濃部達吉憲法学がしばしば「解釈改憲」と呼ばれるのは、そのためである。」(183頁)と、明治憲法の規範性に疑問を投げかけているようにも読めることを言っているが、この点が、この本の中では掘り下げられていない。

 そこで、この本が提示している史実・・それも、残念ながら使えるものは乏しい・・にだけ着目して、それらをご紹介するとともに、私のコメントを付す、ということでお茶を濁すことをお許しいただきたいと思います。

2 この本が提示する史実

 神皇正統記にについて、日本語ウィキペディアには以下のように記されています。

 「・・・承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。

 「源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻北条政子や陪臣の北条義時がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫(後嵯峨天皇)に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。」・・・
 「モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王)の時代からこれまでに36もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。」・・・

 <神皇正統記は>また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。・・・
 徳川光圀が「大日本史」で親房の主張を高く評価し、・・・水戸学と結びつい<たことから、神皇正統記は、>・・・、後の皇国史観にも影響を与えた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98

 この神皇正統記について、この本では、小路田と京都府立大学博士課程の田中希生との間で論戦が行われています。
 すなわち、小路田が、

 「北畠親房<は、>神皇正統記<において、>・・・神意によって規定された予定調和的な万世一系ではなく、歴代天皇の、もし悪天皇が現れればその血統を倒し、新たな皇統を打ち立てる、血の滲むような努力--「維新」の繰り返し--の結果としての万世一系として捉えていた。・・・
 <だから、>・・・近代の天皇は・・・君徳の培養を求められ、拝まれる対象よりは、むしろ皇祖皇宗を拝む主体とみなされたのである。近代の天皇の外部に、三種の神器をはじめ、神宮や陵墓など、様々な祖宗の霊を象徴化する装置が配された所以であった。
 <このように>、易姓革命思想を肯定するということは、・・・承久の乱の敗者後鳥羽上皇を、「皇化」にこだわりすぎて「人望」を無視した廉で糾弾したように、「人望」=世論に「皇化」をこえる最高の政治規範を求める考え方の選択を意味した。」(98〜99頁)

 と主張したのに対し、田中は、

 「『神皇正統記』は・・・むしろ天皇親政の否定に読めるんですね。つまり、個人としての天皇は・・・悪い王であろうが、いい王であろうが・・・どうでもいい。とりあえず皇室というものがあることが大事なのだと。」(156頁)

と批判しています。

 この論戦については、私は田中寄りのスタンスです。

(続く)

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